週刊READING LIFE vol.197

激しい鼻息を受けながら思い出す、怒りと涙の子育て奮闘記《週刊READING LIFE Vol.197 この「音」が好き!》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2022/12/12/公開
記事:前田 光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
ずずずずずー!!! ずずずずー!!!
 
すんすん、すんすん
 
娘たちが帰宅して、玄関を開けて靴を脱ぎ、リビングに入ってくるとお決まりのズズズー・スンスンの儀式が始まる。
二人そろって私に左右からむぎゅーっと抱き着いてきて、においを嗅ぎ始めるからだ。
体ごと吸い込むつもりなんだろうかとこちらが危機感を覚えるくらいの勢いで一気に吸い込んでいるのは次女、それに比べるとかなり控えめに、まるで子犬が食べ物のにおいを嗅ぐようにクンクンと小さく吸い込んでいるのは長女だ。
 
いつからこの儀式が始まったか覚えていないが、最初に始めたのは次女だ。
小さいころから外から帰って来るたびに私に抱き着いて、「はー、落ち着くー!」とか何とか言いながら、満面の笑顔でにおいを嗅いでいた。
上の子はというと、「何やってんのよ、おかあのにおいを嗅ぐの、ホントに好きだね~」などと言いながら、ちょっと冷ややかな顔で眺めていたものだ。
 
だけどそのときの表情から分かっていた。
決しておとなしい性格ではないくせに、肝心なところでは自分を素直に出せない長女が、心の奥では次女のことを羨ましいと思っていることを。
 
だから、
「まるちゃんも、おかあのにおいを嗅いでいいんだよ。ほれほれ、遠慮せずさあどうぞ!」
と何度も水を向けていた。
すると最初は、
「えー! 絶対イヤ!」
などとそっぽを向いていたが、何度も言われるうちに、
「じゃあ……」
と遠慮がちにぎゅっと抱き着いてきて、スンスンと鼻を鳴らすようになったのだ。
 
最初ににおいを嗅ぎ始めたのは下の子だったと言ったけど、もしかしたら、
「私のにおいを嗅ぐことを諦めずに継続したのが下の子だった」
と言える。
いや、そうではなく、
「下の子は私のにおいを嗅ぎ続ける権利を他の誰かに明け渡さずに済んだ」
のだと言った方が正しいのかもしれない。
上の子は下の子が生まれると、どうしたってお母さんのお膝に乗る一番の権利を譲らざるを得なくなるからだ。
 
ある程度ものの道理が分かるくらいの年齢になっていても、それは多分辛いことだ。
 
私には子供が三人いて、この長女が生まれたときに長男は4歳だった。
長男は弟か妹が生まれてくるのをそれはそれは心待ちにしていて、生まれてきたら一緒にミニカーで遊ぶだのなんだのといろいろ想像を膨らませていた。
だが、私が生まれたばかりの長女を抱いておっぱいを飲ませている様子を初めて見たとき、その直前まで「妹が生まれた」と喜んでいたにもかかわらずポロポロと涙をこぼした。
文句も言わず、泣き言も言わず、悲しいとも寂しいとも言わず、ただ涙を落としている長男は、
「この日が来るのは分かっていたけど、まさかこんなに辛かったとは……おかあはもう、ボクだけのおかあじゃないんだな……」
と無言で叫んでいるようだった。
 
次女が生まれたとき長女は2歳2か月だったから、長女は自分の置かれた立場を長男よりももっと受け入れられなかったはずだ。
だから、急激な赤ちゃん返りと妹への攻撃が始まった。
 
まず長女は、とっくに外れていたおむつを再び使うようになった。
おしっこやうんちをパンツの中にするようになったからだ。
 
「赤ちゃん返り」
 
よくある話だ。
 
どんな本を読んでも、誰に聞いても、
「上のお子さんの気持ちを大切にしてあげて、できるだけ手をかけてあげてください。それまでお母さんからの注目と関心を100受け取っていたのに、ある日突然半分に、もしかしたら30や20に減ってしまうのです。下に弟妹が生まれることは上の子にとってとてもショックなことなのです」
なんて返事が返ってくる。
 
それは分かっている。
頭では十分に理解できることだ。
だが長女の赤ちゃん返りは私にはかなりこたえた。
上の子に手をかけようとどれだけ頑張ったところで、物理的にも時間的にも以前と同じようにはできないし、毎日毎日長女から「パンツの中の排泄」というかたちで、子育てに対するダメ出しを食らっている気持ちになっていたからだ。
せっかくおむつが外れていたのに、今までのトイレトレーニングは一体何だったんだろうか、どれだけ頑張っても長女には伝わらないのだろうかと思うと、やるせなくもあった。
 
長男は保育園に通っていたから平日は園で過ごしていたけど、次女は未満児だったから家にいた。
だから私が次女の世話をする様子を四六時中目の当たりにすることになって、よけいに気持ちが荒ぶったのだろうが、そのうち次女の指に思い切り噛みつくようになった。
授乳してようやく眠ったのでベビーベッドに寝かせ、さあこれからご飯を作らなきゃなんて思っていると、次女がギャーッと泣き声を上げるのだ。
急いで駆けつけると次女の小さな指には歯型がついていて、その横に無表情の長女が立っている。
だったら次女をおんぶすれば手を出さなくなるかもしれないと思って、次女をおぶって家事をするようにした。
それでも長女は、次女の手や足に噛みつくのを止めなかった。
 
