夏の浮かれすぎには要注意だが、浮かれることに罪はない《週刊READING LIFE Vol.160 まさか、こんな目にあうとは》
2022/03/07/公開
記事:宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
宣誓!
わたしは、日本の夏が、東京の夏が、大好きだ!
蒸し蒸しとした空気に、強い太陽の日差し。
真っ青に突き抜ける空に、高く盛り上がる入道雲と、大きく花ひらく向日葵。
昼間にぎやかに鳴き盛るアブラゼミ、陽が傾く頃にしっとり鳴き始めるヒグラシ。
いくぶん涼やかになった夜、微かに、だがにぎやかに響く、どこかの打ち上げ花火や祭りの囃子。
子供の頃から夏が好きだった。
一年中、夏が続けばいいと思っていた。
わたしは、千葉の日没する町に生まれ、東京の日出る町で育った。
そのどこかに夏が好きになった理由があるに違いない。
だか、いつどこにあったのかはわからない。
しかし、心の奥底から日本の夏、東京の夏が大好きだとわかったのは、ちょうど三十歳のとき。
二年間過ごしたイギリスから帰国して、むかえた最初の夏だった。
イギリスは、日本と同じ島国だ。
わたしが暮らしたのは、首都ロンドンから北西に120キロほどの郊外にあるコベントリーという町で、この郊外にある大学で博士研究員として仕事をしていた。
緯度でみると、コベントリーは北海道よりさらに北、樺太島の北部とほぼ同じだ。だが、ブリテン島の周囲には暖流が流れているため気候は比較的温暖だ。夏になると最高で30℃程度まで気温があがる。
とはいえ、日本と違って空気は乾燥しているため、さほど暑いとは感じない。エアコンがなくてもまったく問題なく過ごせる。
不思議なことに一度、真夏だというのにダウンジャケットを羽織って友達同士と談笑している学生を大学キャンパスでみかけたことがある。
なにか事情があったのかもしれない。
服を全部洗濯してしまったのか、空き巣に入られ夏服をすべて盗まれたのか。
たとえそうだとしても、日本の夏にダウンジャケットを着込むなど考えられない。
けれども、わたしが暮らしていた町ならば着られなくはない。
そう思える程度の暖かさだった。
だから夏でも、汗びっしょりになることはまったくない。
わたしは汗っかきだ。日本で暮らしている間は、夏ともなるとすぐにシャツはぐっしょり濡れてしまってきもちが悪かった。
そんなわたしでも、イギリス生活で服が濡れるほど汗をかいたことは一度もなかった。
とても暮らしやすい。
始めは喜んでイギリスの夏を過ごしていた。
ところが、夏が終わってみるとなにか物足りない。
ものすごく物足りない。
高緯度にあるイギリスの夏は短い。
八月も下旬になると夜はもう肌寒くなり、日差しは秋めいてくる。
そんな短さだけではない物足りなさがあって、さみしさが心を吹き抜けた。
イギリスで二年、研究を続けたのち、わたしは東京の大学に籍を移した。
イギリスでは学生時代と同じ研究テーマを続けていた。だが、アメリカの研究グループとの競争に敗れたことで、より視野を広げて研究をしたくなった。
いろいろと研究員の募集に応募してみた結果、東京の大学にある研究所に採用された。
それまでのわたしは、バクテリアやタンパク質といった生物の構造や機能についての研究を専門としていた。だがこのときに採用してもらったのは、海洋での遺伝子検出装置を開発している研究室だった。偶然にも、わたしが専門としていたバクテリアを検出装置のターゲットにしていた。そこで、わたしを採用してくれたのだった。
わたしにとって機器装置の開発は全く初めての経験だった。
同じ研究でもあらゆることがそれまでとは違っていて、かなり戸惑った。
だが、なにもかもが新しく、楽しかった。
開発した装置を実際の現場で動かす作業にも同行させてもらえた。
場所は沖縄よりもさらに南方。遠くにはもう台湾がみえるような海域だった。
期間は八日間。
もちろん、作業場所は船の上だ。
かつては「しんかい2000」の母船として活躍したこともある、全長約67メートルの海洋調査船だ。
沖縄にいくのも初めてだし、立派な調査船に乗るのも初めて。
船の上で何日も過ごすのも初めてだし、海水風呂も初めて。
そして、足元が揺られる中での実験作業も初めて。
