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川代ノート(READING LIFE)

褒めればいいってもんじゃない《川代ノート》


記事:川代紗生(天狼院スタッフ)

 

「モテたければ褒め上手になれ!」
「人を褒めるのが上手い人の周りに、自然と人が集まる」

子供の頃から所謂「人気者」タイプに強烈な憧れを抱いていた私は、その文言を見つけて衝撃を受けた。高校生くらいの頃だろうか。恋愛ハウツー本や、自己啓発書の多くに、それは書いてあった。とにかく他者を褒めること。小さくてもいいところを見つけて認めてあげること。そうしていい言葉を口に出している人のところに、自然と人が寄ってくるのだと。

それまで特に意識して人を褒めるということをしてこなかったのだが、それを機に「褒め研究」をするようになった。とにかく人を褒めるのだ。些細なことでもなんでも良い。たとえ気が合わない人だったとしても、相手の良いところを見つけて口に出す。それだけで生きるのが楽しくなると書いてあった。

 

以来、私は褒め上手になろうと努力してきた。髪型、顔、メイク、ファッション、性格、気配り、仕事ぶり、優しさ、人柄、才能、とにかくなんでもいい。褒めることが重要なのだ。
私の周りには褒めるのが上手な人が何人かいて、たしかに彼らの周りには人が集まった。友達が多く、人望がある人はためらいもなく言えるのだ。人を喜ばせられる言葉を。しかも、わざとらしくなく。

しばらく褒める訓練をしていたのだが、しかし、私はどう頑張っても一定量のわざとらしさを消すことができなかった。

 

褒める、なんて口に出すだけで簡単なことなのに。

 

何故自分にできないのか、人を褒めている自分に猛烈な気恥ずかしさというか、違和感を覚えてしまうのはなぜなのか、わからなかった。

 

その答えを求めて、色々な人と会うようになった。
大学生になり、就活の一環で異業種交流会に出たり、社会人と話せるイベントに行ったりした。社会人でも、やはり「褒める」ことが上手な人はたくさんいて、その日、出会った人を最低でも1回ずつ褒めるようにしているんです、なんて言う人もいた。

けれども、予想外の答えを言ってくる人もいた。
50歳くらいのおじさんで、とあるお店のオーナーだった。「褒める」ことの研究をしている、と言ったら。

 

「あんまり褒めることにこだわりすぎないほうがいい。怒ることが褒めることになる場合もあるからね」

 

怒ることが、褒めることになる?

 

意味がわからなくて、私は続きの言葉を聞こうとしたけれど、教えてくれなかった。

誰だって、人に怒られたくはない。怒られるのが好きな人なんていない。それが褒めることになる、だなんて理屈が成立するのだろうか、と思った。

 

それから私は、なんとなくその「褒める」習慣をやめてしまった。社会人になり、働くようになって余裕がなくなったということもあるけれど、何よりどうしても自分らしくないような気がしたのだ。違和感がある習慣を無理に続ける必要はない。私だって、褒めることが全くないわけじゃないんだし。

社会に出て以来、もうがむしゃらに働くしかなかったから、もはや褒める/褒めないの概念すら忘れていて、そもそも「褒める」という行為が自分の意識の中から完全に消えてしまっていたのだけれど、最近になって、その違和感を思い出すようになってきた。

よく見るからだ。
人が人を褒めているところを。

それはおそらくSNSが発達してきているからだと思うけれど、Facebookやらツイッターやらで、よくもまあそこまで褒められるなと思うくらい褒めちぎっているのをよく見る。

この人のセンスが最高、最高の先輩、本気で尊敬してる、ずっと憧れ、この人の凄さは……云々。

すごい、と単純に思った。みんな本当に信じられないくらい褒めるのがうまいのだ。私の全細胞を結集させて脳フル回転で考えたとしても思いつかないような褒め言葉をいう。どうしてだ。どうしてそこまで人を褒められるのだ。
素直に羨ましい、と思った。私もごちゃごちゃと余計なことは何も考えず、ただ「この人はすばらしい」と思った人に「すばらしい」と伝えられる人ならよかった。そうすれば私の周りにも、もっと人が集まっていたかもしれないのに。

