吾輩は、痔主である《週刊READING LIFE Vol.158 一人称を「吾輩」にしてみた》
2022/02/21/公開
記事:篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
吾輩は、痔主である。
詳しい病の名前は、未だ知らない。
左の尻の穴の縁に、赤黒き塊のやうな疣(イボ)生じて、便通の折に血など出ずる。
時は、いまや譲位あそばされし平成のみかどの御世の、二十年ごろのことであったと思ふ。
吾輩は、瘦せつぽちの十七歳なりけり。高等学校に通ふ二年生であつた。
ある寒き冬の朝のこと、尻の穴だけが、なんだか不意にひやつとしたやうに思はれた。
これはオカシイと思ふも、瘦せぎすの身とは云へ、吾輩、あくまで健康の身なり。
やがて便意起こりにけり。家の便座に跨ると、矢張り厭な予感に満ち満ち恐ろしく、しつかり踏ん張ると云ふことができぬ。
恐る恐る、まるで寝た子を起こさぬかのごとく、そおつと力を込めて見る。
……ぶちんんんんん!!!
刹那、やおら電気のやうなもの……かけ巡る。
——穴や、では無かつた、あなや!
「上官殿、上官殿!! ただいま魚雷爆発せり!!!」
いまや吾輩は海戦に於ひて敗北必至の、逃げ惑う潜水艦の水夫誠敬。泣き面に蜂、否、尻底に魚雷一閃。嗚呼、此処はいずこや。吾輩は去る日露戦争にて日本海沖に沈みゆくロシヤ軍か、或ひは真珠湾にてよもやの奇襲を受けし米国海軍か。
吾輩あまりの激痛に、冷や汗かいてうずくまる。そしてかような分けの分からぬこと、考えるほか為す術無し。
吾輩、洋式便座に跨りて呻き声を漏らしつつ、血と、それから涙を落としはべりぬ。
ところで全く以て、血は争えぬものである。
吾輩の尻からは相も変わらず血が出てくるが、別にその「血」の話しがしたいのでは無い。
吾輩の親父殿も亦た、筋金入りの痔主なのである。
痔主殿は、年がら年中切れ痔を患っていたし、吾輩が産まれるまえのころには、ひどい疣痔を患って動けなくなったという。仕方がないので臨月真っ只中、今にも産まれんという身重の母上殿に、無理矢理秘薬「ぼらぎのおる」を買いに走らせたのだという笑ひ話しさえ有り。
ところがこの親父殿、この度切れ痔がすっかり癒(なお)ったのだという。
その秘訣を聞くに、
「近頃の洋風便座に備え付けのウヲシユレツト、あれは良い」
と云ふのである。
時は平成二十年のことなれば、吾輩の住まう山陰地方の寒村にも、やうやうウヲシユレツトなるものが普及しはじめてゐた。
さふいふわけで、吾輩の生家にも遂に、ウヲシユレツトなるものがやって来た。そして親父殿の尻の傷、忽ち癒る。
さあ、吾輩も真似をして、恐る恐るウヲシユレツトを試しけり。
恐る恐る、”ヴィデ”でも”温風”でも無い、”おしり”の釦(ぼたん)押しにけり。
されば便器の淵より何やら伸びてきて、そこから出ずるは水柱。
ところがここで吾輩、一生の不覚であつた。
——嗚呼、やうやう見れば、「強さは”最強”なりにけり!!!」
水ひとつの塊となるや、吾輩の疣めがけて一撃必殺。突き刺さる!!!
吾輩は矢や鉄砲の弾でも浴びて、もんどり打ちて馬から落ちる兵のごとく、「うっっ」と声に為らざる声を上げ、便座から飛び上がる。
落馬、いや楽座した吾輩、便所の床から空を見上げる。
そこに広がる光景は、便器から伸びる一筋の噴水なりけり。
おお、見事なアアチであることよ!! まるで虹のやうであることよ!!