なにもかもが初めてだった。
作業を始めてから三日後、船は沖縄本島の港に一時退避することになった。
台風が近づいてきていたのだ。
一時退避のため許可されているのは、港の中だけ。
わたし達は上陸できず、船内で過ごすことになった。
翌日、台風が襲ってきた。
揺れはするが怖さはない。ただ一日揺れていた。
酔い止めを飲んでいたから吐き気はない。
だが、恐ろしいほどの眠気に襲われ、まったく身体が言うことをきかない。
「船酔いって吐き気だけじゃないのか」
結局その日わたしは二段ベッドから起き上がれなかった。
一日まるまる眠ってしまったため、実験作業はできなかった。
台風が過ぎた翌日、船はまた調査海域まで移動を始めた。
身体は動かせるようになったが、食欲はなかった。
そんな船員を思いやるように、昼食にはカレーが出た。
スパイシーな香りが鼻腔と胃を刺激して、途端に食欲が戻った。
もう、うますぎて感動した。
こうして海に浮かぶ船の上で貴重な経験をさせてもらって帰京した数日後、同じ海でまさかの体験をすることになった。
海洋調査から戻ってすぐ、研究室のメンバーで一泊二日の熱海旅行へ出かけた。
昼前に到着し、昼食をたべると、さっそく海へ。
泳いだり、ビーチバレーやサッカーをしたり。
遊び疲れたところで、海の家でビールを一杯。
やっぱり夏はこうでなくっちゃ!
イギリスの二年間で物足りない夏を過ごしてきたわたしは、最高にきもちが良かった。
日はだいぶ傾き、もうまもなく海水浴の時間も終わりという時間になった。
「最後にブイまで泳ぎましょうよ!」
と誰かが言うと、皆こぞって海へ飛び込んだ。
わたしは、水が苦手だ。
だが、海は好きだし、温泉も好きだ。
矛盾していると言われるが、そうなのだからしかたがない。だから、浜辺には近づいても海にはあまり入らないし、風呂や温泉もちょっとつかってすぐに出てきてしまう。
水が苦手なものだから、泳ぎもさほど得意ではない。だが、困らない程度には泳げる。
楽しそうに皆が海に飛び込んでいったので、わたしも勢いで海に飛び込み泳ぎ始めた。
案外ブイまでは軽々と泳げた。
わたしが到着した頃、先発していたメンバーはブイで一休みして、浜に向かって泳ぎ始めるところだった。
ブイにつかまって彼らを見送りながらすこしだけ休むと、わたしも浜に向かって泳ぎ始めた。
しばらく泳いだときだった。
あれ。
あれれ。
あれれれ。
足が動かない…。
身体が言うことをきかず、全く泳げなくなってしまった。
これは、やばいぞ!
浜辺をみると、研究室のメンバーの何人かは到着していて、こちらに顔を向けている。
わたしは助けを求めて、手を振った。
浜まではまだかなりの距離があった。人の姿が森永ハイチュウぐらいの小ささにしかみえない。
でも、わたしが手を振っているのはちゃんとみえているらしい。
彼らは元気に手を振り返してくれた。
いや、そうじゃないんだ。
助けてほしいんだ。
それが伝わるにはあまりにも浜は遠すぎた。
浜の監視台が目に入った。
監視員は足場から降りはじめていた。
海水浴の時間ももう終わりだ。
まずい。まずいぞ。
わたしの頭に、夏になるとよく見聞きする水難事故のニュースが思い浮かんだ。
「昨日、熱海の海水浴場で、三十代の男性が水死体で発見されました」
まさか、自分が。
そのときようやく、自分の身体に起きた異変の理由に気がついた。
泳ぎ始めるちょっと前に、海の家でビールを飲んだではないか。
すっかり忘れていた。
わたしは酒が弱い。
大学生の頃は、コップ一杯呑むだけで顔が真っ赤になる程弱かった。
その後、呑む機会も増えて多少は強くなったが、体質的に酒には弱く、酔いやすい。
酔ったときは吐き気だけじゃない。
身体が動かなくなることもある。
ほんの数日前、船の上で体験したばかりではないか。
船は良い。
ちゃんと床に足がつく。
いまわたしがいるのは、海面。
足はつかない。
なんてことだ。
人よりも酒に酔いやすく、特に泳ぎが得意でもない身で、どうして海に飛び込んでしまったのだろう。
このまま溺れ死んでしまうと、検死によって微量のアルコールが検出されるだろう。
「関係者の話では、男性はビールを飲んでいた模様で、酔った勢いで泳ぎ溺れたものとみられます」
などと報道されてしまう。
たとえ死んでいても、恥ずかしすぎる。
いやだ!
