週刊READING LIFE vol,98

「美しい顔」に戻った兄が教えてくれたこと《週刊READING LIFE vol,98「 私の仮面」》


記事:神谷玲衣(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
それは金曜の夜だった。友人と表参道で食事をし、終電近くにほろ酔い気分で帰宅すると、珍しく家の留守電が赤く点滅していた。
 
普段はほとんど携帯しか使わないので、「なんだろう?」と訝しく思いながら、メッセージ再生ボタンを押した。無機質な男の声が、こちらの名前を確認してから話しだした言葉を理解するのに、何度かメッセージを聞き返さなければならなかった。
 
それは警察からの電話だった。兄が自殺をして警察に安置されているので、すぐに来て欲しいとの連絡だった。頭の中が真っ白になった。あまりよく覚えてはいないが、とにかくタクシーに飛び乗って警察まで行き、兄と対面した時の印象だけは強烈に残っている。
 
衝動的な飛び降り自殺だと聞かされたが、安置されている兄はとても美しい顔をしていた。もともと整った顔立ちだったが、死に顔は苦悩にさらされたという感じではなく、ただただ美しい彫刻のようだったのを覚えている。思い返せば、数ヶ月前に会った時は、やつれて苦悩している顔つきだったのだが、死に顔は、そうした負の感情を超越した存在となり、神々しいほどに綺麗な顔になっていた。
 
私は、美しい顔をした兄の氷のように冷たい頬に触れながら、「どうして死んじゃったの?」と泣いてすがった。泣いても泣いても兄は何も答えない。奇妙な話しだが、私は泣きながらも、実はまるでこうなるのが必然だったかのような気もしていた。なぜだかわからないがその時、「兄はきっと、持って生まれた元の姿に戻りたかったのだ」ということだけを感じていた。
 
その後、いろいろな手続きをしたとは思う。でも兄の、この世のものではないほどの美しい顔が鮮明に焼き付いて、私のすべての記憶をかき消してしまった。
 
当時、私は講師をしていた。企業やホテルのサロンで、カラーコンサルティングや接遇マナーなどをの講演をするのが主な仕事だったが、その週末の日曜日も、ホテルでのカラーコンサルティングの仕事が入っていた。
 
土曜日は、警察や葬儀社との対応に追われた。その夜帰宅すると、泣きながらお風呂に入った。泣いて泣いて、ただ泣きたかった。いつからか、私が泣くのはいつもお風呂でだった。泣くと翌日、目が腫れる。講師という仕事柄、みっともない顔で人前には立てないので、常に自分の感情と外見をコントロールすることが習性になっていた。お風呂で泣き、出たあとで冷たいタオルで冷やすと目が腫れにくいので、泣いた後はしっかり冷やすことを欠かさなかった。
 
兄が死んだというのに、泣きながらも翌日の仕事を考えて冷静に対処している自分が、とても冷たい人間に感じられた。こんな妹だから兄を救えなかったのかな?と思うと、またもや涙が止まらなかった。泣いても泣いても、兄の気持ちはわからない。わからないから、また泣く、の繰り返しだ。結局どんなに泣いてもわかるのは、ただ兄の最後の顔が美しかった、ということだけだった。
 
日曜日、私は目が覚めるようなビビッドオレンジのスーツを着て、きらびやかなホテルのサロンでスポットライトを浴びていた。打ち合わせをした時に、会場の色合いに合わせて、当日はオレンジのスーツを着ていくと決めていたのだ。
 
目の前の受講者の方々に、私の目が腫れているとはわからなかったと思う。いつものとおりに、にこやかに、最大限の笑顔でアイコンタクトをしながら話す。カラーコンサルタントというのは、その方の似合う色の診断をするだけではなく、素敵な夢の時間を与えるのが仕事だと思っているので、仕事中の私はいつも最高の笑顔という仮面をつけていた。おかげでその日も、受講者の方々、ホテルの担当者の方ともに高評価をいただける講演会にすることが出来た。
 
講師の仕事は大好きだった。知識は本を読んで得られるかもしれないが、受講者の方が、私という媒体を通してその知識を得ていただく意義を感じて、毎日生きがいを感じながら、精一杯仕事に打ち込んでいた。が、その日の仕事は私の人生で最も困難だったと言ってもよいだろう。笑顔でいれば、少しくらいの心のささくれは穏やかになるものだが、さすがにその日の心の状態で、最高の笑顔のを保つのは難しかった。
 
次の週も、そのまた次の週も、葬儀や、独身だった兄の死の残務処理に追われた。日中は、毎日のように続く現実的な問題に対処する自分と、夜になるとカラーコンサルティングの受講生を前に、華やかに仮面をつけて話している自分とがせめぎあっていた。
 
そうこうするうちに、一年で一番忙しい新入社員研修の時期になってしまった。まだ自分の内面と仮面とのギャップが大きいままに研修が始まった。例年、過密スケジュールのこの時期は疲れが溜まるのだが、とくにその年は、心も体も悲鳴をあげそうだった。
 