分かるよ、分かる。
寂しいのは分かる。
悔しいのも分かる。
自分の方を見て欲しいのも分かる。
分かるけども。
 
一体どうすればよかったのだろう。
産んでしまったものは、もとには戻せないのだ。
 
途方に暮れた私はそのたびに抱っこしてギューッとして、
「まるちゃんも寂しいよね、あーちゃんのこと噛みたくなったら、おかあに抱っこしてって言いに来てね。
どうしても噛みたかったら、まるちゃんじゃなくておかあの手を噛んでね」
と何度も言い聞かせた。
 
それがよかったのか悪かったのかは分からない。
もしかしたら専門家から叱責されるような悪手だったのかもしれない。
だけど本当に、どうしていいのか分からなかったのだ。
 
上のお子さんに手をかけてあげてくださいなんて世の中で言われていることを実践しても、何も変わらない。
それでもダメならこうしたらいいなんてことは、どこにも書いていないし、誰も教えてくれない。
自分でどうにかするしかない。
 
案の定、それからも長女は次女に噛みつき続け、そのたびにおかあを噛んでいいよと手を差し出され、渾身の力で私に噛みついていた。
こんなに小さな子のどこにこんな力があるのかとびっくりするくらい、強い力だった。
これだけの怒りを、私に抱いているのだと思った。
 
長女の不安定さは日増しに激しくなっていって、そのうち何が悪かったのか分からないような何かがきっかけで、毎日のように床にひっくり返って1時間も2時間も泣き叫ぶようになった。
今から思えば長女は、次女が泣く時間よりも長く泣いてぐずることで、『私の方が妹よりも手がかかりますよ、さあ妹ではなく私にこそ手をかけてください』と言いたかったのだろう。
だがこうなってしまうと長女は、抱っこすら拒否するのだ。
私が伸ばした手を振り払い、床の上で体をそらせてギャン泣きする長女を眺めながら、途方に暮れていた。一緒に泣きたかった。なんで子どもなんて産んでしまったんだろうと思った。
 
『抱っこしてちょっと落ち着かせれば、癇癪が収まるかもしれない』という私の思惑を見透かして、その手に乗るかと言わんばかりに、体にも触れさせてくれず、延々と泣き叫び続ける長女。
 
ちょっとだけでいい、この子さえいい子にしていてくれさえすれば、家のことがはかどるし、ちょっとは私も楽になれるのに。
どうして困らせることばかりするのよ。
 
そんなある日、また長女はパンツの中にうんちをした。
「トイレでするからおむつはしない」
と自分で言ってパンツをはいたすぐ後のことだ。
 
「もう、何でまるちゃんはおかあが困ることばっかりするの?
まるちゃんなんて、まるちゃんなんて……!」
 
激しい言葉が口を突いて出た。
だが、のどまで出かかったその続きの言葉は、必死で飲み込んだ。
それを言ったらおしまいだと思ったからだ。
 
だが長女は私の言葉を聞くと、何の感情もないような顔をして、ただ私をまっすぐに見つめて、
 
「だいきらい?」
 
と首を傾げた。
 
私がぐっとこらえて飲み込んだ言葉だった。
 
ああ、この子は私の心の中なんて全部お見通しなんだ。
 
長女を強く抱きしめると、
 
「そんなわけないじゃん! おかあはまるちゃんのこと、大好きだよ!」
 
と絞り出すように言葉にした。
 
この言葉もどれだけ長女に届いたのか分からなかった。
そもそもそれが、自分の本心なのかすらも怪しいと思った。
だけど、長女がどう受け止めようと、たとえ私の心のすべてを見透かしていようとも、この「だいきらい」だけは絶対に認めるわけにはいかないのだ。
 
それから少しして私は、腰痛と坐骨神経痛のために、いよいよ夜に眠れなくなった。
添い乳しながら寝ていたことがよくなかったようで、横になってうとうとすると、お尻から左足の先までしびれたような痛みに悩まされるようになったからだ。
 
長女に向き合う時間を減らし、自分の負担を軽くしたい一心で、私は長女を保育園に預けることにした。
身勝手だったかもしれないが、限界だと思った。
住んでいたのがかなりの田舎だったので未満児クラスには常に空きがあり、事情を話すと快く受け入れてもらうことができた。
 
そのまま春まで未満児クラスにいさせてもらい、長女は4月から年少さんに繰り上がった。
私と長女の「子育て・育てられタイマン奮闘記」は、保育園に介在してもらったことで大きな火花はそれ以上散らなくなった。
あの頃に私が選択したことすべて、よかったか悪かったかなんて正直今でも分からない。
きっと子育ての結果なんて、その子が大人になるまで分からないんだ。
 
一つ言えることは、自分の手に余ることは、人の手を借りればいいし、そうしてよかったと私が思えていること。逆に言えば、それくらいしかない。
 
それが証拠に、当時のうちに解消できなかった火種みたいなものはずっとくすぶっている感じがしていた。
それが「気は強いくせに、肝心なところで自分を出せない」という長女のちょっと陰のある性分を形成したんじゃないかと思う。
 
だから、長女が私にギュッと抱き着いてにおいをクンクンかぐことは、それができるようになったこと自体が私にとっては大きな出来事なのだ。
 
人から見れば、保育園児じゃあるまいし、大きくなった子が何やってんのと思うかもしれない。
だけど、においを嗅ぐくらい、やりたきゃいくつになってもやればいいんじゃないの。
小さかった頃にやり残したことがあったなら、そして親としてやり残したことがあったなら、思い出したときからもう一度やり直せばいいのだ。
 
そしてクンクン、ズズズーと息を吸い込む音が両耳に響くのを感じながら、私はやっぱり顔をほころばせている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2022-12-07 | Posted in 週刊READING LIFE vol.197

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