お父ちゃん、今思うと、あの時富士山で死んでいてもおかしくないなぁ《週刊READING LIFE vol.140「夏の終わり」》
2021/08/23/公開
記事:晴(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「富士山に登ろうか」
全ては、父の一言から始まった。
我が家は毎年お盆に、家族で旅行に行くことが恒例で、私が大学1年生の時の家族旅行の行き先は富士山だった。
そう。これは、あくまで家族旅行であって、家族登山ではなかった。
きっかけは、父が「富士山マラソン」のテレビ中継を観たことにある。
父は、マラソンや駅伝といった類のものを観るのが大好きだった。ニューイヤー駅伝、箱根駅伝、別府大分毎日マラソン、名古屋ウィメンズマラソン、びわ湖毎日マラソン、福岡国際マラソンと毎月何かしらのマラソン大会がテレビに映し出されており、「富士山マラソン」のテレビ観戦もその一環であった。ただし、父は「観る専」であり、自ら走るといったことはなかったし、その時までは、考えたこともなかったと思う。
「富士山マラソン」は、正式には「秩父宮記念 第〇回富士登山駅伝競走大会」という名称で、マラソンではなく駅伝である。
この駅伝大会は、毎年8月第一日曜日に、静岡県御殿場市で開催され、富士山の麓と山頂を
6名のランナーが「たすき」をつないで往復する。現在は、ゴール地点を御殿場市陸上競技場に移しているが、当時は、御殿場駅前をスタート・ゴール地点としていた。
このレースは、日本一過酷なレースと言われており、その過酷さを、御殿場市のホームページから引用する。
「標高差3,199m、気温差20数度、全長47.93㎞、高山病や落石の危険等々、他チーム以上に厳しい対戦相手となる山岳コースを日本各地から集まった約80チームが健脚を競い合います。「たすき」を受け渡しながら疲労困憊で倒れこむ選手続出の心身完全燃焼レースです」(以上、御殿場市ホームページ>教育・文化・スポーツ>スポーツ>駅伝競走大会>秩父宮記念富士登山駅伝競走大会より)
実際、このレースの上位のほとんどが自衛隊のチームで占められており、完走はおろか、挑戦するのにも相当な覚悟とトレーニングがいる。
だが、「ランニングシャツに短パン姿」の若者たちが富士山を駆け上り駆け降りる映像を観て、父は、富士登山を簡単だと思い込んでしまい、家族旅行の行き先を決めた。
富士山には、登山口の標高が高い順に、「富士宮ルート」、「吉田ルート」、「須走ルート」、「御殿場ルート」の4つの登山ルートがあり、登山口の標高が低いほど、当然のことながら歩行の距離も時間も長くなる。
「富士宮ルート」と「吉田ルート」は、歩行距離が短い上に登山客も山小屋も多く、初めて富士山に登る場合、十中八九このどちらかを選ぶ。これに対して「御殿場ルート」は、歩行距離が最も長く、登山客もまばらで、山小屋もあまり無い。
今のようにインターネットも無い時代、私たちの富士登山に関する情報は、父がテレビで観た「富士山マラソン」が全てだったため、私たちの登山口は「御殿場」と最初から決まっていた。その日、御殿場登山口の駐車場には、私たちのほかに一人か二人の登山客しかいなかったが、知識も経験もなかった私たちは、そういうものとして受け止めた。
今さら言うまでもないが、この年の「家族旅行」は、初っ端から無謀なものだった。
だが、私と父は、いくつもの偶然と幸運に後押しされ、山頂に立つことになる。
まず一つ目の偶然は、富士山頂でご来光を拝みたいと思った父が、夜間登山を選んだことだ。
私たちは、夕方、父が仕事から戻ってくるのを待って、白のハイエースに荷物を詰め込み、彦根から御殿場を目指して夜の東名高速道路をひた走った。
御殿場5合目の駐車場に到着したのは、夜の10時を回っていたと思う。標高1,440メートルにある駐車場は、ひんやりと夜露が降り、半そででじっとしていると鳥肌が立つほどだった。母の財布の中の少し多めの現金、チョコレート一袋を含む少量のお菓子、ファミリー用の水筒1本、雨合羽2セット、一家四人分の装備の全てを一つのリュックに詰め込み、私たちは富士山頂を目指した。
夜の涼しい風が、気持ちよかった。
おそらく昼間に登っていたら、富士山の全容が視界に入り、眼前に広がるこの先の果てしない行程が、登る気力を奪ったと思う。
また、昼の直射日光を浴びながら登っていたら、暑さと紫外線が身体から体力と水分を瞬く間に奪っていき、水筒1本のお茶は、すぐに底をついたに違いない。
夜の暗さが、視界と直射日光を遮ってくれたおかげで、何も知らないままにご来光に向かって最初の一歩を踏み出すことができた。
二つ目は、この日が、満月の夜だったことだ。
