それは「わたしの仕事」ではなかった
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記事:みやうちちはや(ライティング・ゼミ10月コース)
姉が、「ふつう」の姉ではないということを意識し始めたのは、いつ頃だったのだろう。たぶん小学校1〜2年生の頃だっただろうか。
わが家は、6つ年上の姉、2つ年上の兄、末っ子の私という三人兄妹だ。私が小学校に通い始め、しばらく経った頃だったと思う。父は、学校で染色体について習うずっと前から、「染色体の突然変異」とか「ダウン症」とか「知的障がい」という言葉を私に授けた。
「授けた」という表現は、いささか大げさに聞こえるかもしれないけれど、これらの言葉はある意味「魔法の杖」みたいなものだったから、私的にはしっくりくる。いざという時、そこそこの効力を発揮したからだ。
例えば、姉に対する戸惑いや、けげんな表情を浮かべる相手に対して、先の言葉を使ってきちんと説明すると、姉にまつわるやっかいな場面はおおよそクリアできた。例えば、「ダウン症っていう知的障がいがある」とか、「染色体の突然変異が原因」「遺伝はしない」などと言えばよかった。
幼い私は、言葉の意味を十分に理解していたわけではなかったけれど、どんな場面で、どういう風に使えばいいかを教わっていたから、わりと上手く使いこなしていたように思う。
一方で、魔法の杖は万能ではなかった。ダウン症である姉に対して、馬鹿にするような言葉を投げかけてくる相手に、説明なんてできない場面も多い。いや、むしろそういう場面のほうが多いのだ。そんなとき、どうすればよかったのか分からなかったけれど、親に相談することはなかった。同じような経験を沢山しているはずの兄とも、お互い相談する等ということはすることは一切なかった。私が姉のことで、傷ついたり悔しい思いをしていることを明らかにすることは、親を傷つけると思ったし、兄とわざわざしたい話でもないような気がしていた。
「他人に優しく」、「自分がされて嫌なことは人にもしない」といった親の教えは、私にいくつもの言葉を飲み込ませたし、飲み込んだ言葉が石ころのように詰まって、喉元を締めつけて、そのうち本当に喉が痛くなった。知的障がい者に対して、「バカがうつる」等と言ってくる人や、知的障がい者のマネをして、廊下でゲラゲラ笑いあう等という学校でありがちな場面で、魔法の杖は実に無力だった。
特に思春期は辛かった。何か言いたいと思っても、何一つできなかった。言おうと思っただけで、涙が止まらなくなって、それに気づかれるのが嫌で、具合が悪いと嘘をついてトイレにこもる有り様だった。何も言えない自分は、笑ってバカにしている相手と同等な気がして、嫌いになった。魔法の杖を使いこなしていたあの頃のように、「何でもないことのようにさらりと伝えたい」という思いもどこかにあった。そうできないのはカッコ悪いことだという価値観が、脳内で山ほど再生されるシュミレーションの実行を、ことごとくキャンセルさせた。このような私の「静かな格闘」は、20歳になって現在の夫と出会うまで、幾度となく続けられた。
夫に出会ったとき、どういうわけか、この「静かな格闘」の話になった。当時の私は、「大変だったんだね」という類の相槌が返ってくることを想定していた。でもその想定は外れて、「なんで何も言わなかったの? 」という、素朴な質問が返ってきた。 その質問に私は、「言っても無駄という感じがした」こと、「言おうとしたら泣いてしまって上手く言えなくなる」こと、「それで伝わらなくなるのは嫌」だし、「泣きながら話すのは恥ずかしい」みたいなことを返した記憶がある。これに対して夫は、「泣いても言葉にならなくても伝えなくちゃダメなんじゃない? 」という、ひどく正論染みたセリフを返した後、きっぱりとした口調でこう続けた。
「この人はどうして泣いてるの? って考えるのは相手の仕事で」
「あなたの仕事ではない」
そう言われて、肩の荷が下りた気がした。自分で言うのも何だけれど、優しくてまじめすぎて、がんじがらめになっていた当時の私には、必要な言葉だった。
今思えば、私は、たった一つの結末しか望まなかったし、それ以外は許せなかったのだと思う。つまり、私が伝え、相手がそれを理解してくれる……というような、かなり平和的結末だ。そうではない結末を引き受けたくなかったし、何よりこれ以上傷つくのが怖かった。傷つくこと恐れるあまり、伝えることすら遠ざけていたのかもしれない。伝えた先の未来なんて、誰にもわからないことなのに。
おそらく、魔法の杖が使えない場面で、私が言いたかった言葉なんて、とてつもなくシンプルな言葉だったはずだ。
そう、例えばこんな一言。
「やめてっ!!」
仮に、この一言の後で大泣きして、鼻水をたらして、もう何も言えなくなって、その場を逃げ出したとしても、「それはそれでいいんじゃない? 」などと、50歳を過ぎた今の私なら、すんなり思える。
だって、どうして泣いているのか、どうして何も言えなくなったのか、鼻水までたらして、あの人は何を言いたかったのか、それを考えるのは「相手の仕事」であって、「わたしの仕事ではない」のだから。
***
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