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週刊READING LIFE vol.132

インドの夜明けに垣間見た、日常/非日常の境界線《週刊READING LIFE vol.132「旅の恥はかき捨て」》


2021/06/28/公開
記事:小北 采佳(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「ガンジス川の水でお清めをしよう」
そう言われたとき、私はなんとも言えない後悔と、申し訳なさを感じた――。

 

 

 

2019年の夏、私は大学時代の親友と一緒に、インドを旅行した。
旅行のスタイルとしては、私と友人に現地ガイドさんが付き添い、3人で観光地を巡るタイプのツアーだった。私も友人もインドに行くのが初めてだったので、どんな旅行になるのかとてもワクワクしていた。
 
この旅で私が一番楽しみにしていたのは、ガンジス川を見に行くことだった。
ガンジス川はインドで最も有名な川と言っても過言ではないので、誰しも一度は聞いたことがあるのではないだろうか? 歴史の教科書にも出てくるし、人々がガンジス川のほとりにずらっと並んで沐浴している風景をテレビで見たことがある人もいるだろう。
 
私自身も「インドといえばガンジス川」というイメージが強く、「インドに行くんだったら、絶対ガンジス川を見てみたい!」と熱烈に友人に訴えたので、私たちはツアーの内容にガンジス川の見学も入れてもらっていた。
そういうわけで、インド旅行の3日目、私たちは、それまで滞在していた首都デリーから、ガンジス川の沐浴で有名なバラナシという町に向かったのだった。
 
そもそも、なぜインドの人々はガンジス川で沐浴をするのかご存じだろうか?
インドは人口の大部分がヒンドゥー教徒なのだが、ガンジス川は彼らヒンドゥー教徒にとって、とても重要な場所である。ヒンドゥー教の信仰によると、ガンジス川の聖なる水で沐浴すれば、全ての罪が清められるからだ。さらに、死後に遺灰をガンジス川に流してもらえれば、輪廻転生から解脱できるとも言われている。つまり、死後に来世で生まれ変わってまた別の人生を生きる、というサイクルから抜け出せるのだ。この輪廻転生から抜け出すことは、ヒンドゥー教徒にとって最高の境地であるらしい。
ということで、ガンジス川はインドのヒンドゥー教徒にとって、まさに「聖なる川」なのである。
 
そして、私たちが向かったバラナシという町は、3000年以上の古い歴史を持つ、ヒンドゥー教最大の聖地であった。この町には、実に年間100万人を超える巡礼者が訪れている。そしてその中には、ガンジス川に遺灰を流してもらうため、自身の死を迎える場所として、バラナシにやって来る人もいるそうだ。
私はヒンドゥー教徒ではないが、ヒンドゥー教徒の聖地として名高いガンジス川をついに見られることに、非常に高揚感を覚えていた。
 
首都デリーからバラナシに向かう寝台列車の中で、「バラナシで行きたい場所があったら、連れて行ってあげられるように調整してみるから、教えてね」と現地ガイドさんから言われた。現地ガイドさんの名前はスニールといい、26歳の男性である。大学で日本語の勉強をしていたそうで、日本語はペラペラであった。
 
寝台列車のベッドで横になりながら、私はバラナシの情報をスマートフォンで調べてみた。
すると、「火葬場が必見」という内容の記事がいくつもヒットした。
どうやら、バラナシで死を迎えるために集うヒンドゥー教の人々が多いので、ガンジス川のほとりには火葬場がいくつもあるらしい。そしてなんと、ヒンドゥー教の人々が火葬されている様子を、観光客が見学できるのだという。
火葬場については、「火葬の様子を見て、生と死について考えた」とか、「今までにない体験だった」という体験談を熱く語った記事がたくさんあった。そのような記事を読んで、「おお、なんかすごい体験ができそう」と思った私は、あまり深く考えずに、スニールに「火葬場に行ってみたい」と伝えたのであった。
 
実は後々、私はこの時の軽率な決断を反省することになるのだが、それは後述することにする。

 

