週刊READING LIFE vol.147

コンプレックスからの卒業《週刊READING LIFE Vol.147 人生で一番スカッとしたこと》


2021/11/15/公開
記事:田盛稚佳子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
 
 
いつの頃からか、手にコンプレックスを持つようになった。
丸っこい指、短すぎる爪、そして一番の悩みは「汗」である。
手汗というのが特にひどいのである。
テスト中に少し緊張って、しっとりと汗をかくということは少なからずあることかもしれない。
しかし、私の手はそんなにかわいいものではない。
手のひらをぱあっと開くと、キラキラ光って見えるほど一面が濡れてしまうのである。
いわゆる「多汗症」と呼ばれるものだ。
 
小学校から今まで、何度悩まされてきたことか。
最初の憂鬱は小学一年生のときだった。
私が通っていた小学校は春に「新入生歓迎遠足」なるものがあり、後ろから見るとまるでランドセルが歩くように見えるホヤホヤ一年生が、六年生に手をつないでもらい、近くにある山の頂上までひたすら歩くという内容だ。
「はーい、みなさーん。六年生のお兄さん、お姉さんとしっかり手をつないでもらって、はぐれないようにがんばりましょうねー!」
という担任の先生の声が響く。
一人っ子かつ人見知りだった当時の私は、名前も顔も知らない六年生と手をつないで小一時間歩くことになった。
極度の緊張と知らない人に手を握られる嫌悪感で、じわりと右手が汗ばんでくる。
少し歩いては、「すみません」と手を離して、スカートで右手を拭いては、またつなぐという繰り返しである。
「どうしたの? 緊張しているの?」
と六年生は声をかけてくれるものの、まだ「多汗症」という単語を知らない私は、どう説明していいのかもわからずに、ただただ黙って山へ向かって歩くだけだった。
やだやだやだ、早く山に着けばいいのに! と思いながら。
 
二回目の憂鬱は運動会である。
これは毎年あるので、本当に休んでしまいたいくらいの苦痛だった。
なぜなら、学年ごとに必ず行われるフォークダンスがあったからだ。
フォークダンスと言えば、必ずかかる曲「オクラホマミキサー」のイントロが流れるたびに、ああ、またぐるぐる手汗リレーのようなことをしなければならないのかと頭を抱えるようになった。
好きという気持ちが1ミリもない男子と手をつなぐという行為を延々と繰り返す、私にとっては忌々しいダンスである。
じっとり濡れた両手を体操服で毎回拭きながら、次の男子へバトンタッチするという、傍から見れば極度の潔癖症(当時はまだその言葉も知らなかったが)の状態が中学三年生まで続いた。
何が嫌かというと、手汗をかいていることで「手が汗ばんでいる→緊張している→実は俺のことが好きなんじゃないの?」という誤解を与えてしまうのではないかという気持ちがあったからである。
実際に「うえっ」とか「なんなん?」とかギョッとした目で見られることも多く、私の運動会は、いい思い出が一つもない。
「もう、フォークダンスなんていったい誰が考えたんだよっ!」と心の中でひとりごちた。
 
また授業参観でも困ることがあった。
仮に一番後ろの席に座っている場合、すぐ後ろに保護者たちがずらりと並んでおり、時おり板書しているノートをちらっとのぞき込んでくることがある。
ただでさえ、テストの時は答案用紙が破れてしまうほどの量の汗をかくため、鉛筆で書くことができない状態である。
それが、50分間見られていると思うと、手汗はどんどん止まらなくなり、ノートはよれよれ。板書しても授業の中身はさっぱり頭に入ってこない。視線を感じると余計に集中できなくなるのだ。
 