まぶしいほどの月明かりが、火山性の砂利に埋め尽くされた富士の山肌に、ジグザグに刻まれた登山道を、コールタールのような光沢で浮かび上がらせていた。懐中電灯も持たずに登っていた私たちが、道に迷うことなく山頂を目指せたのは、まぎれもなくこの月明かりのおかげだった。
見上げると、薄墨色の夜の空に漆黒の霊峰富士のシルエットがくっきりと浮かび上がり、自分たちの目指す場所が示されていた。月光は、太陽ほどあけっぴろげに全てを照らすことはしないが、必要な情報のみにスポットライトを当て、私たちを導いていた。
白々としたその光は、夜の冷気をまといながらも優しかった。
三つめは、登り始めて間もなく、母と姉が、「降りる」と言い出したことだ。
5合目から登り始めて、次の6合目までまだ半分も行っていなかったと思う。
二人は、息があがり、頭痛や吐き気がし始めた。
高山病だった。
富士登山のツアーでは、5合目で最低でも1時間は休憩を取る。身体を高度に慣れさせるためだ。それと同時に、身体を休め、水分や栄養を補給し、装備を整えるためでもある。そこからゆっくりゆっくり歩き始める。
私たちは、身体を休めることも、水分を補給することも、整える程の装備も持たず、いきなり富士山に取りつき始めた。私の足元はタウン仕様のハイカットのスニーカーで、山靴でもなければ、運動靴ですらなかった。
「せっかく来たんやから、お父ちゃんとはるは、登ってきぃ」という母の鶴の一言で、私と父の続行があっさりと決まった。
自分が持っていたリュックを父に渡し、母は、姉と二人で山を下りていった。二人の背中に月光が届かなくなるまで、父と私は見守り続けた。
だが、四人分だった食料やお茶、装備が、ここで一気に二人分になったことで、現実的には少し余裕ができた。特に雨合羽は、文字通り父と私の命を守ってくれることになったのだが、このことは後述する。
四つ目の幸運は、アメリカ軍の兵士に遭遇したことだ。
母と姉に別れてから、私と父は、富士山特有の火山砂利に悪戦苦闘していた。砂利道では、「一歩踏み出しては半歩ずり落ち、また一歩踏み出しては半歩ずり落ち」を繰り返し、一向に標高を稼ぐことができないでいた。
そんな時、「ザッ、ザッ、ザッ、ザッ」規則正しく力強い複数の足音が近づいてきたかと思うと、あっという間に抜き去っていった。三つの黒い大きなかたまりが、その大きな背中にさらに大きなザックを背負って隊列を組んでいた。
私と父は、一瞬のことで、ポカンと馬鹿みたいに口を開けていたかもしれない。
三人の大男をやり過ごし、また砂利道をとぼとぼと登っていくと、小さな掘っ立て小屋があった。(後に調べて、6合目手前の気象庁の避難小屋で一般の登山者は使用不可だということがわかったが、その時はただの掘っ立て小屋だと思っていた)
小屋の中では、さっき私たちを追い抜いて行った大男たちが、ランタンを灯し、バーナーで湯を沸かしていた。灯りに照らされた三人の顔を見て、初めて彼らが外国人で、私とほとんど歳が違わない若者であることを知った。
私たちが小屋に入る時、若者たちは私と父に軽く笑いかけ薄く会釈をした。彼らと少し距離を取って腰をおろし、袋入りのチョコレートを食べ水筒のお茶を飲みながら、私と父は既にかなりの疲れを感じていた。
その時、一人の若者が私たちにカップを一つ差し出してきた。
バーナーで沸かしたお湯でコーヒーを淹れ、それを私たちに分けてくれたのだ。「サンキュー、サンキュー」と言いながら受け取ったコーヒーは、本格的にドリップしたもので、私と父は代わる代わるコップを手に取り味わった。コーヒーは、芯の芯から温かくうまかった。
後々まで、父は、「はる、あの時のコーヒーはうまかったね」と言い続けた。
私は、父と「こそこそ」日本語で相談し、コーヒーのお礼にいくつかチョコを渡しにいった。フルタ製菓のひとくちチョコレートだったように記憶している。
私と父の間で、彼らは御殿場の米軍基地の兵士で、夜間訓練の最中だったに違いないということになったが、真偽のほどは今もわからない。
カップを返して一足先に小屋を出た私たちを、三人組は、再び風のごとく抜き去っていった。
だいだい色の灯りにほんのり照らされた小屋の中で、うまいコーヒーを飲み、つかの間の国際交流を楽しみ、思いがけない人情に触れたことで、私と父のテンションは「うなぎのぼり」に上がり、感じ始めていた疲れは吹き飛んだ。
この出会いが無かったら私たちは登ることをやめていたかもしれないと、今でも思う。
五つ目の偶然は、父も私も異常に忍耐強いことだ。
アメリカ兵と別れてからも、砂利道歩きは相変わらずで、私たちは、一向に山頂に近づいている感じがしなかった。それでも、少しずつ高度は上がり、酸素は益々薄くなり、気温はどんどん下がっていったが、私も父も「疲れた」とも「しんどい」とも「やめたい」とも「降りたい」とも一切言わず、黙々と歩き続けた。