 

 

翌日、私たちはバラナシの駅に降り立ち、車でホテルまで向かった。
車の中から街中を見ていると、金色の布で包まれた何かが担架のようなもので運ばれていく様子が目に入った。「あれは何?」と聞くと、スニールは「あれは火葬場へ運ばれていく、亡くなった人ですよ」と答えた。
この後も、私たちは死者が担架に乗せられて運ばれていく様子を何度か見た。日本では、街中を亡くなった人が担架で運ばれていくなんて光景は見ることがないので、私たちにとってはとても珍しい体験だ。
ヒンドゥー教徒は自身の死を迎える場所として、バラナシにやって来る人もいる。バラナシでは、人々は「死」というものを至るところで目にし、身近なものに感じているのかもしれないと思った。
 
火葬場に行くのは翌朝早朝だった。
まだ薄暗いうちに起きて、スニールの後について、ガンジス川のほとりにある火葬場へと歩いて向かった。火葬場には細い裏道を通って行ったのだが、早朝なのにとにかく人が多いし、かなり気温が高く、空気が埃っぽい。スニールを見失わないよう、カラフルなサリーを着たインド人女性たちの間をくぐり抜けるように足早に歩いていった。
 
途中までは人通りが多い道を歩いていたが、いつの間にか私たちは薄暗い裏路地のようなところに入っていた。地元の住民が道々こちらをじっと見てくるので、やや居心地が悪い。しかもインドでは街中に牛が放し飼いにされており、足元に牛糞がたくさん落ちているので、避けて歩くのも大変だ。
「これってさあ、火葬場に行く正規ルートじゃないよね?」と私の友人が言う。確かに、火葬場へ向かうちゃんとした道のりを歩いているというよりは、明らかに裏道を通って向かっているようであった。火葬場が観光客でも見学できることはガイドブックにも書いてあったが、裏道からこっそり入らないといけないような場所なのだろうか? 薄暗い路地を早足で歩きながら、私たちはこのまま火葬場に行って大丈夫なのだろうか? 見学してもいい火葬場はスニールが探してきてくれたが、実はあまりやってはいけないことをやっているのではないか? とうっすら不安になった。
 
ほどなくして火葬場に着くと、私たちの他にも観光客が一組来ていたので、少しほっとした。
 
まだ朝6時だというのに、もう火葬は始まっていた。
屋外の開けたスペースに案内されると、そこで6体のご遺体が同時に火葬されていた。日本の火葬場のように、ご遺体を窯に入れるスタイルではなく、それぞれ直火で火葬されており、そこから煙が立ち上っている。そして、傍らには、昨日街中を担架で運ばれていったような、金色の布で包まれたご遺体がいくつか並んでおり、火葬されるのを待っていた。
 
火葬場に行きたいと言い出したのは私だが、朝からご遺体が火葬されるなんとも生々しい様子を目の当たりにするのは、決して爽やかな気持ちではない。火葬がどういうものか、頭ではもちろん分かっていたが、思ったよりも衝撃的な光景に向き合い、ずうんと重たい気持ちになっていた。
 
ひとしきり火葬の様子を見学したあとで、スニールが私たちに言った。
「ガンジス川の水でお清めをしよう」
なるほど、日本ではお葬式に出た後に塩をまいてお清めをしたりするが、それと同じようにインドでは聖なるガンジス川の水でお清めをするのだろう。
 
そして私たちは火葬場からガンジス川のほとりに向かった。
ガンジス川のほとりは、朝から沐浴をする人々でかなり込み合っていた。もう、渋谷のスクランブル交差点並みに人がうじゃうじゃいる。ガンジス川自体は濁っているのだが、向こう岸が見えないくらい大きな川面に朝日が反射して、とても美しい光景であった。
 
私たちはこの人だかりの合間をぬって、ガンジス川の水で手を洗い、お清めをした。
お清めについて、スニールは「本来であれば頭からガンジス川の水をかぶって全身を清めたい」と言っていたが、この後も私たちのガイドがあるので、手を洗う程度にとどめてくれた。
 