などと見とれて居る場合ではなかつた、吾輩絶望の噴水に身体を濡らしながら、そつと「止」釦を押しにけり。
さても便所は一面水浸し。これを目にした母上殿のお顔、今だに忘れることできぬ。
まるで奈良は東大寺におわす、金剛力士像のやうであられたことよ。
この後も、吾輩温かなる風呂で疣を揉み解す、ウヲーキングで血の巡りを善くする、ついには秘薬ぼらぎのおるをの封印解くなど万策講じるも、我が尻、一片の効き目なし。
吾輩は、高校生なりけり。
座学の講義は右、左とシイソオのようにかわるがわる尻の肉のみに体重を預け、穴に負担がかからぬよう、ただ一心に勤行つかまつる。
こんなことをやつて居ては、数学も化学も世界史も、学問ひとつも身につかぬ。
只だ尻に負担がかからぬよう、右と左の尻の間、重力のキヤツチボオル。不変の物理法則を身体で学ぶのみなり。
学校で特に辛きもの、それは体育の授業なりけり。
チヤイムが鳴れば校庭や体育館に出て整列、ここまでは良い。
なれど教官殿に命じられるがまま、しゃがむその刹那、やおら疣飛び出し、思はず尻を抑えて「うっ」と悶えにけり。
嗚呼、吾輩の青春、ただ一片の赤黒い疣により、暗雲大きく立ち込めけり。
つひに耐え兼ね、吾輩は母上殿に打ち明けた。
「母上殿、吾輩はその……尻を……患っているのです。……疣痔、……で、ござりまする。尻に巣食う大きな疣が痛むゆえ、近頃学問に打ち込むことも、学友たちと青春を満喫することもかなひませぬ。いまや恐怖で、便所にも碌に往けぬ次第。」
吾輩は至つて真剣そのもの、恥と涙を忍んでの告白なれど——如何せん患ふ場所の格好悪さたるや。
母上はこみ上げた笑いを堪えきれぬ様子で、それでも思春期只中の息子を十二分に気遣ひながら、
「分かりました、それでは貴方を病院へ連れて行つて差し上げましょう。」
と、云って下さつた。
斯くして吾輩は、母上の運転されるぷりうすに乗り、ハネダとか云う名前の、界隈では名の知れた、尻の名医のところへ向かつたのである。
車を走らせることおよそ弐拾分、着きにけり。
——「内科・胃腸科・肛門科 羽田医院」。
吾輩はクリニツクの前に立つや、身構える。
年季の入つた建物に、薄墨色の禿げたペンキ。
低いクリニツクの、天井。
見上げるに、此の日の空の色、山陰地方の真冬ならでは、北からの寒気纏ふ鉛色の空なり。
この景色を見た吾輩、吾が身になにか悲劇起こるのではと、暗澹たる気持になりにけり。
院内に入ると、受付の女の云うがままに受付を済ませ体温を測り、問診カアドを書いて待つ。至極真当な話しなれど、問診票でこれほどに尻のことにつひて訊かれるや、はじめてのことなりけり。
ふとクリニツクの中を見渡せば、老若男女、多くの患ひ人で溢れていることよ。
うら若き乙女の姿さへ二、三ありけり。
彼らの多くが吾輩と同じく尻に悩んで居ると思ふと、我が心少し軽くなる。
「次、シノダさーん」
甲高き受付の、年配の女の声。
名前を呼ばれる、選ばれると云うことは大概光栄なことなれど、斯くも心が萎える指名なるものが、この世には或ることか。
さて、運命の刻きたる。
肛門の医者とは、いつたい何を診るのやら。
唯だ、問診で薬をもらひて終わるなら、何の逡巡も無いのであるが。
「はい、こんにちはー」
クリニツクの主は、五十過ぎである。
黒縁眼鏡を掛けた、白髪交じりの細身の男であった。淡々とした喋り口であ…
「じゃ、脱いでー」
「!? !? !?」
時候の挨拶を返す間も無く、ゴング鳴りて開始一秒、痛烈なる先制パンチなり。
吾輩は、斯くも早くに秘部を晒すことになるとはと、脳天を殴り付けられたやうな気持になつた。
せめて向き合ひて、来院せねばならぬ斯く斯くしかじかを問うてくれれば心も安らぎ、未だ良いものを……。吾輩は頭が真暗になりながら、しづしづと制服のズボンとパンツを下ろす。
「はい横になってねー」
全く、この男には感情というものが無いのであろうか?