これはまずい……。なんとかしなくては。
受験生になった私は、自宅にあった分厚い赤い本を開いてみた。「家庭の医学」である。
「汗、汗、汗……」と目次を探していたら、わりとあっさりと見つかった。
「多汗症」と書いてあるではないか。
そうか、これは病気なのか、と15歳の私はその単語がちょっと腑に落ちた。
じゃあ、とりあえずハンカチを持ち歩いてこまめに拭いていればいいのだな、と受験の時も事情を話して机の上にハンカチを置くことを許してもらった。
幸いにも、母親にはその悩みを話せたので、知り合いの皮膚科の先生に聞いてもらった。
すると「多汗症は若い人に多いのよ。若くて代謝がいいからね。たぶん20歳を過ぎた辺りから、少しずつ汗の量も減ってくると思いますよ」という回答だった。
そうか、じゃああと5年くらい我慢すれば落ち着くのだな、と私はハンカチ作戦で乗り切ることにした。
 
ところがである。
20歳を過ぎて、就職も無事に出来たと思っていたのに、社会人になっても手汗の量は減るどころか増える一方だった。
当時、総合職として入社した私はルート営業で近畿や北陸地方を回っていた。
まず、名刺交換の時点が難関だ。しっとりと自分の名刺の両角が濡れてしまい、よれよれの状態で相手に渡すことになる。
学生時代に嫌というほど見た、テスト時のしわしわ解答用紙のトラウマが蘇る。
せっかく落ち着くと思っていたのに全然良くならないじゃないか、と落胆してしまう。
というわけで、名刺交換は先方から頂いてこちらから渡す直前に名刺入れから出すことにした。手に触れる時間を0.1秒でも短くしたかったのである。
 
また社内で電話をしている時にも困ったことが起きた。たまった手汗が手首をつたって、つーっと腕を流れ落ちてくるのである。通話中に手首にひやりとする感覚がものすごく嫌だった。
途中、受話器を持つ手を右手に変えて汗を拭き、しばらくしてまた左手に戻して交互に汗を拭きながら話すので、さぞかし落ち着きのない挙動不審な新入社員だったに違いない。
上司からは「何でそんなに汗かいているの? もしかして、相手が大手のバイヤーだからかな? なぁに、そんなに緊張しなくてもいいって」と嘲笑される始末である。
それ以来、会社に行くときもプライベートでも、私のバッグの中にはハンカチが2枚入っていることが、当たり前になっていた。
 
その頃、雑誌の広告で「多汗症のお悩みの方」という内容がやたら目につくようになった。
自分に関係ない広告はスルーするのに、何か一つ気になっていることがあると、どんなに小さい広告でも目に入ってしまう。不思議なものである。
ふむふむ、手術という手があるのかと雑誌の内容そっちのけで広告ばかり読んでいた。
やがて、インターネットが普及し、いろんな情報が手に入るようになった。
社会人になって5年ほど経ったころ、私は思いきって病院で相談してみようと思った。
福岡市内でも多汗症専門の病院があることを知り、ペインクリニックというこれまた聞きなれない名前ではあったが、とりあえず予約することにした。
専門家の意見を聞かなければ、この先、一生これに悩まされると思いつめていたのである。
 
有休を取ったある日の朝、おそるおそる病院のドアを開けると、てきぱきとした感じの受付の方が対応してくれた。
そして、いよいよ診察室へ。ぱあっと広げた私の手のひらを見て、医師は言った。
「あー、これはけっこう汗かきタイプだね。これだけ汗かくと、いろいろと大変でしょう?」とすぐに察してくれた。
「先生、そうなんです! 実は小学校の頃からずっと悩んでまして……」と今までの経緯をまとめて話してみた。
そして、できれば手術をしたいことを強くお願いをした。
「手術したら治りますよね? 今の状況から解放されますよね?」
藁にもすがるような思いだった。
医師はひと通り私の話を聞いた後に、説明してくれた。
「そうですね。手術をすることになれば、わきの下の辺りを切って、そこから内視鏡を使って直接手のひらに関係している汗腺を切除することになります。そうすれば、今のように手汗をびっしょりかくことはなくなるでしょう」
やった! 私の予想通りの答えが返ってきた。一筋の明るい光が差してきたと思った直後、
「ただ……、実はデメリットもあるんですよ」と医師は続けた。
え? どういうこと? そんなこと今まで見た雑誌の広告には、一つも書いていなかったからである。
 
