人生を変えた白いクスリ
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:三好 健(ライティング・ゼミ10月コース)
この白い薬が、僕の人生を変えたと言っても過言ではなかった。
その日の朝もいつも通り、僕は目が覚めると錠剤のシートから一つ、白い薬を取り出してそっと手のひらに載せた。優しくだ。
一見すると普通の錠剤の形状をしているが、油断をするとすぐにはらはらと崩れ、錠剤としての形状を留めることができなくなる。例えば、手の指先にうっすらと薄い汗がついている程度であっても。
慎重に錠剤を舌の下へ置くと、すぐさま薬が崩れ始めたことが舌の感触で分かる。そのまま目を瞑りながら待つこと数分。すっかり唾液と混ざり合ってその存在を消した薬を、飲み下した。味は、ほんのりと微かに甘みがあるように感じた。
この薬の存在を教えてくれたのは、ある男だった。その男はある時期まで毎年、春の訪れを、いち早く教えてくれていた。
ガチャン、という金属音。オフィスの入り口の鍵が開いた音がした。
ゆっくり開いた扉から入ってきたその人は、風貌が分からなかった。
大きく顔の半分ほどを覆うサングラスをしていた。顔の下半分は白いマスクで覆われ、頭は黒いキャップを被っていた。上半身は黒っぽいナイロン製のウィンドブレーカーのような服だ。
映画スターウォーズのダースベイダーのようだった。全身が真っ黒でないのがとても残念だ。
スコーッ、スコーッ……というダースベイダーの呼吸音が、今にも聞こえてきそうなのに。
「もうそんな時季なんですね、ベイダー卿」と、僕。
「うるさいよ」といいながら、ククッと彼は声だけで笑う。表情は見えない。ベイダー卿は自分の席の椅子に座った。
「相変わらず、怪しい風貌ですね。もう感じます?」
「もう飛んでるねえ。今年は、例年の何倍とかってニュースでやってたよ」
この男が武装をし始めたと言うことは、まもなく僕の元にもやってくるだろう。
彼ほどの重装備は必要ないが、マスクとメガネは必須だ。
これからやって来るスギ花粉に備えなければならない。
ベイダー卿の装備である帽子は髪に花粉がつくことを防止し、口と鼻は二重にしたマスクで花粉の侵入を防ぎ、大きな花粉用のサングラスは目のかゆみを防止し、ウィンドブレーカーはその素材の性質から花粉が服に付着し辛いために自宅内に花粉を持ち込みにくくする。
これほどの武装をしてもなお生活に支障を来す、それが春の訪れを誰よりも早く皆に告げる彼の体質だった。
彼ほど酷い症状ではないが、僕も花粉症との付き合いはそろそろ30年近くになりそうだった。妻よりも付き合いが長いのだ。きっと花粉症とは一生を添い遂げるのだろう、死がお互いを分かつまで。そう思っていた、ある時までは。
2019年、春。違和感があった。
「今年はずいぶん軽装ですね、大丈夫なんですか?」
4月にもかかわらず武装解除をしているベイダー卿に僕は聞いた。
僕はといえば、花粉用のマスクをし、眼鏡屋で購入をした花粉専用のメガネをかけているというのに。
「治った」
「え?」想定外の彼の返答に僕は聞き返した。
「舌下免疫療法(ゼッカメンエキリョウホウ)って知ってる?」
「いや……」僕は記憶の中を探る。「減感作療法ですか? 注射の」
花粉症患者たる者、誰しも花粉症の治療方法について調べたことがあるはずだ。完治とはいかなくても、軽減させる方法がないかと書籍やネットで調べ、時には実践をした経験もあるだろう。もちろん、僕自身もそうだ。その過程で、ある時「減感作療法」という花粉症を根治する可能性がある治療法に行き当たる。
しかし、その治療法は毎月に何度かの注射を、何年も継続する必要があった。仕事をしながら通院可能な頻度ではなかったし、費用もそれなりにかかる。頻繁に注射をするというのも、抵抗があった。