けれども、どうしてだろう、じゃあこれから私もやってみようとは、思えなかった。また私も褒める習慣を取り戻してみようか? それはなんとなく違うような気がした。

なぜか。
答えはもう、ずっと前からわかっていた。

 

「褒める」という行為の裏に隠れている下心を、私はどうしても、隠し切ることができないからだ。

たとえば誰かの才能に触れて、素直に「すごい」とか「面白い」とか「いいなあ」と思ったとき、私は何のためらいもなくその言葉を口にすることができる。むしろ意識する前に口から出てしまっていると思う。もはや衝動として、考える間も無く言葉が出てくる。文章を書くときと同じように、流れるように言葉を紡ぐことができる。

けれども、私が「褒めよう」と思って誰かを褒めるとき、心の中の何かのハードルを、一度踏み越える必要がある。高くそびえ立つ壁のようなものではない。たいしたものじゃないのだ。陸上で、ひょいっと超えられる程度の低いハードルだ。けれども、「褒めよう」と思い立った瞬間に、そのハードルは私の目の前に現れる。それを乗り越えないことには、私は褒め言葉を口にすることができない。

だから、私が人を褒めるときのパターンとしては

 

純粋な気持ち(すげー! 面白い! 感動した等)

その興奮を自分一人で留めておけない、相手に伝えたいまたは誰かに伝えたい

口から出る

 

というオタクが推しキャラの布教活動をするような感覚のときと、

 

仲良くなりたい・好かれたい・育てたい・優位に立ちたい等の何かしらの下心

よし! 褒めよう!

ハードル(下心がある気恥ずかしさ・気まずさ・罪悪感等)

ハードルを越える(いやいや、とはいえいいところをいいと言えばお互いハッピーじゃん、向こうも嬉しいし私も嬉しいし……等)

口から出る

 

というかなり打算的な考えで褒めるときと、2パターンあるのである。

で、オタク的な気持ちのときはもう本当に「尊い!!!!」という気持ちが溢れているだけなので、もはや褒めているという自覚もないのだが、打算的なときは完全に感情ではなく理性で褒めているということに気がついた。

まあ別にそれでもいいじゃん、お互いいい気分になれるんだし、とも思うのだが、問題が一つ。

それは、打算的に褒める場合、相手のことをコントロールしようとしてしまっているということだ。
ベストセラー本『嫌われる勇気』にも書いてあってすごく腑に落ちたのだが、「褒める」という行為は、立場が上の人間が下の人間を操作しようとする、支配下に置こうとする、という側面があるという。

リアルの場であれSNSの場であれなんであれ、褒めることで心の裏に「相手にこう動いてほしい」という打算が少なからずあって、私が褒めることに違和感を感じていたのは、自分の中の下心が気持ち悪すぎて我慢できなかったからだ。

私は人よりも「好かれたい」とか「認めて欲しい」という気持ちが強くて、だからこそ相手に「こうしてほしい」と期待することも多い。自分が褒めることによって、周りに人が寄ってくることを期待していたのだ。

けれども、私の周りにいる褒め上手な子たちは、おそらくみんな「オタク」パターンで、私のように褒めるまでのワンクッションがないのだろうと思う。人が好きで、「この人すごいなあ」と思う気持ちが強く、素直にその言葉が溢れでているだけなのだ。

私もそんな人になれればよかったんだろうけれど、あいにく、私は他者の長所を素直に認められるタイプではない。
自分よりも才能がある人が周りにいるのも嫌だし、こうして天狼院で働いていて、次々に優秀なメンバーが入ってくると、本気でこないでくれと思う。私の立場を脅かさないで、とすら。

人のいいところを褒められないなんて人間としてどうなんだろうとも思うのだが、仕方がない。褒めるという行為は、軽々しく行われていいものだとは思えないのだ。やっぱり。

 

今、私は天狼院書店で店長をしている。
福岡天狼院は、今年の5月にリニューアルをしてから、担当して7ヶ月目だ。福岡天狼院は、がむしゃらにとにかく色々なチャレンジをしているうちに、売上も伸びて成長してきている。お客様に、居心地が良いと言っていただけることも増えた。福岡チームは、私だけでなくスタッフ一人一人が一生懸命に店のことを考えてくれている。
福岡以外に、東京の担当をしていたこともあって、これまでに紆余曲折あり、スタッフとのやりとりも苦労することばかりだった。