「まず、手術できるか血液検査を細かく行うため4千円ほど、実際の手術となると最低でも10万円はかかります。それで手汗はおさまるかもしれませんが、その代わり、別の部位から発汗することがあるんですよ。それに悩まされるという可能性は否定できないんです」
医師によれば、「代償性発汗」といって、背中や腰、お尻、太ももの辺りから大量の汗を出すことがあり、ひどい人では一日に何度も下着を変えなければならないほどの状態になるのだそうだ。時にはスーツまで濡れる人がいるとも聞いた。
「まぁ、あなたが治したい気持ちはよくわかりますが、今申し上げたリスクもよくよく考えたうえで、またいらしてみてはどうでしょう? 焦ることはありませんよ」
病院からの帰り道、医師の言葉を何度も頭の中で繰り返しながら考えていた。
 
そうか、私は目の前の手汗を治すことだけしか考えていなかった。
手術で100%治るなんて、雑誌の広告だけを信じていたのがバカらしく思えてきた。
広告なら都合のいいことだけ並べられていたっておかしくない。
ふと冷静になることができた。ハンカチ1枚持ち歩くだけで事足りるなら、そのほうがいいのかもしれない、と。
 
病院での診察を受けた数日後、知人の紹介である男性と知り合った。
食事でもいかがですか、という誘いを受けた私はそこまで乗り気ではなかったものの、行くことにした。
しかし、当日になってよくよく考えたら二人きりの食事ではないか! と心がざわざわし始めた。箸を持つ手から汗がしたたり落ちる様子を想像して、断ろうかとも思ったのだが、さすがに当日のドタキャンは印象が悪い。仕方ない、行こう。
待ち合わせの店に行くと、もう彼は先に着いておりニコッと迎えてくれた。
不思議なことにその食事の時間中、手汗をかいていないことに気づいた。あれ? おかしいな。病院に行っただけで治ったのか? と錯覚するほどだった。
無事に食事を終えて、自宅の近くまで車で送ってくれるという好意に甘えて、「失礼します」と助手席に乗り込んだ。
車という密室、しかも今日初めて二人きりで会ったことに、私の体温がぐっと上がったのが一瞬でわかった。
どうしよう、緊張してきた。やっぱり、そんなにすぐ手汗が治るはずなんてない!
赤信号で車が停まったその時、彼の左手がすっと私の右手を掴んだ。掴んだ手の先には、にわかに増してきた私の手汗がある。
嫌われる! とっさに私は手を払いのけた。彼が一瞬驚いたのがわかった。
「あ……、ご、ごめんなさい。私、実は多汗症なんです。手、気持ち悪いでしょ? 本当にすみません」
彼は嘲笑することなく、真面目な顔で言った。
「いや、僕は全然嫌じゃないよ。なんか緊張してるかと思っただけ。いいじゃない、ちゃんと生きてるって感じがして。大丈夫、そんなに気にしなくていいんだよ」
 
彼の言葉を聞いて、なんだか今までうじうじと悩んでいた自分がすごくちっぽけに見えてきた。長い間、頭を抱えるほど悩んでいたのに、ものの一週間で二人の人が理解して認めてくれただけで、人は変わることができるのかとすっきりした気持ちになった。
いつの間にか右手の汗はすっかりひき、彼の左手の温かさを感じられる自分になっていた。
 
翌日、私は診察してくれた病院へ断りの電話をした。
「あれから考えたんですけど、手術はしないで手汗とも付き合っていこうと思います。いろいろと教えてくださって、本当にありがとうございました」
 
あの電話から20年近く経った。手のコンプレックスも気にならなくなった。
病院の電話番号は私のスマホの電話帳からは削除されたが、代わりに手を握ってくれた彼の携帯番号は今でも入っている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
田盛稚佳子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)

長崎県生まれ。福岡県在住。
西南学院大学卒。
天狼院書店の「ライティング・ゼミ冬休み集中コース」を受講したのち、READING LIFE編集部ライターズ俱楽部に参加。
主に人材サービス業に携わる中で、読んだ方が一人でも共感できる文章を発信したいと思っているアラフィフの秘書兼事務職。

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2021-11-10 | Posted in 週刊READING LIFE vol.147

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