チーム天狼院

小説「窓」vol.3《川代ノート》


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「本当にごめん、お茶とかコーヒーとか、気の利いたもの何にもなくて。ビールか焼酎ならあるんだけど」と冷蔵庫のなかを探しながら僕は言った。
風野梨生は「あ、じゃあビールを。ありがとう」とためらいなく言った。僕はちらりと棚の上の時計を見たが、針はまだ三時を指していた。
僕は折り畳み式のテーブルを押し入れから引っ張り出し、表面のほこりをふきんで綺麗にふいた。テーブルを置くと狭い部屋がますます狭く感じたが、彼女はまったく気にしていないようだった。
僕はこのあいだ、音楽サークルの友人とだらだらと家で飲んだときのまま、冷蔵庫にしばらく放置されていたビールを彼女の前に出した。彼女は僕に断ることもなく、いただきます、という一言もなく、ためらいなくアルミ缶を開けた。プシュ、という気持ちのいい空気音がしたかと思うと、彼女ののどからごく、ごく、というビールが勢いよく流れていく音が聞こえた。よほどビールが好きなのだろうか? 僕は初対面の男の部屋で出されたビールを何のためらいもなく(そして遠慮もなく)一気に飲みほす女を見たのははじめてだった。しかもまだ温かい日の光がさしこむ昼間にだ。
「はあ、おいしい」と風野梨生は嬉しそうに言った。口のまわりにはうっすらと白いひげができていた。いろいろと疑問は浮かんできたが、彼女の飲みっぷりはどこかチャーミングだった。現実離れした整い方をしている上品な彼女の顔と、ビールの缶にプリントされた安っぽいフォントは不釣り合いなはずだったが、不思議と彼女にはよく似合っていた。それどころかむしろ、そのビール缶の世俗っぽさと、鼻の下にできた泡のひげをぺろりと舐める仕草が彼女のコケティッシュさをより引き出しているようにすら見えた。不思議だ。僕みたいに何を身に着けても平凡で平均的な人間になってしまうやつもいるのに、彼女のように、何を着ても何を持っても彼女を魅力的に見せる道具にしてしまうような人間もいるのだ。世の中は相変わらず不公平だな、と僕は思った。
そしてやはり彼女の美しい顔が笑うと、何もかもをどうでもよく感じさせるようなきらきらした光がこぼれ落ちたように僕には思えた。僕は彼女が目の前に座っているというその事実にたいしてすら、妙な感謝をおぼえてしまった。
けれどそこまで考えてなぜか恥ずかしくなった僕は、だまってプルトップをあけ、ビールを飲んだ。苦い炭酸が僕の口内を刺激して胃に流れ込んでいく。自然とはあ、と息がもれる。たまには、昼間から飲むビールもうまい。
「望月さん。私ビールがこんなにおいしく感じたの、はじめてです。すごく喉が渇いてたの。それに十二時くらいからずっと鍵を探し回って疲れてたし。望月さんがいてくれて本当によかった。ありがとう」と彼女は言った。
「いや、いいよ。授業を休んでいてよかったかもしれないね」
「サボったのね、今日。よかった。サボってくれて本当によかった……なんて、本当なら言っちゃいけないんだろうけど」ふふ、と彼女はいたずらっぽく笑った。
「それにしても風野さん、よく僕の部屋の窓までたどり着けたね」と前にコンビニで買ったピスタチオの袋を開けながら僕はきいた。
「ああ、そうそう。大変だった。私、子供の頃から木登り得意だから簡単にいけると思ってたんだけど、なかなか難しかったわ。さすがに二十一にもなると感覚が鈍ってるよね」と彼女はピスタチオをぽりぽりとかじり、平然と言った。「でも望月さんの下の階の人の窓枠をちょいと拝借して足をかけさせてもらったら、なんとか登れたの。今日は留守だったみたいね、ラッキー。私、今日すごくついてる。あれ、でも鍵をなくしたんだからアンラッキーと言うべきかな? まあでもラッキーだよね、結果的にこうして望月さんとお友達になれたんだし。私望月さんと前から話してみたいと思ってたから友達になれて嬉しいの。ねえ望月さんもそう思うよね?」
「ごめん、いきなりなんだけど、あのさ、その望月さんって呼ぶのやめてくれない?」と唐突に僕は彼女に言った。
「どうして?」と彼女は怪訝そうに首をかしげる。
どうしてかは僕にもよくわからなかった。けれど彼女の透き通った上品な声が「望月さん」と発音するのを目の前で受けとめられなかったのだ。なぜだろう? わからない。本当にわからなかった。これまで何度も「望月さん」と呼ばれることはあったけれど、こんなに不快な気分になることは一度もなかった。自分自身が不思議だった。僕のあずかり知らない何かが、見えないずっと先の雲の上から、マリオネットのように僕を操っているのかもしれない。
「『望月さん』って言われるとなんだか、背筋がぞわっとするんだ。すごく寂しい気分になるんだよ」
「でも、『望月さん』って呼ばれることなんてたくさんあるじゃない? 市役所とか病院とかに行くたびに背中をぞわぞわさせてるっていうの?」と彼女は不思議そうにきいた。
「違うんだよ。別に望月さんと呼ばれるのはいいんだ。アルバイト先でも望月さんだし、ゼミでも望月さんだ」と僕は前置きをして、「でも、どうしてかはわからないけど――その、風野さんには言われたくないんだ。風野さんの口から『望月さん』という言葉が出てくると、鳥肌がたつんだよ。本当に理由はわからないんだけど、別の呼び方にしてくれないかな。ごめん」と僕は彼女になるべく誤解をさせないように説明した。
彼女はしばらく不思議そうに僕の顔を無遠慮に見つめていたが、少しすると「ああ、なるほどね」と言った。なにがなるほどなんだ? と僕は思ったが、とくに何も言わなかった。
「いいよ、じゃあ望月さんとはもう呼ばない。優人くんでいい?」
「うん、いいよそれで」望月さんと呼ばれないなら僕はもうなんでもいい。
「じゃあフェアじゃないから、私のことも梨生って呼んでね。絶対に苗字で呼んじゃだめだからね。わかった?」
「わかった」僕はほっとした。
「それでさ、優人くん。困ったところを助けてもらって、ビールまでご馳走になってるのに申し訳ないんだけど」と言うなり彼女は体育座りしていた脚をほどいて僕の方に向きなおって正座をし、両手を合わせて申し訳なさそうなポーズをとった。僕はなんだか嫌な予感がした。僕がもっとも嫌うタイプの女の仕草だった。自分の容姿が世間一般的に見てアドバンテージであることを自覚している女だけがやる仕草だ。このわざとらしい甘える姿勢に、山口登美子も落ちたのだろうか。
「今日、泊めて! お願い!」

(つづく)

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2015-06-08 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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