週刊READING LIFE vol.168

父の幸せとシンプルな言葉《週刊READING LIFE Vol.168 座右の銘》


2022/05/11/公開
記事:伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
大きな野外ステージ。背景には富士山が見える。
前日の雨とはうって変わり、今日は気持ち良く晴れている。少し強めの風が吹き、雲が流れている。
 
私はステージを見つめる。その視線の先、ステージの上に父がいる。
「まったく、本当によくやるものだな」
目立ちたがり屋の父はステージの真ん中でイキイキとしていた。
父のように目立つことに対して少し抵抗のある私は、iPhoneを片手につぶやいた。
 
父から、バンドメンバーとイベントに参加すると聞いたのは、4月に入ってからのことだった。そのイベントの会場を聞いて驚いた。それは、プロのミュージシャンもライブをするような、父が住む村にある大きな屋外ステージだった。
「そんなところで、素人さんが演奏できるの?」
私は父に聞いた。
「バンドメンバーの人がそのイベントの主催者側の人と知り合いで、それで出ることになったんだよ。他の参加者もみんなアマチュアだよ」
そう言う父は、大きなステージに立つというプレッシャーはまったくなく、なんだかとても嬉しそうだ。
 
イベントの趣旨としては、アマチュアバンドの発表の場、みんなで音楽を楽しむということのようだ。そして、その大きな屋外ステージは村民が借りる場合の使用料はとても安い。そんなこともあって、少ない出演料で参加できるという。
大きなステージで演奏できる機会なんて、そんなに簡単に得られるものではない。父は大きな屋外ステージに立てることを本当に楽しみにしているようだった。
父はジャズが好きで、ジャズバイオリンのレッスンをもう10年以上続けている。そして、その好きが高じて、この数年ジャズバンドに参加している。今回はそのジャズバンドでの出演になる。
 
私は少し東京を離れのんびりしたいという気持ちもあり、そのイベントに合わせて仕事もからめて父のところへ遊びに行くことにした。
イベントの前の晩、父は夕食を済ませてから、バイオリンを触っていた。ジャズはメインのメロディーがあり、そのメロディーの部分以外に各楽器の奏者によるアドリブのパーツで一曲が構成される。父は自分のアドリブの部分をなにやら考え直しているようだった。イベントでは5曲演奏する予定だ。そのうちの1曲のアドリブがどうしてもしっくりきていないらしい。
 
イベントに出るのはもう随分前から決まっていた。そして、それに向けてバンドメンバーとも合わせてきたはずだ。それなのに、なんで前の晩になってそんなことをしているのだろう。私は一生懸命になっている父を横目で見ながら、少し呆れた気持ちになった。でも一方で、ギリギリまで考えている父は、それ自体を楽しんでいるようにも思えて、微笑ましい気持ちにもなっていた。
 
父がメンバーになっているバンドはイベントの2日目のトップバッターでの出演だ。主催者側が気を使ってくれて、イベント当日、ステージでのリハーサルをさせてくれることになっていた。
リハーサルを眺めていると、なんとなくうまくいっている感じがする。これなら本番もうまくいくだろう。私は、子供の発表会を見守る母親のような気持ちなり、そして少し安心していた。
 
ところが、いざ本番が始まると、父の様子がリハーサルとは違う。多少の緊張があるのかもしれない。1曲目を弾き出したがリズムがおかしく、たまらずギターの人が声をかけた。
父はバイオリンを弾いているので、バンドの中でメロディーラインを担当している。その父が出だしからおかしいのだ。演奏がとまり、そして父が客席に向かって言った。
「ごめんなさい。ワンスモア」
その様子をみて、客席から笑いがでる。
 
私はiPhoneで録画をしながら、苦笑いをしてしまった。
「やっぱり、アマチュアだな」そんなことを思いながら、ヤキモキしても仕方がない。もう始まってしまった演奏を見守り、楽しむしかない。
 
メンバーの名前や曲の紹介をするのも父が担当していた。前の晩、メンバーの名前や曲目を間違えないようにちゃんとメモを作っておいた方がいいのではないかと、私はアドバイスした。父は元気に見えても立派な後期高齢者、80歳も目前である。ステージの上でうっかり忘れてしまうなんていうこともあるかもしれない。
そのアドバイスはちゃんと聞き入れられ、父はメモを作っていた。
 
メモを見ながら曲紹介をするので、父は曲名を間違えることはなかったが、それには余計なコメントがついていた。きっと、メモを作りながらちょっとしたお喋りを考えたのだろう。聴きに来てくれた人たちを楽しませたい一心のことだ。
そして、メンバー紹介の中で、「僕ともう一人メンバーが同じ歳で最年長です」と話すと、客席からは「何歳ですかー?」なんて、声がかかってしまう。
いつのまにか会場は、そんな和やかな雰囲気になっていた。
 
私はステージをiPhoneの画面越しに眺めながら、自分が手帳に書いた漢字一文字と、ある言葉を思い出していた。
私はこの数年、毎年その年のテーマを決めている。そして、その一年の行動の中で何を大事にしていきたいか、それを漢字一文字で表現し手帳に書き込んでいる。今年の私のテーマは「楽しむ」ということで「楽」という漢字を書き込んでいた。その漢字を選ぶベースになったのは女優のオードリー・ヘップバーンの言葉だ。
 
