週刊READING LIFE vol.215

昔から同じネタを受け継ぐには意味がある。古くて新しい伝統芸能の見方《週刊READING LIFE Vol.215 日本文化と伝統芸能》

thumbnail


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/5/15/公開
記事:大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「今日はあの店員さんいないのか」
 
いつも行くお店なのに、ある店員さんがいるかいないかでなんとなく料理の味が違ったり、雰囲気が違ったりすることはないだろうか?
同じお店で同じものを頼んでも、店員さんの接客態度だったり、雰囲気だったりで受け取る側の気持ちが変わってくる。気持ちの良い接客だと安心するし、不快な接客だと緊張する。
緊張していると実際に脳の中の視床下部という身体の状態を調節する部分の機能が低下するので、味を感じにくくなったり、匂いがわからなかったり、物の見え方が変わってきたりする。反対に気持ちいのいい接客は安心感があり、緊張しなくて済むのでその物自体の味や匂い、見た目をその時に十分に感じることができる。要は落ち着いていられるのだ。
 
実はその「同じ物なのだけど、人によって変わる」というのを如実に体験できるものがある。それが落語だ。
 
落語は大きく分けて新作落語と古典落語に分けられる。新作落語は噺家さんが新しく書き下ろしたネタ。古典落語は昔の誰かが創作したネタを今の噺家さんが演じる。音楽で例えると古典落語はカバーアルバムみたいなものだ。
 
落語の期限は戦国時代にまで遡るらしい。敵国の夜襲に備えて夜間の警備にあたっていた兵士が眠くならないように隣で話をしている「御伽衆(おとぎしゅう)」という人たちがいたらしい。その人たちがただ話しているだけだと面白くないので話の最後にオチをつけ始めたのが落語の始まりだそうだ。そして戦国時代が終わり、夜襲に気を使う必要がなくなったので、御伽衆が「面白い話をする」というのを商売にしたのが現代の寄せに繋がっていく。
 
そしてその中でも何度話しても笑ってもらえる話がいわゆる鉄板ネタとなって継がれていったのだ。いくら鉄板ネタでも一度聞いたらオチはわかっているので、何度か聞くうちにそれこそ飽きてしまう。そこで重要になってくるのが誰が演じるか? なのだ。
 
落語のネタを文章として読んでみると実はそれほど面白くないものが多い。話のオチがただのダジャレで終わっているものもあれば、本当に落ちているのか? と疑ってしまうぐらい意味のわからないものもある。それでも落語家さんがそのネタを演じると面白くなる。
面白くなる理由は大きく2つあって、それは落語家さんの解釈と演技力だ。
 
古典落語は古典と言われているだけあって、江戸時代や明治時代などに作られたものも多い。そうなるとその時代背景によって物事の考え方や、言葉遣い、価値観などが変わってしまう。その時のそのままのネタやってもその辺がずれていると素直に笑いに到達しないのだ。
 
例えば「死神」という落語がある。内容は生きるのがうまく行かずに自殺しようとした男が死神に出会い、「どんな病気も治せる呪文」を教えてもらい、その呪文で一儲けする話だ。ただその呪文には制約があって、寿命の人の病気は治せない。ある時、寿命の人が続いて、治せず、お金がそこをついてきたその男は死神との約束を破って寿命の人の病気も治してしまう。その後また死神が現れ、ろうそくがたくさんある場所に連れて行かれる。そこで見せられたのは短く今にも燃え尽きそうなろうそく、それは男の残りの寿命を表しているろうそくだった。どうやら寿命の人を治してしまうとその人と自分の寿命がひっくり返ってしまうらしい。「死にたくない!」と死神に懇願した男は死神から最後の情けとして、ろうそくを手渡され、それに火をつけられたら寿命が伸びると言われる。しかし失敗すると死ぬというプレッシャーからうまく火をつけられず死んでしまうというお話だ。
 
この最後の火をつけるところが、男が失敗するのがスタンダードなパターン。他には一度成功するんだけどはしゃいで消えてしまうという「成功しても油断するなよ」というパターン。成功するんだけど死神に吹き消されて死ぬという「自分ではどうにもならないこともある」というパターン。中には死神自体が女性で、実は先に死んでしまった男の元恋人という設定で。最後にろうそくに火をつけるのを失敗して男が死んだ後に「これでまた会える」と恋愛ものにしてしまうパターン。
どのオチもその落語家さんらしさが滲み出ていて、面白いのだ。
 
演技力といえば「まんじゅう怖い」という落語がある。怖いものは無いと言い張るいけすかない男がいて、そいつの怖いものを持っていいって懲らしめてやろうという町人たちがその男に「本当にこわいものはないのか?」と尋ねたところ、その男は「まんじゅうが怖い」と言って町人たちにたくさんのまんじゅうを持って来させる話だ。そして変わるがわるまんじゅうを持ってきた町人たちが「怖いと言いながらまんじゅう全部食ってるじゃねえか、本当にまんじゅうが怖いのか?」と聞かれて、最後に男が「今は渋いお茶が怖い」と言ってオチになる。
 
