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チーム天狼院

【失恋のススメ】村上春樹の「僕にはそれがわかる」とは何が「わかる」ということなのか?恋に意味なんてないかもしれない、それでも。《川代ノート》


天狼院スタッフ川代です。

昨日、店主三浦が上げた恋愛に関する記事

恋は暇だからするものなのか?悲恋ジャンキーの構造《『容疑者Xの献身』を何気なく観て》

に、反論してみたいと思います。

ノルウェイの森

「なんでそういう小難しいことについて真剣に考えてるのかわからなかったし、そういうことを話したいと思ったこともなかった。そんなこと考えてどうするの?意味あるの?すごいやつなのか、ただの変なやつなのかってことがずっとわからなかった」

それが人生で言われたなかで一番傷ついた言葉でした。十代終わりの頃でした。

表面的に見れば、もっと酷いことを言われたこともあります。オタクとか怖いとかユンゲラーとか言われたことも。でもたいして仲の良くないクラスメイトにそう言われるくらい、一度は心の底から信頼した相手に、お前のことが理解できないと言われることよりはずっとマシでした。私がもっとも重んじていること、自分のアイデンティティとも思えることを否定された、つまり人格を全否定されたような気がしたのです。

もちろんどちらが悪いという話ではなく。ただ「合わなかった」というだけの話でした。私が悪いわけでも、まして相手が悪いわけでもありません。私は彼に感謝すべきくらいでした。彼に言われなければずっと気付かなかった。人間関係でのすれ違いがあるということ、自分の考えを言うことが相手を不快にさせるかもしれないということ、私が彼にたいする思いやりがなさすぎたということ。この段階で教えてもらわなければ、死ぬまで気付かなかったかもしれない。だから最後にはっきり言ってもらって本当によかったと思います。勇気を出して本音を言ってくれた彼に本当に感謝しています。

けれどはっきり言ってしまえば、そんなことは綺麗事にすぎませんでした。頭ではよく理解していたし納得していて、すべての自分の身に起こる出来事は、起こるべくして起こるのだという持論があったし、このことは自分に与えられた乗り越えるべき課題なのだという確信もありました。

しかし心の底では、そんなことはどうでもよかったのです。理屈とか論理とかそんなことは、本当にどうでもよかった。というよりも、私のこの心の苦しみを救ってくれるには到底及ばなかった、と言う方が正しいかもしれません。これほどにも理性で自分をコントロールできないのはそのときが初めてでした。元来私はいつも冷静でいようと努めていたし、感情は常に理性の下にあって制御されるべきであると思っていたけれど、そんなものは幻想にすぎないとその瞬間に悟りました。頭と心はきちんと違うところに位置しているのだということを、はっきりと感じ取ったのです。

そして私の場合、確実に心の方が高い位置にいて暴れていて、ヒステリックに、感情的になった自分はもはやどうすることもできませんでした。欲しいものが手に入らなかったときの子供と同じ。一度泣き出したら、いくら「こうしたらいけませんよ」と宥めても、いくら、どうにもならないということを説明しても無駄。自分の心が満たされるまで泣き止むことはありません。

彼の言う、「そういう小難しいこと」というのはおそらく道徳的なことや真理的なことでした。私は世の中がどんな仕組みで成り立っているのか、どんな真理があるのか知りたかった。仕組みがないとしても、自分の目で一度見て、触って、考えて、確かめてみたかった。それはある意味論理的ではなく感情的なモチベーションからくるものでした。その感覚はいくら言葉で説明しても、この世の中にある不思議な仕組みが少しだけ分かったときの面白さを味わったことのない人には伝わりません。自分の笑いのツボを、正確に言葉で説明しても、ちっとも面白さが伝わらないのと同じように。