死んでも生きて帰るんだ!
必死になってわたしは弱気をふりはらい、きもちを落ち着けた。
まずは身体を休めよう。
仰向けになり、力を抜き、海水に身をまかせた。
そして呼吸を整えた。
ゆっくりと息を吸い、大きく吐き出す。
耳元ではゴォーとうなるような水音とチャプチャプと顔に当たる波音が絶え間なく聞こえる。
このまま動けなかったらどうしよう。
不安が襲ってくる。
そんな不安も、息といっしょに吐き出してしまう。
空を見上げながら、しばらく呼吸を繰り返す。
日がすこしずつ傾き、辺りが薄暗くなっていくような気がした。
実際にはそこまで時間は経っていないはず。きもちの問題だ。
まだ大丈夫。
焦りをおさえるため、呼吸に集中した。
しばらく呼吸を繰り返すと、身体が動かせるような気がしてきた。
試しに、仰向けのまま、脚の先だけで小さくバタ足をしてみた。
動いた!
すこしずつ大きく動かしてみる。
大丈夫だ。動く!
顔だけを動かして浜の方向を確認する。
さっきよりすこし遠くに感じる。
すこし沖に流されたのかもしれないし、気のせいだったかもしれない。
また途中で動かなくなるかもしれないが、とにかく浜に近づけるだけ近づこう。
そう思ってわたしは、身体の左側を下に向け、身体全体を横に向けた。
のし泳ぎだ。
中学校の臨海学校で習った日本古式泳法のひとつだ。
吾輩の記憶が正しければ、一番身体に負担のない泳ぎ方だ。
習ったことを思い出しながら腕と脚をゆっくり大きく動かして水をかき、ゆっくりゆっくり浜に向かって泳いだ。
足が海底に楽々とつくところまで泳ぎ切り、立ち上がると、安堵のため息が出た。
一緒に涙も出そうになった。
しかし、死にそうな目にあった理由があまりに馬鹿馬鹿しい。
出かかった涙は、すぐに引っ込んだ。
そして、なにもなかったように研究室のメンバーの元に戻った。
いまこうしてあの夏の出来事を思い返すと、溺れかけた理由は酒に酔っていたからだけではないように思う。
浮かれていたのだ。
いや、身体のことではない。
きもちが浮かれていたのだ。
なにもかもが初めてづくしの研究体験に。
そしてなにより、ひさびさの日本の夏が嬉しくて、楽しくて、大好きで。
初めての体験、初めての出来事、初めての発見。
嬉しいこと、楽しいこと、大好きなこと。
そんなことがあると、わたしはいつも浮かれてしまう。
Webにある「“浮かれやすい人か”がわかる心理テスト」では見事“浮かれやすい人”判定だ。
カミさんにはよく「あなたは絶対に浮気ができない」と言われる。
理由は「すぐ浮かれてウキウキしちゃうからすぐわかる」だそうな。
わたしは根っからの浮かれ症なのだ。
思えばその浮かれ症でたくさん失敗してきたと思う。
周りの人に迷惑をかけてしまったこともあるに違いない。
ちゃんと自覚している。
だが、浮かれ症を治す気はあまりない。
わたしの浮かれ症は、「人生にまさかこんな出会いや発見、体験があるなんて!」という驚きや喜びが、わたしのこれまでの人生にたくさんあった〈証〉なのだから。
浮かれたとき、自分の振る舞いには十分に気をつけなくてはなるまい。
もう良い歳したおじさんですし。
だが、浮かれることには罪はない。
だからわたしは、常夏のような人生を過ごしたい。
たとえ厳しい暑さや激しい嵐があっても、浮かれてしまう出来事にいつまでも出遭っていきたい。
□ライターズプロフィール
宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
千葉県生まれ東京育ち。水と飛行機が苦手な現役理工系大学教員。博士(工学)。専門は生物物理化学、生物工学。「酸化還元反応」を核にして、バイオによる省エネルギー・高収率な天然ガス利用技術や、量子化学計算による人工光合成や健康長寿に役立つ分子デザインなど幅広く研究。
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