水深1メートルの世界
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:秋田梨沙(ライティング・ゼミNEO)
朝の通勤電車に揺られていたら、ピコンとLINEの通知が入る。
「たった今、クッションの下から水泳帽が発見されました」
夫からの連絡だ。
「忘れたみたいだねー」
と、長男を案ずる通知がそれに続いた。それを見て、私の眉間にはぎゅっとシワがよる。おかしい。それはあり得ない話なのだ。
3年ぶりに、小学校で水泳の授業が始まったのは、今週の火曜日のことだ。3年生の彼にとっては、今年が初めての授業である。今日は2回目の授業があるはずで、今朝、私が、洗濯を終えた水着、水泳帽、バスタオルを3点セットにして、ランドセルの横に置いた。確かに、置いた。なのにソファの上のクッションの下から出てきたと言う。あの位置から水泳帽がクッションの下に入るなど、宙を舞うか、帽子に足が生えない限りあり得ない。
「わざとだな」
帰宅したら、長男を問い詰めることを心に誓って、夫に返信をした。
「今日、帽子を忘れたらしいじゃない」
帰宅早々、ゲームに興じる長男の耳元で囁くと、彼はビクリと肩を震わせ、ギギギギギとゆっくりこちらを振り向いた。
「あ、うん。忘れちゃって……」
なんとか取り繕おうとするのだが、目の前10センチに迫る母の顔に、長男の目が猛スピードで逃げ回る。
「クッションの、下、から出てきたそうなんですが」
私は、さらに詰め寄る。正面で視線をガッチリと絡めとった。長男の頬は引き攣り、まさに蛇に睨まれたカエル状態である。
「わざと忘れましたね」
「はい……」
犯人はあっさりと白状した。
長男は小さい頃から水が大の苦手で、顔が濡れるだけで溺れると言わんばかりに嫌がった。当然、頭を洗うのにも毎日大騒ぎで、小学校に上がる直前まで、シャンプーハットが手放せなかった。今は3年生にもなり、さすがに一人で頭を洗えるようにはなったが、たまにお風呂場を覗くと、顔に水が掛からぬよう、くの字に背中が曲がるほど反り返って洗っている。難儀なことである。
そんな水嫌いの彼が、水泳の授業再開を歓迎してるはずもなく、初回の授業の前日には、
「もう……終わりだ……」
と、夕飯前のひと時、フローリングで魂を抜かれていた。母として、そんな水嫌いの息子を案じてはいたのだが、初回を終えた後の反応が「思ったより楽しかった!」と存外好感触だったので油断した。まさか忘れ物をしてズル休みする手があったとは。
「まぁ、ママも水泳嫌いだったし、今回は怒らないけど」
そう言うと、長男の顔がかすかに緩む。
「残念ながら……この手は一度しか使えませんので!」
ニヤリと笑うと、長男はしばし凍りついたのだった。
そして、翌週。
私は、朝から念入りにプールバッグの中身を確認している。前日の夜に一度、起きてからもう一度、さらに登校直前、長男がトイレに行った隙にもう一度バッグの中身を確認した。ある。水泳帽はちゃんと入っている。ついでに水着も念の為、所在を確認した。よし、大丈夫だ。
「行ってきまーす!」
バタバタと出掛けて行く長男を見送った後、もう一度辺りをチェックする。
クッションの下、よし!
ソファの下、よし!
カーテンの裏、よし!
ぐるぐるとリビングを一周して、忘れ物がないことを確認した。ぬかりは無い。あとは無事に帰宅するのを待つだけだ。泳げなくたって、日常生活に困ることなどないとは思う。心のどこかで可哀想にも思うけれど、嫌なことにどうしても向き合わねばならぬ時もあるのだ。息子よ、強く生きよ。憎たらしいくらい晴れ渡った青空を見上げて、私もバタバタと出勤した。
「今日の授業はどうだった?」
帰宅後、ただいまよりも先に長男に尋ねた。前回の授業を見学している分、授業が進んで、かえって苦労したのではないだろうかと1日心配していた。
「今日は潜れたよ!」
勢いよく振り返って、長男がウキウキと話し出した。片手で鼻を摘んでではあるが、初めて何秒か水の中に潜ることができたらしい。長男と水の親密度は1日にしてぐっと上昇したようだ。学校で「みんなで一緒にやる」と言うのも、刺激になったようだ。
「あとね」
あの悲壮感は何処へやら、興奮冷めやらぬ様子で話は続く。
「水の中、とってもキレイだった!」
不意の言葉に、鳥肌が立った。
この子は今やっと、そんな些細なことを経験したのか。
9歳になって、初めて目を開けて、水の中を見た。
もっと小さな頃に経験していたら、言葉では伝えられなかったかもしれない。初めて水中を見た日のことを記憶に残すことなどできなかったかもしれない。この年で初めて経験したからこそ、心に残り、こうして言葉にできたのだろう。心底、羨ましいと思った。
「それは素敵なことだね!」
張り切って、水中で左右を見渡す様子を再現する長男に、そう、声をかけた。これからも、ゆっくりでいいから沢山の発見をしていって欲しいと思う。
「ママも負けてられないな!」
そう言って、長男の健闘を讃え、乾杯した。
キンキンに冷えた麦茶が、私の中のもやもやも洗い流してくれたようだ。
***
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