お母さんと二人で過ごしたお正月
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事: Jin(ジン) (ライティング・ライブ大阪会場)
「上になったり、下になったりしている間に、お金取られたりするから、気をつけや」
玄関で靴の紐を結んでいた時に、後ろからお母さんがそう言った。
大学4年生の夏、初めて独りでヨーロッパへ旅に出ようとしていた時のことだった。
あの時の言葉は、今でも昨日の事のように覚えている。
なにせ子供の頃、一緒にテレビを観ている時にキスシーンがあると、
「知らない人とキスするなんて、女優さんって嫌じゃないのかな?」
なんてことを言う「超」がつくほど真面目なお母さんが、あんなドキッとするような言葉を僕に言うなんて、あまりにも衝撃的だったから。
そんなお母さんも今年、米寿の88歳を迎える。
80歳を越えても大病一つせずに、ずっと元気でいてくれたけど、ここ最近、様子がおかしい。5年ほど前から、左足の痺れを訴えるようになり、整形外科で脊柱管狭窄症との診断をされてからだ。
脊柱管は、背骨内部の神経や骨髄の通り道であり、老化などにより狭くなってくると神経が圧迫されて、腰痛や足のしびれ痛みが発症する。手術でしか完治する方法はないが、高齢になるほどリスクも高まり、車椅子生活になる可能性もあったので、家族で話合って手術は断念した。
「足さえなんともなければなぁ」
外出しても痺れや痛みから長く歩けなくなり、ベンチなどで座り込むことが多くなったお母さんは、そんな言葉を口にするようになった。そして、大好きだった老人大学の合唱団へ通う頻度も減っていった。
「最近、物忘れがひどいねん」
お母さんの近くに住み、独り暮らしの母を支えてくれている妹が、そんなことを言うようになったのが3年ほど前から。
「まあ、歳も歳やからなぁ」
「でも、認知症テストすると100点取って、変に自信持っちゃてるから困る」
お母さんらしいと思った。たぶん、プライドにかけて必死で問題を解いていったのだろう。
その頃は、お母さんもまだ気丈さを保っていた。
しかし、新型コロナの影響で合唱団の活動も自粛が続き、親しい友人とも会えなくなって自宅に引きこもる生活が、お母さんを変えていったようだ。
若い頃からコーラスが大好きで、いつも明るいトーンの声で話していたお母さんも、いつしか鬱っぽい症状が出始め、精神的にも不安定になっていった。生きる気力が弱まったのか、得意な料理もしなくなっていた。お母さんが作るより美味しいサバの味噌煮は、未だに食べたことがないのに。
それにつれて、電話やLineでの妹とのやり取りが増えていった。
「要支援2に認定してもらったから、ホームヘルパーさん頼むよ。耳も聞こえにくくなって、あの人、ちょっと手に負えなくなってきているし」
妹の愚痴が多くなってきて、いつしかお母さんのことを「あの人」と呼ぶようになっていた。
そんな変化に少し不安を感じて、時々実家へ様子を見に行った。
妹によると、日々、お母さんの精神状態が変わり、しっかりしている昔のお母さんの時が少なくなっているという。足が痛いといって落ち込み、一日中ふさぎ込んでいることが多くなったらしい。おまけに物忘れも増えていって、会話してもコミュニケーションが上手くいかないと嘆いていた。
美人で気立てがよく、近隣でも人気のピアノ講師の妹の様子も変わっていった。
明らかにお母さんの行動がおかしいのに、それを注意すると逆切れされて妹の責任にされることが増えていったのが原因みたいだ。お母さんに対する妹の言葉もきつくなり、親子の関係が逆転していった。
「あんたはそういう人やから、仕方ないね」
お母さんに対して妹が「あんた」という言葉を使うのを直に聞いた時、事の深刻さを感じた。
加齢で衰えて行くのは人として仕方ない。しかし、それを間近で支える人のストレスは計り知れないものがある。
僕は離れて暮らしていることを理由に、妹の報告を聞き、感想やアドバイスを言っているだけだった。妹は、そんな僕に文句ひとつ言ったことがない。感謝しかなかった。
同時に、自分ができることは何かと考える日が増えていった。
そして、コロナ禍でワクチンをお母さんが接種する日は、副作用を心配して泊まり込んだ。
「腕を上げてみて」
そう聞くと、お母さんは、
「ほら、この通りやで。全然大丈夫やろ」
と言って笑っていた。熱も出ず、何の問題もなく翌朝を迎えた時はホッとした。
2回目の接種の時は、少し腕に痛みが残っていたようだったけど、心配していた副作用はなかった。何よりも僕と過ごす時間を楽しんでくれているお母さんの様子が嬉しかった。
それから、実家へ帰る日を増やしていった。
そして今年の元旦。
コロナもだいぶ収まってきていたので、僕と妹家族で実家に集まった。
いつもは夜になると解散していたが、僕は家内と息子を帰して、一人実家に残った。
残り少ないかも知れないお母さんとの時間を過ごす為に。
翌朝、おせち料理を食べながら話していると、
「今朝、またピンポンと玄関で鳴らされたんや」
と言い始めた。
妹から聞いていた話だ。最近、朝早くや夜遅くに玄関のチャイムを押して立ち去る人がいるとお母さんが言い張るのだ。半信半疑だった妹は、チャイムの電源を切ってみた。それでもお母さんにはチャイムの音が聞こえるらしい。それを説明すると、最後は喧嘩になるそうだ。元旦の夜もチャイムのコンセントは抜いておいたから鳴るはずはない。
(やっぱり少しおかしくなってきている)
直近の記憶が定着しにくくなっていて、同じことを何度も繰り返し説明しなければならないのは慣れていたが、そこへ幻聴というか妄想が入ってきているようだ。
「お母さん、それは違うよ。夕べチャイムの電源切っておいたから」
と言うと、少し考えてから、
「いや、後で私が元に戻しておいたんや」
と見え透いた嘘をついた。
その時、何故か僕が小さかった頃に記憶が飛んだ。理由は忘れたが、母に激しく怒られて
「そこにずっと立ってなさい!」
と言い残して、お母さんは買い物に出かけた。
僕は腹立ちまぎれに玩具を窓に投げつけ、ガラスを割ってしまった。そのことを隠すために、外から石ころを拾ってきて、お母さんが帰ってくると
「誰かが石を投げこんできたんや」
と説明した。
「ホンマか! 大丈夫やったか?」
とちょっと情けない顔をして僕に言った。
今から考えると、ガラスは外に飛び散っていたから、嘘だということは丸わかりだったはず。
その時のお母さんの気持ちを考えると、ちょっと心が痛んだ。
現実にもどると、目の前で年老いたお母さんが居た。
「ホンマやで。悪いやつがピンポン押すんや。こんな年寄り虐めて何が楽しいんやろ」
そう言って譲らないお母さん。
まともな会話をしていても、急に訳の分からない話が飛び出す。
そんなお母さんでも、僕はこの人から生まれてきたんだという思いで見ると、世界に一つしかない絆を感じる。
「そっか。でも、そんな奴、そのうち飽きて来なくなるよ。だからもう少しだけ我慢やで」
そう言うと、お母さんはにっこり笑っていた。
お母さんほど、ずっとずっと僕を愛してくれた人は他にいない。
年老いて、だんだん子供のようになって、立場が逆転していくけど、それもどこか愛おしい。
「また来月帰ってくるからな」
そう言うと、少女のような笑顔で、
「ありがとう。でも、そんな無理せんでいいよ」
と言う言葉に、目頭が熱くなっていった。
***
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