失敗ばかりしてきたし、自分も不安ななかで店を回さなければならないのに、スタッフの気持ちを考えている余裕もなくて、でも余裕がない自分も嫌で、やり方がわからなくて、さまよっていた。コミュニケーション不足だと感じてやたらと褒めてみたりもした。でもうまくいかなかった。きちんとケアができなくて離れていく人もたくさんいた。

ふがいない、と思った。悔しい。情けない。申し訳、ない。

せっかく、天狼院に興味を持ってくれたのに、私のせいで、つまらないと感じさせてしまっている。

 

そんな状況のなか、福岡のリニューアル担当になったとき、まず、何をするべきだろうと思った。このチームをいいチームにするために、何ができるのだろう、と。

褒めること?
一人一人のいいところを見つけること?

 

違った。
怒ることだった。

いや、怒る、というと語弊があるかもしれない。「叱る」ことだった。

誰かがミスをしたり、お客様に失礼な態度をとったり、福岡天狼院が目指しているものに反するような働き方をしたら、叱ること。指摘すること。ここがこうで、こうだったから、次はこうしよう、ときちんと話すこと。目指しているものを、共有すること。

自分ですらちゃんとできていない、社会人としてまだまだという意識があるのに、そんな私が人を褒めるならまだしも叱るなんてやるべきじゃない、と思った。まずお前がやれよ、と言われたらどうしよう、とも。お前がちゃんとしろよ、と自分にツッコミを入れた。

 

 

もちろん、褒められて伸びる人もいる。ひたすら褒め続ける方がのびのびとやれる人もいる。
けれども、それだけで、人は成長するのだろうか。

たとえば車がブンブン走っている道路に向かって全力疾走している子供に、「足早いね、すごいね、今度はこっちにきてみようか?」などと言う親がどこにいるのだろうか?

首根っこをひっつかんででも、足を止めさせて、なぜ走ってはいけないのかをきちんと伝えなければならない場合だってあるんじゃないか?

そう思ったのだ。

私の上司である三浦は、怒ると信じられないくらい怖くて、これまでに思い出せなくらい怒られている。迷惑ばかりかけて叱られるのが嫌で泣いたことだって何度もあった。
おそらく、褒めてもらった回数のほうが、ずっと少ないだろうと思う。以前は、叱られるのが嫌で嫌で仕方なかった。

だけど、今だからこそ、思う。

叱ることこそ、愛だと。

褒めて持ち上げてちやほやするのではなく、相手のこれからを考えて、どうすればいいのか、どうしたら役に立てる人間になるのか考えて、きちんと叱れる人間こそが、愛情深い人間なんじゃないかと、今は思う。

あるいは、ブラック企業的だとか、パワハラをする人間の発想だとか、そう言われるかもしれないけれど、もう、知ったこっちゃない。

もちろん、好き放題自分の鬱憤を晴らすために怒鳴り散らすとかしたら、それはパワハラになるかもしれないけれど。
私は、褒めて好かれようとする人間はやめて、相手を叱るべきときにきちんと叱れる人間になりたい。

いい面ばかり見て口に出すのではなく、相手の未来まで、みんなの未来まで考えられるのが愛情だと、私は思う。

人を叱るのは怖いけど、悪者になりたくないけど、嫌われたくないしうざがられたくないけど、今私がやるべきことは、これなんじゃないかという気がしている。直感的に。

組織には、「褒め上手」も、「叱り上手」も必要だ。

褒める役割はもとから褒め上手な人に任せて、「褒められないコンプレックス」は脱ぎ捨てて、私は私にできることをやろう。

 

褒めればいいってもんじゃない。

「怒ることが褒めることにもなる場合もあるからね」

あのとき、どこの誰ともわからないあの人に言われた言葉の意味が、今になってようやく、わかるような気がする。

 

 

❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。

 

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」木曜コース講師、川代が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2018-12-11 | Posted in 川代ノート(READING LIFE)

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