週刊READING LIFE vol.160

細胞に刻まれた恐怖の記憶《週刊READING LIFE Vol.160 まさか、こんな目にあうとは》


2022/03/07/公開
記事:秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「はぁ、自然っていいねぇ……」
テーマパークの湖畔から、等間隔に浮かぶカモを眺めて、長男が感慨深げにつぶやいた。その8歳らしからぬ発言に、つい、こちらも吹き出してしまう。この長男、5分前までは青白い顔をして、この世の終わりだとでも言うように「恐怖のホテル」の下でうなだれていたのである。彼にとって、いわゆる絶叫系のアトラクションは今回が初めての体験だった。入場早々さそってみたものの、「嫌だ。乗りたくない」と、迷うそぶりもなく断固拒否。しかし、親だって久しぶりのテーマパークをできる限り満喫したかった。しかも、せっかく身長制限をクリアしたのである。数年間は黙って我慢してきたのだから、せめて1つだけでも! と頼み込んで、こちらも引き下がらない。怖いのは当然だけれど勇気を出すのだ、と背中をグイグイ押して列に並んでみることにした。もしかしたら、どこかで腹を括るかもしれない。
 
ところがである。気を紛らわせるべく、あれこれ楽しい話を持ちかけてみるも、長男はピクリとも顔をあげない。それどころか、表情の抜け落ちた顔で下を向いて、何やらブツブツ唱えている。聞こえないくらいの小さな声が僅かに空気を揺らしている。夢の国にそぐわない負のオーラがシュウシュウと立ち込めている。
怖い。すごく、怖い。母、呪われてそう……!
あまりの悲壮感と我が身の危険に、これは無理矢理乗せてはダメだと判断し、行列から離脱させることにした。しかし、問題がまた1つ。もう一方の5歳児がノリノリで、ここで諦めて欲しいと言ったら、それこそ絶叫系になりそうな予感がする。夫と40秒の緊急家族会議を行い、仕方なく別行動することなった。タワー・オブ・テラーよ、さようなら……。
 
そんなわけで、今度はポップコーンの長い長い行列に並んでいる。しかも、ミルクチョコレート味。安全が保障された長男は「平和だねぇ……」と言いながら、柵に顔を挟んでカモを愛でている。せっかく緊急事態の合間を縫って、ディズニーシーにまでやって来たというのに! モヤモヤしながらここまで歩いてきたけれど、ホッと落ち着きを取り戻した長男を見ていると、ぬるーい気持ちになってしまう。いや、私も乗りたかったけど。ゆるみきって「自然」とか「平和」とか言い出すのだから、よほど怖かったのだろう。勇気があるとか無いとかじゃなくて、細胞レベルで怖いものってあるよね。

 

 

 

長男が絶叫系を嫌がるであろうことは、来る前からある程度予想していた。というより、この怖がりの要因に心当たりがあるのだ。まだ長男が生意気を言わない、かわいいかわいい1歳の頃の話である。
 
保育園から帰宅した金曜日の夕方、私は夕飯の支度もそこそこに、長男と録画しておいた「おかあさんといっしょ」をのんびりと見ていた。いつもであれば、長男が泣き出しても、夕飯の準備を優先するところだけれど、たまには一緒に楽しむことにした。明日は休みだし、私も疲れたし、夫が帰ってきてからゆっくりやればいいかとボーッとしていたところに呼び鈴が鳴る。
 
ピンポーン
 
「あ、パパ帰ってきたね!」
声をかけると、膝でくつろいでいた長男がムクっと起き上がって、トトトと駆け出す。夫が玄関のドアを開けて入ってくる。駆けてくる息子に目尻を下げて、両手で抱え上げる。
「迎えにきてくれたのー?」
全身から親バカが溢れ出し、両手をそのまま上に持ち上げる。
「たかい、たかーい」
当然、息子はキャッキャと喜んで、もう一回やってくれとせがむだろう。何度も見た家族団欒のワンシーン。自分自身の淡い記憶にも残っているし、妹がそうやって喜んでいるのも見た。「たかいたかい」は子ども全員好きだろう。私はニコニコとその光景を眺めていた。もちろん、夫もそれは同じである。
 
だから、次の瞬間に見せた長男の顔が一生忘れられないと言う。
 
夫が長男をたかいたかいと持ち上げた瞬間のことだ。
(ヒッ……!)
と声が聞こえそうなほど、1歳の子どもの顔が引き攣ったのである。予想外の反応にこちらがギョッとする。笑いもしない代わりに、泣きもしなかったが、あどけない子どもの顔がここまで引き攣るのかというくらい歪んで固まっていた。その顔を間近で見た夫は、慌てて長男を床に下ろし、大丈夫だよ! と抱き締め、背中をさすることになったのである。長男は、いっそ泣いてくれた方が安心するのではないかと思うほど、「恐怖」と言う言葉を貼り付けて、しばらくの間、固まっていた。「たかいたかい」で喜ばない子どもがいるのか……。今まで気がつかなかったけれど、もしかしたら、高いところが苦手なのかもしれない。余計な刺激を与えて、トラウマを植え付けてしまったのではと、夫婦2人で後悔することになったのである。もちろん、2度と「たかいたかい」をすることはなかった。
 
