メディアグランプリ

太宰を閉じた日 ―感情を閉じた私が、夢と希望をもつまでー


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記事:平井理心(ライティング・ゼミ4月コース)

雨が降っていた。私は太宰を読んでいた。私の傍らで0歳の息子は寝息をたてていた。

雨音は、時折息子を寝かしつけ、私にひと息できる時間をくれた。久しぶりの穏やかな自分時間だった。が、
「子供より、親が大事と思いたい」
この一文が目に入った。太宰治『桜桃』の冒頭だ。何かどす黒いものが私の中から沸いてくるような感覚があった。思わず、私は本を閉じた。そして、その感覚に蓋をした。

その日から、太宰だけじゃない。大好きだった文豪たちの本も閉じられたままになった。

育児や家事に追われていた。続いて、娘も生まれた。生活は厳しかった。
そこで、仕事を始めた。20年以上も前のこと、今のようにイクメンという言葉もなかった。それどころか、おむつもとれていない幼子をあずけ、母親が働くことに対する周囲の理解もそれほどなかった。
配属部署の上司からは「小さい子どもがいるなんて、上から聞いてなかったよ。貧乏くじ引いたよ」
義母からは「ちゃんと働いている夫がいるのに、どうしてあなたが働かなきゃならないの?」
夫からは「理心が楽しそうに仕事をしているのを見ると、むかつくんだよね」
四面楚歌だった。歯を食いしばって頑張っていたけれど、限界だった。

小さい息子と娘を抱きしめながら、泣いた。久しぶりに大声で泣いた。泣き切った後に、ふいにできてきた言葉があった。
「私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです」
大好きだった太宰治『斜陽』の一文だった。

私が『斜陽』に夢中になったのは、高校生の頃だった。堕ちながらも、懸命に生きる女性に惚れた。「太陽のように生きるつもりです」この言葉を発する女性を、恍惚たる思いで眺めていた。そのときの私は、夢と希望に溢れていた。私の未来は輝かしいものだと思っていた。しかし、数年経つと状況は一転した。大学生時に子どもを授かった。若くしての子育ては精神的にも金銭的にも厳しかった。

私は、かっこいいキャリアウーマンになりたかったのに。パンツスーツを着て、ノートPCが入った鞄を肩に掛けて、右手には経済新聞、左手にはスタバのコーヒーを持ち、高めのピンヒールを履いて、カツカツカツと都会を闊歩したかったのに。なのに、現実は、よれよれのTシャツを着て、哺乳瓶を持ち、泣きじゃくる赤ちゃんを、たったひとりで抱えていた。小さなアパートの一室で。そのときは、夢も希望も見いだせなかった。

太宰を閉じた日。あのとき私は泣きたかった。「子供より親が大事と思いたい」と、私も言いたかった。でも、そんなことを言うのは、母親失格のような気がしてしまった。なのに、太宰は、ずるい。どうして、炎上しそうな言葉を堂々と綴れるのか。どうして、そんなに感情を露わにできるのか。私は、自分の感情に向き合えなかった。そして、感情を閉じることで自分を保とうとしていた。でも、本当は辛かった。私も、自分の感情を素直に表出したかった。あの日、雨と一緒に泣けばよかった。

それから、しばらくして、なんとか環境を変えることができた。仕事を変え、夫や義母と別れ、住むところを変えた。無我夢中で生きた。その中でも自分の感情を大切にしていった。以前より、よく笑い、よく泣けるようになった。辛いと感じたときは、10回に3回ぐらいは、周囲に助けを求めることができるようになった。そして、「太陽のように生きるつもりです」は、何度も私を奮い立たしてくれた。

いつしか、私は、自分たちを応援してくれる人たちに囲まれていることに気づいた。
「がんばってるね」
「何か困ったことがあったら、言ってね」
と、声を掛けてくれることが、大きな支えになっていた。
そして娘からの
「理心はかっこいい。理想の女性だよ。理心が親でよかったよ」
という言葉は、何よりも元気と勇気をくれた。

あの雨の日、寝息をたてていた息子は、もう大学院生になった。娘は大学生になった。それぞれの夢に向かって、悪戦苦闘しながらも頑張っている。そんな子どもたちを見守る私に、ようやく、精神的・時間的な余裕がでてきた。そこで、再び、文豪たちをしっかり味わう時間を持てるようになってきた。キラキラしていたあの10代の頃以来になる。

最近、心に留まった言葉は、やっぱり太宰治の作品で、『織田君の死』にあった。33歳でこの世を去った、作家・織田作之助への追悼文だ。病死した彼のことを「自重がたりなかった」と言う大人たちに対して、太宰は「織田君を殺したのは、お前じゃないか。彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった」と訴え、最後は「織田君! 君は、よくやった!」という言葉で締めていた。

幾つもの人生経験をしてから味わう太宰は、とても奥深い。改めて太宰の感情表現に感服し、巧みな言葉・たましいの綴り方に魅せられている。そして、どうしたわけか、「私も書いてみたい」という衝動にとらわれた。あと数年で50歳を迎えるにあたって、もう一度何かにチャレンジしたくなった。何かを残してみたくなった。自分の最期に「理心! 君は、よくやった!」と、言える人生を送りたいと強く思った。

このように、太宰からの断絶と再会の時を経て、今、私は「文章を書く」ことを学んでいる。そして、2000字に自分を綴っている。そんな私を、息子も娘も、職場の人たちも、友人たちも、たくさんの人が応援してくれている。感謝の気持ちでいっぱいだ。

空には、虹が架かっている。私は太宰を開いている。そして、私には夢と希望がある。

(6月19日、桜桃忌に。太宰治に感謝をこめて)

***

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2022-06-23 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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