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ミニマリストへの道は……


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記事:さとうゆみ(ライティング・ゼミ4月コース)
 
 
「スーツケース、見つかった?」
「まだ」
 
という会話が、皆との朝のお決まりの挨拶になった。
 
 
去年の夏、パリ五輪前最後の開催となる自転車トラック競技世界選手権大会実況アナウンスの仕事でイギリスの地方都市グラスゴーに行った時のことである。私のスーツケースがどこかで行方不明になったのだ。
 
預けたスーツケースがなくなる“ロストバゲージ”は珍しいことではなく、周りに経験者がたくさんいる。しかし、これまで私はその難を逃れ続けてきた。同行者がロストバゲージしても、乗る前からなくなることを想定しろと言われるアフリカに過去三回に渡り行った時にも、いつも私のスーツケースは「はい、おまたせ!」と到着地の荷物を引き取るターンテーブルに乗って出てきてくれていた。
だが、今回はついぞ現れなかったのである。
 
日本だと親切な空港スタッフが手続きをして、その後どうすればいいかなどを教えてくれるのだが、外国ではそうはいかない。しかも、こちらの英語力は極めて乏しいときている。
 
その日、同じようにロストバゲージをした人たちが他にもいた。彼らに倣って受付らしきところに行き、用紙に自分の名前と乗ってきた飛行機の便名、宿泊ホテル、メールアドレスを記入した。あとは簡単な案内が書かれた紙をペランと渡されて、「見つかったらメールする」とだけ言われた……のだと思う。
 
幸い仕事に必要な資料やパソコンなどは手荷物で持ってきていたし、通常であれば翌日にはホテルに届くはずなので大丈夫だろうと高を括っていた。
 
しかし、翌日も、翌々日も、さらにその次の日も一向に航空会社からの連絡はない。念のため朝晩ホテルのフロントに立ち寄り、つたない英語でスーツケースは届いていないか聞いてみるものの、これまたお決まりのように「No,sorry」と言われ、気の毒な顔をされるだけだった。
 
役に立ったのは手拭いだ。私は旅行の際に必ず手拭い四枚と紐を手荷物に入れていく。二枚はハンカチ兼タオル、あと二枚は緊急時のおパンツ用。紐をお腹で結び、それに引っ掛けてふんどしのようにして使う。手拭いは乾きが早いし、ホテルの部屋に干していても恥ずかしくないので、ヘビーローテションすると延々にハンカチとおパンツには困らない。
 
一方、困ったのは靴下とTシャツだ。手荷物は資料でいっぱいだったので、余分な衣類を入れる余地はなかった。 現地で買い物に行く時間はなく、解説者としていらしていた、自転車世界選手権10連覇を達成したレジェンド中野浩一さんから日の丸入り靴下とTシャツをいただき急場をしのいだ。グラスゴーは湿度が高く、なかなか乾かなかったが、多少湿っていても体温アイロンを利用することにした。
なぜか、ちょっと湿った日の丸の靴下を履いた日には必ず日本選手がメダルを獲った。レジェンドの力は偉大だ。
 
今回のために用意した新品のヨガマットや、サプリメント類、アイマッサージャー、美顔器、パック、化粧品、すべてスーツケースの中。放送席は映らない中継だったので、それをいいことに日々すっぴんで過ごした。スキンケアも、飛行機の中の乾燥対策用にバッグに入れておいた化粧水しかないのでそれを朝晩ちゃちゃっとぬるだけ。仕事以外でやることと言えばご飯を食べ、ビールを飲み、散歩することくらいだった。
 
関係者は皆、さぞ不自由だろうと心配してくれていた。
 
ところが、これがだんだんと心地よくなってきたのだ。
 
毎日が実に潔い!
 
仕事の集中力も高い!
 
荷物がほとんどないスカスカの部屋がとても快適で、
会場で買った大会マスコットのぬいぐるみがひときわ存在感を放っていた。
 
数少ない手間は、ハンカチとおパンツの手拭いを洗うことくらいだ。
 
人は物が少ない方が豊かに生きられるのかもしれない、と思った。
荷物が少ない方が圧倒的に自由だ。
 
私のスーツケースが、ロストバゲージの頻度の高さで悪名高いヒースローにまだあることがわかったのは四日目。乗り継ぎの時に取り残されたらしい。それにしても見つかるのが遅い。その後グラスゴーに送られてきたものの、同時開催だった自転車ロードレースの世界選手権の交通規制のためにホテルに届けられないという連絡が来てさらに一日経過。翌日、後発隊の出迎えに行ったスタッフが直接グラスゴー空港で引き取ってきてくれた。六日目にしてようやく、旅の過酷さを物語るかのようにボロボロになったスーツケースが私の部屋にやって来た。
 
嬉しい再会ではあったが、もはや滞在日程の半分を過ぎており、たんまり詰め込んであった荷物をすべて出すことの方が億劫に感じられた。結局、着替えと少しの日用品以外はそのままスーツケースに入れっぱなしで残りを過ごした。
 
この体験で私はきっとミニマリストの仲間入りができる!と自分に期待しながら帰国した。
 
 
季節はめぐり間もなくパリ五輪。
 
煩雑な物に囲まれた日常にいつの間にかまた馴染んでしまい、雑然とした自室の机でこの記事を書いている。見えかけたミニマリストへの道は、夏前に伸びたぼうぼうの草で見えなくなってしまったようである。
 
 
 
 
***
 
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2024-06-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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