この男、人のこと、機械か何かと一緒くたにして居るのでは無かろうか?
或いはこの男が、ロボツトのやうな者なのであろうか?
吾輩は憤怒と恐怖の両方の気持をないまぜにし乍ら、下着もつけずに寝台(ベツド)に横たわる。看護師、そつと吾が股間に布切れをかける。吾輩、貌を恥じらいの朱色に染めにけり。
「はーい」
白衣のロボツト、振り返りてこちらへ向かひくる。
ロボットの両腕、何かもぞもぞと……
——嗚呼あああ!!! 両手に緑色の護謨(ゴム)の手袋、嵌めて居る!!!
吾輩の恐怖と絶望、いよいよ此処に極まれり。
高等学校弐年生、思春期花盛りの吾輩にである。
未だ愛する人とまともに、抱き合つたことも無いと云うのに。
こんな白髪の冷徹親父が、吾輩の!!!
吾輩の、神聖なる菊の御門の入り口に!!!
「はい、いきまーーーす」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―――――!!!」
これは尻の穴を診てもらつたことがある者にしかわからぬ。
出る声は腹の底から、断じて「あ」では無し、「あ゛」なりけり!!!
おのれも知らぬ野太き声が、診察室に響くこと響くこと。
「……これね! 立派なイボちゃんだねー☆ ちょっと触ってみるよ」
男、指先でそつと、吾輩の疣を撫ぜにければ、
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―――――!!!」
吾輩は、たいせつな宝物を失つたような気持であった。
この男にどれほどまさぐられたか知れず、そして何度「あ゛」と発したか知れず、気がつけば忌まわしき触診は終わりにけり。
白衣の男、ようやく少し笑顔を見せて云う。
「大したことなくてよかったねー♪ 大丈夫、薬で必ず良くなるよ。2週間分出しとくから、それ終わったらまた来てねー。ちなみに、今痛くて固まったお尻の穴をマッサージしたから、明日からトイレ、楽になると思うよー。はい、お疲れ様でしたー!」
相変わらず、間髪入れる隙のない親父である。
しかし、確かに吾輩の穴はぽかぽかとし、何やら尻の底から善い気がめぐってくる気配であつた。亦た、「必ず善くなる」という言葉にも勇気づけられた。吾輩は、はじめてあの男を、「先生」と心の中で呼ぶことにした。
ようやく魔の時間が終わり、吾輩は羽田医院の真横に在りし調剤薬局にて、薬の受け取りをを待ちにけり。
何せ、痔である。
薬といえば、大方塗り薬であろう。それか、痛み止めのやうな粉薬か。
薬は面倒なれど、羽田先生の言葉に従ふべし。
さようなことを考えて居ると、吾輩の番になった。
「はい、シノダさんね、痔のお薬です。こっちは塗り薬。起きたときとお風呂上がり、朝晩必ず塗ってくださいね!」
——塗り薬か、悪くは無い。ベタベタして厭だが、こればかりは仕方な……
「あと、こっちが坐薬ですからね、朝晩入れてくださいね!」
「ざ、ざ、坐薬!!!??? 嗚呼、何たる悪逆非道……、よもや尻の穴痛き者に向かひて坐薬とは……。」
——吾輩は、よくよく考えてみれば、秘薬「ぼらぎのおる」に「ちゅうっと注入する」機能が在りしことを今さら思いかへし、己の思慮の浅さに恥入るばかりであつた。
はじめての坐薬は、朝食を食べた後であつた。
まずは塗り薬を塗り、精神の統一を図ることこそ肝要。
——「いざ。」
かの鎌倉幕府を打ち立てし英雄・源頼朝公も、仇敵平家打倒にあたつて「いざ鎌倉」と立ち上がる時分、同じような心持であつたことであろう。
さあさあ、そこにおわすは憎き疣ノ守(いぼのかみ)の奴め、今、吾輩が成敗してくれるぞ! 控えおろ!!