けれどその頃の私は盲目だったし、他人同士でも努力すれば理解し合えるという希望を持っていたかった。その努力さえしようともしない相手が腹立たしかった。自分ばっかり相手に合わせているような気がしました。だから自分の意見を押し付けた。寂しかった。結果、どうにもならなかった。 分かり合えない人間同士はどんなに頑張っても努力しても、理解できないことがあるのだと悟りました。しかしそれは前にも述べたとおり、どちらが悪いというわけではありません。相性の問題です。

結果、私は頭できちんと納得したうえで傷ついたのでした。それこそ言葉でも論理でも説明できないくらいの傷みでした。
息をするのも辛い、という感覚を味わったことがあるでしょうか。 それまで私は失恋の話などきいてもちっともピンとこなかったし、むしろ恋絡みで辛い、苦しいと言う友人をどこか冷めた目で見ていました。無意識に、そんなのは甘えで、挫折でもなんでもないと思っていたのかもしれません。 けれど自分が実際に体験すると、愚痴を聞いた友人たちや、流行りの失恋ソングや、悲恋の文学の言わんとすることが、文字通り痛いほどよくわかる。世界がまるで違って見える。目が覚めると非常な現実がどっと押し寄せる。辛い。悲しい。孤独。自分を拒絶されたような絶望感。自分は社会の誰にも必要とされていないんじゃないか、という気になってくる。もう誰のことも信用しないと思う一方で、無条件に自分を受け入れてくれる人を無性に求めている。もちろん頭ではこの事象に対する理由付けも意味付けもきちんと出来ているのですが、それでも感情的な苦しみはどうすることもできない。
時間が解決してくれるのを待つだけ、というのは本当なんだなあ、と何故か俯瞰的に傷ついている自分を見下ろしていたのを思い出します。

結局、完全にもう大丈夫、と言えるようになるには半年くらいはかかりました。その間ずっと、多かれ少なかれ、心のどこかに傷があって、片時も忘れることはありませんでした。何ごとにも心からは集中できず、アルバイトも、勉強も、友人も、好きな本を読んでも、映画を見ても、何をしても心からは楽しめません。いつもどこかではぽっかりと穴が開いたような寂しさ、悔恨やコンプレックスを感じていました。だから正直あの半年間、自分が何をしていたのかまるで思い出せないのです。何も有益なものを生み出していなかったような気がするし、人に言えるようなことは何一つしていなかった。ただダラダラと時間がすぎるのを待っていただけでした。時間の無駄でした。

けれどその半年間がすぎたときの私は、確実に何かが変わっていました。頭が良くなったとか、仕事が出来るようになったとかそういうことではありません。むしろ社会的にはより無能で使えない人間になっていたかもしれない。半年間をひたすら苦しみに耐えるだけのために使っていたのだから当たり前です。でも不思議と、あの時間を取り戻したいとは思いませんでした。あんな辛い思いは二度とごめんだと思ったけれど、確実に自分に必要な出来事だったという確信がありました。なぜだろう。わからない。けれど、あの息ができないほどの痛みは味わう価値があったのだと、直感的に思いました。誰でも味わえるものではない。もしかしたら一生経験せずに人生を終える人も多いでしょう。
その経験は、表面的には社会では絶対に役に立たないし、失恋をしたことでスキルが上がったり優秀になったり評価されたりするわけでもない。そんなことに時間を費やすなんで暇だからだ、なんて言う人たちもいる。それでもやっぱりあの辛い感覚は、私にとっては「世の中にある不思議な仕組みや真理」そのものでした。それは彼に言わせれば、言葉ではとても説明できない「小難しいこと」でした。今あるこの感情を彼に話したとしても、全く理解できないでしょう。「そんな小難しいことについて考えて何か意味あるの?」もう一度そう言われてしまってもおかしくありません。
もし実際に彼にそう聞かれたら、私はこう答えるでしょう。「意味なんてないよ」、と。意味もないし役にも立たないし、論理や言葉で説明することも出来ない。けれどこの苦しみや傷みを味わったことによって、確実に私の中の何かのスイッチが切り替わって、新しい「真理」を見ることが出来たような気がしてならないのです。私はその苦しみさえも面白かったのだと思う。新しい何かが自分の中にストンと落ちるあの感覚が、面白くて仕方なかった。だからそんな「小難しいこと」についても考えることをやめられないし、傷つくかもしれなくても、次の新たな感覚へと手をのばしたくなってしまうのです。