「いや、それじゃない。舌下免疫療法は、舌の下に薬を垂らすんだよ。毎日ね。」
注射ではないのか。舌下免疫療法……僕の脳内にその名を刻み込んだ。
「液体なんだけどね、冷蔵庫に保管してるんだ。でも最近、錠剤タイプができるという話を聞いたから、いずれ錠剤になるかも」
「いつから始めたんですか?」
「去年の半ばくらいかな。5年間続けなきゃいけないと聞いてたんだけど、始めた翌年にもう効果が出てる。めちゃくちゃいい。絶対やった方がいい!」
爽やかな顔をしながらベイダー卿は熱弁した。軽装備の彼にベイダー卿の面影はなかった。
「一年経っていないんですね!? それでその効果……。ちょっと耳鼻科で聞いてみます」
「だいたい80%くらいらしいんだよ、効果がある人。うまくいく確率は高いよ」
「まじっすか。20%に入らないことを祈りますわ」
そうして、2019年9月、僕は掛かりつけの耳鼻科の先生に相談した。
結論から言うと、薬は効いた。
処方されたのは白い錠剤だった。それを毎日飲む。
僕はこれまで花粉症の治療をするために、いろいろな民間療法に手を出し、生活習慣の改善を試みてきた。
飲むタイプのヨーグルトがいいと言われれば、毎日飲んだ。甜茶がいいと聞けば、口に合わなかったけれど少しは頑張って続けた。人参ジュースがいいと知れば、ジューサーを買って試したこともあった。体温が上がると免疫力が向上すると知り、生姜紅茶を飲んだりもした。免疫に影響する腸内環境を正すために、ファスティングも取り入れた。
しかし、どれもこれも、花粉症の苦しみを和らげるには至らなかった。
そんな折に知った舌下免疫療法。その効果は、いままで紆余曲折を経てきた僕にとっては、まるで魔法のような効果だった。
正直言うと、完璧に治るわけではない。少し鼻がむずむずすることもあるし、目がかゆくなることもある。
それでもだ、涙と鼻水とよだれで枕を濡らした日々は、もう来ない。
鼻が詰まって眠れなかった夜、目ヤニでくっついた上下のまぶたを指でこじ開けていた寝起き、流れてくる鼻水を拭き取ることが仕事になっていたオフィスでの毎日、あの苦しかった春はもう過去の出来事。
河川敷をランニングしながら横目で見ていた桜だって、今は涙でかすむこともなく、とても美しく見える。
白いクスリは人生を変えた。
医学の発展とは素晴らしい。
多くの医者や研究者が歩いて歩いて歩き続けて踏み固められた末に至った道だ。まさに王道。
しかし王道は辛い。王道は一見遠回りに見え、単調で単純で、なかなか成果を感じられず、それ故に時に苦しい。
そんなとき、どうしても覇道や邪道が魅力的に映り、道を逸れていくこともある。近道があるのではないか。違うやり方があるのではないか。まだ誰も歩いていない道の先に、宝があるのではないか、と。
けれどもやはり、ひとしきり覇道や邪道を歩いたなら、再び王道に戻ってくると、新たな発見があるのかもしれない。
これは、仕事や学び、語学や育児、そしてライティング。すべてに通ずると思う。
覇道が悪いというわけではない。花粉症をどうにかしようという思いから僕が逸れた横道は、花粉症は治してくれなかったかもしれないが、人生は豊かにしてくれたと思う。
いろんな健康法やファスティングのおかげもあり、人間ドックの結果は毎年とても良好だ。
僕に舌下免疫療法を教えてくれたあの男とは、もう何年も会っていない。だから、僕の治療の結果も伝えていない。お互いの職場が変わってしまったから。でもいつか彼と、満開の桜の木の下でお花見をしたい。マスクを取ってね。
***
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