頼朝公が征夷大将軍ならば、吾輩は征”痔”大将軍なるぞ!
……いざ、肛門!!!
さても吾輩、勢ひよく菊の御門へ錦の弾丸差し込めば、待ち受けるは悪代官・疣ノ守なりけり。攻めるは征痔大将軍、必死で塞ぐは疣ノ守。疣ノ守を振り切つて、大将軍、「うおおおおお」と、目えひん剥いて雄叫びや上げる。
ついに弾丸ひとりでに、疣の向こうへ突き進みにけり。
——勝つた!!!
源氏が平家打倒せし壇ノ浦のごとく、今や己が制するは尻ノ浦。
吾輩は快哉、興奮にて勝鬨を上げにけり。
ところが新たな悲劇、大将軍の疣ノ守ぜめ三日目の朝に起こりけり。
吾輩最早慣れた手つきで丸薬取り出し、吾が高等学校の男子便所の個室にて差し込みしばらくすると、腹の底にて
——おや?
という感覚あり。
しばらくして、吾輩、違和感の正体に気づく。
——よもや、男の吾輩には生涯分からぬはずの、「産まれる」というものではあるまいか!?
吾輩、烈しく狼狽せり。
厭だ、厭だ。
差し込んだ弾丸再び戻り来るなど、これ以上の屈辱など無し。吾輩心を無にし、当時流行り師しみすちるらばんぷやら呪文のごとく唱え、椅子に座りて耐えにけり。
しかし吾輩、用事ありて止む無くふと立ち上がりし拍子、
「ちゆるるん♪」
嗚呼、この感じ、蒟蒻ゼリイを飲み込むあの感じなり。
蒟蒻ゼリイ、喉ならず吾輩の尻よりちゆるるんと逆流し、亦たこの世に現れたり。
吾輩、心の中でむせび泣き乍ら、今一度男子便所の個室に駆け込み、産まれざる禁断の我が子をそつとテイシユーにくるみ、便器の中へ捨てにけり。
斯くして吾輩齢十七にして、尻の病なる絶望を耐え忍びけり。
日々の座薬と通院時のハネダの触診、筆舌に耐え難きものなれど、かの医者の予言通り、二週間ほどで疣は引つ込み、嘘のやうに痛みが退いた。
吾輩は、少しだけ強くなつた。
恥ずかしきことも痛みも、耐へ忍べばいつか終はると云うことに気づいたのである。
そして吾輩はもう一つ、大きな宝物を手に入れた。
それはこの、「滑らぬ話し」というものである。
この痔の話、大人になりた吾輩が酒の席で話せば百戦百勝、老若男女皆泪を流し、腹を抱へて笑ひけり。
こんな美味しいエピソオドなど、そうそう手に入るものでは無い。
人は皆、何か悩みや痛み、苦しみのやうなものをそつと抱きしめ生きて居る。
黒々とした、屈辱や鬱屈抱へて生きて居る。
なれどいつか、それは笑ひて話せる日がくる筈なり。
吾輩はいまや一介の痔主から、征痔大将軍まで昇りし者なり。
そして大将軍、酒の席のたび、此の「疣痔とおく」にて、毎度笑ひの幕府を開きにけり。
恥づかしき黒き歴史も、心の奥底留めておけば、必ずいつか、誰ぞや笑わす幸せの花となるなり。
楽有れば苦有り、苦有れば楽有り。
笑ひ有れば涙有り、涙有れば笑ひ有り!!
※本稿は、だいたいノンフィクションでした☆
□ライターズプロフィール
篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
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