「何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです」
 
私はこの漢字とこの言葉を、昨年末、ダイビングで訪れていた伊豆の旅館で手帳に書き込んだ。仕事納めの次の日、早朝からダイビングに出かけた。そして、次の日も潜る予定にしていた私は、一人ダイビングスポットのそばで宿泊していた。
ダイビングは頭の中を空っぽにしてくれる。一旦頭を空っぽにして、そして一年を振り返り、来年のことを考えよう。私は50歳という節目を迎える中で、少し、人生そのものを振り返っていた。
 
そんな中で、昨年末はいつもと違う漢字を選んだと思う。今まで選んできた漢字は、自分を鼓舞するようなものが多かった。頑張って何かを成し遂げることが前提のような言葉だ。でも、今年は「全てのことを受け入れていこう。そしてそれを楽しもう」そんな気持ちが表れていた。
 
ステージの上の父は、私が選んだ言葉、私が今年掲げているテーマを体現しているように思えた。私は、「楽しむ」と決めなければ、なかなかそれを実行することができない。普通にしているとできないからその言葉を選んでいるのだ。でも父は、おそらくその言葉を選ばずとも、自然体で楽しんでいるのだ。自分の年齢も、今までの人生も、今この瞬間起こっていることも、全てを受け入れ、そして今を楽しんいる。
 
幸せを感じること、それがどんなに大切なことであるか。誰でも幸せを感じたいと思っているに違いない。しかし、その感じ方は年齢によって変化すると言われている。最近の幸せについての研究では、幸福度の年齢による変化はU字のカーブを描くことがわかっている。10代後半をピークに一旦、幸福度はさがり、40代、50代が一番低くなる。そして、そこからまた上がっていくというのだ。70代、80代は、まさに人生の中で一番幸せを感じやすい時期であるという。
 
また、高齢者についての研究でも、高齢者になると加齢に伴う様々な機能低下を認め、残された機能や資源を活用して充実した生活を送ろうとする傾向がみられることがわかっている。つまり、何かができなくなること、できないことにくよくよするのではなく、今できることに着目し、それを受け入れて楽しむということなのだろう。
高齢者のこういう傾向が、幸せを感じやすい時期をもたらしているのかもしれない。
 
まさに父も70代後半。できないことに着目せず、失敗してもくよくよせずに受け入れて、そして楽しんいる。幸せを存分に感じている、そんな人生の時期にいるのだ。
それは「人生を楽しんでいる」、まさにそういう言葉がぴったりの時期なのだろう。
 
お喋りが長かったからなのか、そもそもの曲構成にミスがあったのかわからないが、30分で5曲を演奏する予定だったのが、3曲目が終わったところであと2曲を演奏する時間がないことに気が付く。父は「枯葉」という曲を紹介し、「最後です。楽しんでくだい」と言った。
私は少し残念な気持ちになった。父とバンドメンバーの楽しそうな姿は、この1曲でおわりなのか。もう少し見ていてもいいような、この和やかな雰囲気は私を温かい気持ちにさせてくれた。
 
最後の曲も、そんなにすんなりと終わるわけはなかった。父が音を出すと、すぐにギターの人から声がかかる。
「すみません、キーが違いました。ごめんなさい。もう一回」
父はちょっと恥ずかしそうに言う。また客席からは笑いがでる。その笑いは温かなものだった。
 
その日の夜、父は録画を見ながら「結構、失敗ばかりだ」と言って笑っている。そして、用意していた5曲のうち演奏できなかった1曲は、前の晩に一生懸命アドリブを考えていた曲だった。
「あんなに考えていたのに、結局演奏できなかったんだよね。まあ、いいか」
父はまた笑った。
 
私はまた、自分の手帳に書いた言葉を思い出した。
もしかしたら、父は今の生活を送るために何か言葉を用意しているのかもしれない。そんなことを思って、父に聞いてみた。
 
「ねえ、座右の銘ってある? なに?」
すると父は、「嘘をつかないこと。騙さないこと」と答えた。
「ずっとそうやって仕事をしてきたんだよ。騙さなければ騙されることもないし。騙すような人は近づいてこないし」
 
私は「ふーん」と言いながら、なんだか父らしいなあと思う。
座右の銘といったら、ちょっとした四文字熟語や著名人や偉人の言葉とか、そんなことを答える場合が多いだろう。でも、父はとてもシンプルに自分が生きてきた姿勢を、ただ答えただけだった。
ずっと自分で商売をしてきた人だ。自分の基準を持っていなければ、時にどう判断をしたらいいのか迷うことがあったはずだ。その基準が、「嘘をつかないこと。騙さないこと」なのだ。
 
嘘をつかず人を騙すこともなく、ただ真面目に生きてきて、きっと今、心の中にわだかまりや影を落とすような、そんな想いもないのだろう。
だからこそ、今、心から人生を楽しむことができているのかもしれない。
 
難しい言葉はいらない。でも人生の行動の指針を持つことは大切なことだ。何があってもこれだけは守り続けるということ。そんな自分の中の基準は、だれにとっても必要なものだろう。その基準を表現するのが「座右の銘」ということにもなるのだろうが、それは四文字熟語でもなく、偉人や著名人の言葉でもなく、自分の中から出るシンプルな言葉で十分なのではないだろうか。
 
私もいつか、自分の生きる姿勢を、自分のシンプルな言葉で口にすることができるだろうか。
そんなことを感じた連休の1日だった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

建築設計事務所主宰。住宅、店舗デザイン等、様々な分野の建築設計、空間デザインを手がける。書いてみたい、考えていることをもう少しうまく伝えたい、という単純な欲求から天狼院ライティング・ゼミに参加。何かを書き続けられるのであれば、それはとても幸せなことだと思う日々を過ごしている。

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2022-05-04 | Posted in 週刊READING LIFE vol.168

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