話としてはそこまで面白いというものでもないのだが、この話はとにかく登場人物が多い、まんじゅうが怖いという男と、その男に変わるがわるまんじゅうを持ち込んでくる町人たち。その全員を一人で演じなければいけないのだ。当然だが、キャラが被ってしまっていては別人と思われない。一人一人別人になるように絶妙に演じ分けて伝えている。確かに一人の落語家さんが話しているのだが、まるでそこにその町内で暮らす人々がその男を怖がらせてやろうと集まって話している風景が見えるかのようだ。そしてその風景も同じ人が集まってやいやいやっているのだが、落語家さんによっても見える風景が変わってくる。「ちょっとからかってやろうぜ」的な軽い感じで話している雰囲気の時もあれば、「今日こそは一泡吹かせてやる!」と意気込んだ雰囲気の時もある。そしてそのどれもが面白いのだ。
 
そしてさらに落語を面白くしているのが解釈と演技力は同じ落語家さんでもその時その時で変化していくのだ。芸歴を重ねるごとに解釈や演技力に今までとは違う別の視点が加わってくる。そしてその落語家さん自身の人生が噺に現実味を加えてくるのだ。
 
人情噺として有名な「芝浜」という落語がある。来る日も来る日も酒を飲んで仕事をしない魚屋の亭主が、奥さんに怒られて、久方ぶりに魚の仕入れに行くと海岸でお金のたくさん入った財布を拾う。その財布を持ち帰って「これで一生遊んで暮らせるぞ」と奥さんに話して酒を飲んで寝てしまう。翌朝亭主が昨日の話をすると奥さんが「何言ってんだいあんた、酔って見た夢でも見たんじゃないのかい? そんなことより本当にうちにはお金がなくてこのままだと一家心中だよ!」とハッパをかけられ、一念発起して酒をやめて仕事に精を出す。元は目利きのしっかりした魚屋だった亭主は仕事をしだしたらお客もつき、安心して暮らせるだけ稼げるようになった。そしてある時奥さんに感謝を伝えると、奥さんから「実は財布を拾ったのは夢じゃなかった。でもそのままなら仕事なんてしないだろうから嘘をついていた。本当にごめんなさい」と打ち明けられる。そして「今日はここまで仕事を真面目に頑張ったからあんたの好きなお酒も用意しているよ」と言われるが、亭主は「いや酒はやめておこう、夢になるといけねえ」と言ってオチになる。
亭主を思う奥さんとその想いに感謝している亭主の人情を聞かせる噺だ。
 
これこそその落語家さんの人生が噺から見えてくる。それこそ結婚する前と後では変わるだろうし、子供がいるかいないかでも違うかもしれない。それこそ落語家として成功している時と下積みの時とでも変わるだろう。
 
古典落語は同じネタをさまざまな人が演じるものだ。同じものを演じるからこそ、その時のその人自体が感じられるのだろう。そして落語家さんはその時の客席にいる人の人数や年齢層、性別、熱感などさまざまなものを感じて微妙に話方を変えているらしい。その時の場の雰囲気に合わせて変わる。
ということはその落語を聞いている僕自身の人生もその時の落語に含まれているのかもしれない。
 
僕自身の人生もその時の落語に含まれているということは、もしその時の落語がつまらないものだとしたら、それは前で演じている落語家さんだけでなく、僕自身がその落語を楽しもうという準備ができていないのかもしれない。
自分自身でもいい面と悪い面が在るように、相手にとってもいい面と悪い面が必ずある。その日の悪い面を探そうとおもえばいくらでも見つかるし、その時の体験はよくないものになる。でも出来が悪い日であってもどこかしらいい面はあるはずだ。そのいい面はどこかな? という目で見れば、「今日はイマイチの出来だったけど、ここはよかったな」といい体験になるはずだ。
 
自分自身が楽しむための準備をしていないとどんなにいいものでも悪い面しか見えなくなる。要は目の前のものをいい体験にするか悪い体験にするかは自分次第だ。自分の状態次第で変わるのだ。だから最初に「今日はあの店員さんいないのか」と思った時点で、「今日はあの店員さんがいないからあんまりいい体験ができない」という前提を持ってしまっているのだ。
だから目に見えるものが悪いものしか見えなくなる。店員さんの態度もお店の雰囲気もその雰囲気を作り出しているきっかけは自分自身なのだ。
 
だから古典落語のような「同じネタを引き継いでいく」ものはその時代時代の人間を表しているのだ。同じネタだからこそ、それを古く感じるとか、新しい要素を入れてアレンジしてみるとか、現代的なストーリーを入れてみるとかその時代に合わせたものに変えることによってその時代を生きる人を表している。だから伝統芸能は古くからあるけど常に新しいのだ。
 
いつも同じだから安心して見ていられる。同じだからこそ、最後まで”オチ”ついて見ていられるのだ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

神奈川県藤沢市出身。理学療法士。2002年に理学療法士免許を取得後、一般病院に3年、整形外科クリニックに7年勤務する。その傍ら、介護保険施設、デイサービス、訪問看護ステーションなどのリハビリに従事。下は3歳から上は107歳まで、のべ40,000人のリハビリを担当する。その後2015年に起業し、整体、パーソナルトレーニング、ワークショップ、ウォーキングレッスンを提供。1日平均10,000歩以上歩くことを継続し、リハビリで得た知識と、実際に自分が歩いて得た実践を融合して、「100歳まで歩けるカラダ習慣」をコンセプトに「歩くことで人生が変わるクリエイティブウォーキング」を提供している。

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325


■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」

〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984


2023-05-10 | Posted in 週刊READING LIFE vol.215

関連記事