スニールから「ガンジス川の水でお清めをしよう」と言われたとき、私はなんだか申し訳ない気持ちというか、「やっちまった」と後悔にも似た気持ちになった。
そもそもお清めをするというのは、悪い「気」のようなものを払ったりしたいときにする行為だと思う。つまり、火葬現場で人の死に触れることは、スニールにとっては一種の「タブー」だったのではないか、と瞬間的に感じたのであった。
 
バラナシでは、街中を死者が担架で運ばれていくし、火葬場がガンジス川のほとりにいくつもにあって、確かに死は身近に感じられるものだと思う。しかし、いくら身近にあるとはいえ、それは「生と死との境目がない」ということとは違うのだろう。
 
日本では、伝統的な世界観として「ハレ」と「ケ」という考えがある。「ハレ」は儀礼や祭り、年中行事などの非日常のことで、「ケ」というのは普段の日常生活のことである。つまり、人々の暮らしの中には、「非日常」と「日常」の境目があるということだ。
日本で人の死に触れることは「非日常」だと思う。インドでも、それは同じなのではないだろうか。
 
そう考えると、今回私が興味本位で火葬場に行ったのは、「日常」と「非日常」、または「生」と「死」との境目を飛び越えることだったように思えてくる。この2つの境界を、こんなにも軽い気持ちで飛び越えてよかったのだろうか?
火葬場に行ったこと自体はなかなかできない体験だったと思うが、軽い気持ちで火葬場に向かってしまったことに対しては、モヤモヤした罪悪感と反省の気持ちが残ってしまった。
 
そもそも私は今回なぜ、火葬場に行くことに何の抵抗もなかったのだろうか? 考えてみると、私にとってはインド旅行自体が「非日常」なので、「日常」と「非日常」の感覚がすっかりマヒしてしまっていたとしか思えない。旅行というのは確かにいつもできない体験にテンションが上がるが、冷静なマインドも持っていなければいけないと感じた。
 
また、インドでは火葬場をいくら観光客に公開しているとはいえ、ヒンドゥー教徒にとっては輪廻転生をかけた、神聖な場であるはずだ。部外者であるからこそ、スニールや現地に住むインド人へのリスペクトの気持ちも、忘れてはいけない。

 

 

 

よく、「旅の恥はかきすて」という。
旅先では知っている人がいないから、どんなに恥ずかしいことをしても、その場限りのもの、という意味だ。
 
でも、本当に「その場限りのもの」で済むのだろうか?
 
私個人としては、いくらインドで軽率な行為をして恥をかいても、確かにその場限りのものだろう。しかし、「日本人はこういう人たちだ」というより大きなイメージの問題につながってしまう可能性はある。例えば、「日本人はご遺体が火葬される様子を見たがる、慎みのない人たちだ」とか。私が残した「旅の恥」によって、他の日本人観光客が迷惑を受けてしまうこともあり得ると思う。
 
また、観光客にとって、旅行は確かに「非日常」であるが、現地の人々はそこで彼らの日常生活を営んでいる。観光客として、現地に暮らす人々の営みを尊重し、人々の日常にさざ波を立てたりしないように配慮する姿勢が大切だと強く思う。
 
ガンジス川は、インドの人々の生も死も、かつての私の軽率な行動も、すべてを目の当たりにして、今日も悠々と流れているのだろう。
私がガンジス川とインドの人々から教わった、現地の人々へのリスペクトの気持ちは、これからも忘れないようにしたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
小北 采佳(おぎた あやか/READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

山形県生まれ。山形→仙台→ハワイ→東京を転々とし、現在は東京都在住。
高校時代、数学のテストで200点満点中4点しか取れないほど理系科目が苦手だったが、現在はシステムエンジニアとして日々奮闘中。
故郷山形と東京を行き来する中で、地方と都市部に住む20代~30代女性のライフスタイルについて考えている。

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2021-06-28 | Posted in 週刊READING LIFE vol.132

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