私は恋をするのは暇だからだ、という考えを完全に否定することは出来ません。なぜなら、たしかに三浦の言うとおり私は恋をしたことによって多くの時間を犠牲にしてきたからです。まして恋をしたせいで、ただの苦しみに半年間も費やすことにもなりました。恋をしていなければもっと多くのことに挑戦できたし、新たな知識が得られたかもしれないし、自分の夢が広がったかもしれない。けれどそれでも、と私は思うのです。それでも人は恋をすべきである、と。

人間は所詮動物の延長線上に過ぎないし、恋愛も性欲の延長に過ぎないのかもしれない。はっきり言ってしまえば、私の考えには論理的説明も理屈も根拠もメリットも何もないのです。全く筋の通っていない、感覚的なことを無理やり言葉に置き換えて吐き出しているだけです。私より頭のいい人はいくらでもいるし、簡単に論破されてしまいそうな脆いつぶやきです。
でも、だからこそ私は、世の中には目に見えない、説明のつかない意味のないこともあるのだと主張したいのかもしれません。それは言葉や論理や筋道ではどうにも説明のつかない代物であり、ある意味説明してはいけないような気さえします。

村上春樹氏は小説の中でよくこんな表現を使います。「僕にはそれがわかる」、と。つまりはそういうことなのです。私は、村上氏が主張するそれはメタファーでもなんでもない、本当にただの「感覚」なのだと思います。ただ「わかる」というだけのことで、それは本当に「わかった」ことのある人間にしか通じないことなのだ、と。「仕方ないでしょう、わかるものはわかるんだから」、そういう感覚なのかもしれない、という気がしてなりません。

人は説明や意味を求めすぎではないでしょうか。文学が出れば解釈しようとする評論家が現れる。幽霊が出るとそれは嘘だと科学的に解明しようとする。恋愛や結婚をメリット・デメリットで考える。たしかにそうやって目に見える形に証明できるように、追及していくことは面白いと思う。けれど目に見えるものが存在するのと同じように、目に見えないものも存在するのです、おそらく。見たことが無いから確証はないけれど。言葉や今ある人間の力ではどうにもならないことや感情があって、それは確かに社会には全く役に立たないかもしれません。でも「役に立つ」ことがすべてなのでしょうか。論理で説明がつかない物事は捨てられるべきなのでしょうか。

たしかに暇だから恋愛するのかもしれない。恋愛は無駄なのかもしれない。恋愛をすれば人は成長できるなんてことも、綺麗事のように思えるし、無責任に言うことは出来ない。

けれど。

恋愛に限らず、どんなに意味がなく役に立たないことでも、体験してみれば、何かが「わかる」ようになるのは確かです。一見では理解できない作品を生み出している村上氏や、多くの作家、芸術家たちも、そういうことを、何とかして形に表したかったのかもしれない。

何を言っているんだ?と疑問を持つ人も多いでしょう。
この私のつぶやきも、論理も、具体例も、根拠もない隙だらけの、読んでも何の役に立つわけでもない、わけのわからない文章です。誰にも理解されないかもしれません。

でも、きっと、恋というのも、そういうことなのです。
人の心に起こっていることを、誰が事細かに、正確に説明できるでしょうか。

私はこれだけは言いたいのです。そういう目に見えない、わけのわからない存在を、もっともっと愛そう。

目に見えるものだけに、頼るのではなく。

たまにはいいでしょう、暇じゃなくても、意味が無くても恋愛してみたって。

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2014-06-16 | Posted in チーム天狼院, 記事

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