高所恐怖症なのだろうか?
あれから8歳まで彼の様子を見てきたけれど、ジャングルジムは慎重ながらもテッペンまで登れるし、高いタワーの展望台でも喜んで街を見下ろしたりできる。
「ひゃー、高い! 怖い!」
とは言うものの、はしゃいでいるだけで恐怖しているわけではなさそうである。人並みに上から見下ろすと、ヒュッとする程度の怖さのようで、高いところがダメとは、違うような気がするのだ。ただ、成長したから大丈夫になったという訳でもないようで、平均台は両足を揃えてジリジリと進むし、階段は未だに手すりをしっかりと握って、1段1段ヒョコヒョコと降りていく。
 
当然、「たかいたかい」の克服には程遠い様子だ。
生まれながらの気質なのか、5歳の弟の方はスリル大好物タイプで、「たかいたかい」も夫にせがんでよくやってもらっている。そうそう、これが普通の子どもの反応だよね、というくらい大喜びなのだが、それを横で見ている長男の方が青い顔をしている。
「ヒィー、怖いぃ」
「おぉぉぉ、心配ぃぃぃ」
「落ちそうだヨォ」
と、見ているだけで落ち着かない様子なのがちょっと面白い。けれど、あまりに弟が楽しそうにやってもらうので、長男の心が動いたようだった。夫の誘いに乗って「僕もやってみる」と言い出したのである。
 
実に7年ぶりの「たかいたかい」である。私も固唾を飲んで見守った。
「まだだよ、まだダメだよ!」
食い込まんばかりに夫の肩を握って離さない。
「手は離したらダメだからね!」
弟が天井近くまで飛ばされている姿が頭をよぎったのだろう。しっかりと念押しをする。
「しない、しない。絶対に手は離さないから」
夫の方も過去の引き攣った顔を思い出しているに違いない。冗談ではなく、本気で約束している。ニヤニヤしているのは次男だけで、今から「たかいたかい」をするとは思えないほど、緊迫した空気が部屋を包んでいる。
 
「いくよ!」
「……うん!」
 
ググッと夫が腕を伸ばす。肩から長男の手が離れて、ヒョイっと体が空中に浮き上がる。長男が上から夫の顔を見下ろす。
 
(ヒッ……!)
と声が聞こえた気がした。7年前と同じように、今度も顔は引き攣っていた。
 
「ぎゃー!」
速攻で夫の首に手を伸ばし、長男はがっちり夫の体に巻きつき直した。そのままズルズルと床に倒れ込んで、へたりとする。「ムリムリムリムリ」と半笑いで震えている。いやー、笑うことで恐怖を逃がせるようになったんだねと、妙に感心する。
やはり、高いところは怖いのだ。

 

 

 

「ほぅ、甘くて優しいお味」
ミルクチョコレート味のポップコーンを頬張って、長男が幸せそうに顔を綻ばせた。高いところが苦手でも、テーマパークはこうして楽しめるし、本人が楽しければ問題ない。横からポップコーンをつまんで、口に放り込む。スリルを求める必要がないって事は、それだけ毎日が刺激的ってことよねと、トラウマ疑惑を棚にあげようとした時である。
 
ふっとある事を思い出した。
 
そういえば、前にタワー・オブ・テラーに乗ったのはこの子の妊娠がわかるちょっと前だったなと。タイミングから考えて、あの日、多分もうこの子はお腹の中にいたのだ。遊びに来ていたときはまだ検査などする前で、私は全くの無自覚だったのだけれど。
 
あの日、確実に一緒に落ちたな……。
 
長男の怖がり様からして、前世で何かあったんじゃないかと疑っていたけれど、まさか。お腹の中という前世で、体験したのではないだろうか。そうか、高いから怖いのではなくて、落ちるかもしれないから怖いのだ。そんなまだ人の形にすらなる前のことが、本当に影響するのかは分からない。科学的にいえば、あり得ない話、なのかもしれない。ただ、そう考えたら全て納得できるような気がした。「たかいたかい」への恐怖は、細胞レベルで刻み込まれているのだ。それは克服しようもないだろう。あの引き攣った1歳の顔を思い出したら、あり得ない話では無いような気がしている。
 
「落ちるのが怖いの、ママのせいかもしれないわ……」
何の証明もできないけれど、伝えておくことにした。
「えー! 絶対それだよ、何であんな物に乗るんだよー!」
当然、長男からは非難轟々であった。が、ママの「せい」って訳じゃないでしょ、とポップコーンを貪りながら答えてくれた。それはそれ。別に乗りたかった訳じゃない、しょうがないということらしい。
「そっか……」
もう一口、もらったポップコーンを口に運んだ。ミルクチョコレートのほんのりとした甘さが広がる。
 
「この味が1番だね。並んだ甲斐ある」
長男が幸せそうに笑って、「あ!」と、私の背中の方へ手を振った。見れば夫に連れられて、引き攣った顔をした次男が帰ってきたようだ。長男が駆け寄って、次男の口にポップコーンを放り込む。一瞬で、次男の顔が溶けていった。

 

 

 

これから先、ちょっと格好つかない場面が訪れたら、この本当かどうか分からない話をネタにしてくれればいいなと思う。誰かと一緒に笑い飛ばして、ミルクチョコレートのように優しく生きていってくれますように。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

愛知県在住。会社勤めの2児の母。

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2022-03-02 | Posted in 週刊READING LIFE vol.160

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