日中は新入社員にビジネスマナー研修をするので、爽やかな仮面をつけつつも、必要な知識がより効果的に学べるように気を配る。同じ時期に複数の企業を担当するので、毎日100名程度の受講者を相手に、2週間ほど研修が続いた。と同時に、夜はカラーコンサルティングの講座で華やかな仮面をつける。常に最高の笑顔でにこやかに夢の時間を演出して、受講者の方々に希望を持ち帰っていただくことが必要だった。
 
そうして帰宅したあとのお風呂で、ようやく私は仮面を外す。仮面の下には膨大な涙が隠れている。その涙をお風呂のお湯にリリースして、冷たいタオルで目を冷やし、また新たな明日がやってくる。そんなことを何日か繰り返すうちに、ふと涙も出なくなっていることに気がついた。「涙が」ではなく、「涙も」である。素の自分と仮面との乖離が大きくなりすぎて、自分が壊れ始めていたのかもしれない。
 
人間は、三層になっているのかもしれないなと思う。第一層の魂と言われる人間の本質は美しいものであっても、二層めの、人間というかたちで生まれた私達は、デコボコといびつなのではないだろうか。そしてそのいびつな素の自分を、一層めの美しい本質に近づけるために、また、周りの人とうまく関われるようにと、三層めに仮面をつけて生きているのだろう。
 
そう考えると、三層めの仮面は、私達を一層めの魂の本質に近づかせるための矯正ギプスのようなものかもしれない。だから、正しい仮面をつけたら一層目の本質に近づくが、間違った仮面をつけると、本質からどんどん遠ざかってしまう。
 
そうか! 兄は焦燥感に苛まれて死んだというより、焦燥感という、真の自分とかけ離れた仮面を選んだことにより、自分の美しい本質から切り離されてしまったことに耐えられなくなってしまったのだ!!
 
お風呂で突然ふってわいたこの考えが、私を底なしの悲嘆の沼から引きずり出してくれた。答えの出ない「なぜ?」を問い続けるだけの世界で、堂々巡りを続ける狂気から救ってくれたのだった。
 
さらに私は、兄の死に顔が美しかったことを思い出した。兄の本質は「美しさ」だったのに「焦燥感に苛まれた顔」という仮面をつけてしまっていたので、兄はその苦しさから逃れて、素の美しさに戻りたかったのだろう。仮面をつけかえれば良かっただけなのに、それが出来なかったがゆえの死だったのだと思う。遺体安置所で直感的に「兄は持って生まれた元の姿に戻りたかったのだ」と感じたことの意味が、この時やっとわかった気がした。
 
人間の持って生まれた本質はきっと、「美」なのだろう。その美しさ、善なるものに、どんな仮面をつけるのかが人生を決めるのだ。辛く悲しい仮面を選ぶ人、楽しい笑顔という仮面を選ぶ人、美しく輝く仮面を選ぶ人と、いろいろな人がいて、いろいろな人生がある。その選択は、個々人に任されているが、本質の美や善と大きくかけ離れてしまう仮面だと、矯正ギプスが間違った方向に作用してしまい、人生がどんどん辛くなっていくのかもしれない。
 
そして二層めの自分の素顔と仮面とのギャップが大きすぎても自分が壊れてしまうのだから、等身大の自分と大きく違いすぎない仮面を選ぶことも大切なのだろう。
 
死の本当の意味とは、私達がつけている仮面や体が壊れてしまうことではなく、一層めの本質に戻っていくことなのだと思う。亡くなったすべての人は、善なる美しいものに戻っていくのだと考えると、少し心が軽くなるような気がした。
 
こうしてその夜、お風呂の中で得たひらめきが、壊れそうになっていた私を救ってくれたのだった。それまで兄に対して抱いていた、哀しさや情けなさや悔しさややるせなさ、といったごちゃごちゃの感情が、少しずつほぐれていった瞬間だった。
 
これからも私は、仮面という矯正ギプスをつけて生きていくのだろう。賢者のように、仮面をつけないで第一層の美しい本質と等しくいることは難しく、凡人である私に矯正ギプスは欠かせない。けれど、仮面は人生の方向を大きく変えてしまうとわかったからこそ、選び方は慎重に、等身大の自分と乖離しすぎない、前向きな明るい仮面を選ぼうと思うのだ。善なる本質に同化させてくれる仮面をつけて生きていけたら、兄が「いい仮面を選んだね」と褒めてくれるような気がしている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
神谷玲衣(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

イタリアでファッションバイヤーとして勤務。帰国後は、16年間、カラーコンサルティング、人材育成事業などの講師として、専門学校、大手企業、ホテルとフリーランス契約。夫の転勤でドイツとアメリカで子育てをする。2020年9月から天狼院ライターズ倶楽部に参加。

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2020-10-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol,98

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