670万円の決断。0日婚の先に彼女が見つけたもの
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:藤原 宏輝(ライティング・ゼミ with AI 9月コース)
日曜日の午後二時、カフェの窓際でパンケーキにナイフを入れると、甘い湯気が立ちのぼった。明るい陽射しが差し込む店内で、私の目の前に座る彼女の周りだけが、どこか薄曇りのように見えた。
「いいなぁ、みんな器用に生きてて。私なんかきっと一生、誰にも選ばれないんだろうなぁ」
47歳になる彼女は、自嘲気味に笑った。
何か新しい一歩を踏み出そうとするたび「どうせ、私なんか」と呟いて立ち止まるのが彼女の癖だった。
「自分から諦めていたら、誰にも選ばれないよ。変わろうと決めて、努力しなきゃ」
長年、ブライダル業界でご新郎・ご新婦様の幸せをプロデュースしてきた私は、ついぐうの音も出ない正論をぶつけてしまう。
彼女は「そうだよね」と肩を落とし、さらに深い殻へと閉じこもっていった。
正論で相手を追い詰め、説得しようとする。変わらない彼女を責めながら、実は私自身も「変わる覚悟」から逃げていたのかもしれない。
それから一ヶ月後、彼女から突然のメッセージが届いた。
『私、結婚することになりました。沖縄で式を挙げたいの』
驚いてすぐに電話をかけると、受話器の向こうの彼女の声は弾んでいた。
彼女の結婚相手は、五十五歳の穏やかな男性。マッチングアプリで出会ったその日にプロポーズされ、彼女は「結婚する」と即決したという。
いわゆる、0日婚だった。
数日後、オフィスに現れた彼女を見て、私は言葉を失った。
ぽっちゃりした体型も、素朴な装いも以前のまま。だが、あの卑屈なオーラは跡形もなく消え去っていた。
彼は彼女を無理に変えようとせず、ありのままを受け止めていた。
「あぁ、人は正論で変わるんじゃない。自分で『この人と生きる』と決めた時に変わるんだ」
彼の手をギュッと握り締め、沖縄挙式の打ち合わせに臨む彼女の顔は、自分の人生の主役として堂々と輝いていた。
二ヶ月後、沖縄の青い海のもと、二人だけの温かな結婚式が行われた。
風に包まれてウエディング・ドレス姿で笑う彼女は、本当に美しかった。
そんな姿をチャペルの後ろから見守っていた私は、プロのブライダル・プロデューサーとして、友人としてなんだか誇らしくて、心から「おめでとう」という思いで、とても嬉しかった。
だが、奇跡のような幸せは一瞬で崩れ去った。
挙式から二ヶ月が過ぎた頃。
カフェで再会した彼女は小さく震えていた。
「彼が突然『君との結婚生活は楽しかった。でもやっぱり、価値観が違うんだ別れよう』って……、そのまま離婚届を置いて、自宅を出て連絡も取れなくなったの」
彼女の話を聞いていくうちに、私はどんどん言葉を失っていった。
真実はあまりにも酷いものだった。
出会ってすぐの頃、彼女は彼から「二人の将来のため」とシンガポールや香港への海外投資の話を持ちかけられていた。
最初は少額の投資で元金と利益が戻り、何度も繰り返すうちに彼を完全に信用した彼女は、自分の意思で、総合計670万円近い貯金を投資先に送金してしまったのだ。
今思えば、沖縄の挙式費用も旅行代もすべて彼女の負担だった。
彼は姿を消し、その後すぐに確認した投資口座のパスワードも変更されていた。弁護士や警察に相談したものの、お金が戻る見込みは限りなくゼロに近かった。孤独な女性の隙につけ込んだ、悪質な詐欺だったのだ。
「私、本当にバカだったよね……」
俯き、涙を流す彼女。以前の私なら「どうして確認しなかったの」と正論で責めていたかもしれない。だが今は、ただ彼女の手を強く握りしめることしかできなかった。
それから季節が巡り、半年ほど経った頃。
久しぶりに、いつものカフェで彼女と会った。
私は、彼女が悲劇のヒロインとして打ちひしがれているかと、ずっと心配していた。
しかし、彼女の表情には驚くほどの力強さと清々しさがあった。
「高い授業料だったわ」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。
「670万円が消えたのは悔しいよ。でもね、私は彼と出会って、自分の意思で『この人と生きる』って決めて一歩を踏み出せた。
あの時人生で初めて、自分のことが好きになれたの。あの時間は私にとって本物だったから、もう昔の『どうせ、私なんか』って言っていた自分には絶対に戻らない」
彼女の強い言葉に、私は胸が熱くなった。
人生には、思い通りにいかないことや、信じた道で深く傷つくことがある。けれど、本当に大切なのは「失敗したか、どうか」ではない。自分の人生を誰かや周りや何かのせいにせず、自分で「決めて進むこと」なのだ。
彼女が失った670万円は戻らない。だが彼女が自分の手で掴み取った「自分を信じて決断する力」は、お金では決して買えない670万円以上の価値があった。
「これからはもっと賢く、自分の力で強く生きていくって決めたから!」
そう言って、笑顔で駅に向かって軽快に歩いて彼女の背中は、夕陽を浴びてまっすぐに伸びていた。
その眩しい姿に背中を押されるように、私もまた、正しい正論を手放し、自分の人生を自分で決めて前へ進もうと強く心に誓った。
【終わり】
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