そういった言葉が脳内から消え去ってしまったかのように。
そういった言葉を元から知らなかったかのように。
私たち二人は、似た者同士だった。
そんな私たちも、夜が明ける直前の寒さはどうにも我慢ができなかった。富士山頂は、夏でも最低気温が2度を下回ることがある。この状況下で、防寒できるかできないかは、生死を分かつ。我慢や忍耐でどうにかできることではない。
私たちの身体を保温し守ってくれたのは、母が念のためにと持参し、父に手渡した上下がセパレートになった雨合羽だった。雨も降っていないのに、合羽を着るのは初めてのことだったが、ズボンをはいて上着を羽織ると、身体の震えが止まり、また歩き出すことができた。
そうこうしているうちに、8合目あたりで空が白み始め、周囲の様子が少しずつ伺えるようになった。見渡すと、私たちは雲の上におり、はるか向こうまで続く雲海の端に真っ赤な球となった太陽が顔を出し始めていた。
ご来光だ。
その場に居合わせた全員が歩みを止め、赤い球が完全に光りを放つまで、固唾を飲んで見つめ続けた。太陽は、眩しく、熱く、力強かった。
それから山頂に着き、富士山頂上浅間大社奥宮への参拝を済ませ、山頂郵便局で友人あてのハガキを投函し、山小屋でカレーを食べ、甘酒を飲み、父と私は母と姉が待つ駐車場へと戻った。
腰に雨合羽を巻き付け、汗と砂で顔中真っ黒になって山から降りてきた私たちの格好を見た母が、「ルンペンみたいだ」と言って笑い、姉の顔にホッと安堵の表情が浮かんだ。
こうして、この年の私たち家族の短い夏が終わった。
次の年、姉は大学4年生になり、夏休みは就職活動に明け暮れた。なので、これが私たち4人で行った最後の家族旅行になった。
この「富士登山」は、決して褒められたものではない。
無知とは言え、十分な計画も装備も身体づくりもせずに富士山に登るのはもってのほかだ。
それでも私は、最後の「家族旅行」が富士山でよかったと思っている。最初の数百メートルだけかもしれないが、4人きりで月明かりを頼りに歩いたことや、無口な父と無言で歩き続けた時間は、今も私の宝物だ。
その後、糖尿病を患い、だんだんと弱っていった父が、一番元気な頃の最後の記憶だと思う。
家族は、いつまでも一緒に過ごせると思っていたが、その後、姉が嫁ぎ、私が嫁ぎ、父は亡くなった。
今、「私の家族は」と問われたら「夫と私、長男、次男」の4人と答えるだろう。
だが、その長男も結婚し、新しい家庭を持った。
長男が「自分の家族」と問われて思い浮かべるのは、「自分と妻と息子(私の孫)」になるのだろう。
もう、記憶や写真の中でしか集合することができない「父と母と姉と私」の四人家族。
あの日、父が両手で大事そうに抱えて飲んでいた「うまいコーヒー」の香りとともに、私の胸に刻み込まれている。
□ライターズプロフィール
記事:晴(READING LIFE 編集部 ライターズ倶楽部)
2021年2月より、天狼院書店にてライティングを学び始める。
1966年生まれ、立命館大学卒 滋賀県出身 算命占星術「たなか屋」亭主
趣味は、山登りと不動産鑑賞
お問い合わせ
■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム
■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。
■天狼院書店「東京天狼院」
〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)
■天狼院書店「福岡天狼院」
〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
■天狼院書店「京都天狼院」
〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00
■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」
〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168
■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」
〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325
■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」
〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984