時給800円。私は上野の芸術劇場で半裸になった
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記事:齋藤 勇磨(ライティング・ゼミ日曜コース)
20年ほど前のことである。よくイベント設営のアルバイトをしていた。
重たい舞台機材を会場に運び込む肉体労働で、時給800円。即金でバイト代がもらえる。
ある秋、上野の芸術劇場での仕事が入った。
演目は、エジプトを有名なオペラ「アイーダ」である。当時存命だったオペラの3大テノール歌手の一人、パヴァロッティが来る、と話題になっていた。チェコの有名な劇団も来るらしかった。だが、時給800円のしがないバイトには、関係のない話だ。
いつものように、寒い朝方から、重たい舞台装置を運び込む。鉄のカタマリが手に食い込み、千切れそうになる。ヤレヤレと一息つく間もなく、ジャガイモみたいなゴツい顔のバイトリーダーが、「このチラシの帳合いも、サッサとやっとけ」と荒い口調で命じてくる。
「まったく……。時給800円なのに、人使いが荒いぜ」。バイト仲間と愚痴をこぼしながら、仕事に取り掛かる。
すると、向こうから、仕立ての良いスーツに黒いタートルネック、銀髪の男性がやってきた。メガネに、チョビヒゲ。この舞台のお偉いさんらしい。何やら、こちらをチラチラと見ながら、バイトリーダーと話し込んでいる。
しばらくして、バイトリーダーが言った。「君、いいね。ちょっとこっちに来てくれる?」さっきとは打って変わった、猫なで声である。
不審に思いながら、後をついていく。一室に通された。バイトリーダーは言った。
「じゃあ、君。ここで衣装合わせをするから」
「はぁ~?」
驚いて事情を尋ねると、いわく。
チェコから来た、兵士役が、お腹を壊してしまった。人数合わせに代わりに君が出演してくれ、とのこと。
理不尽だ。あまりに理不尽だ。時給800円で、こんなことまでしなければならないのか。だが、こちとら、金のない学生である。背に腹は変えられない。
「分かりました」。しぶしぶそう答えると、ジャガイモはホクホク顔になった。
アイーダは、古代エジプトとエチオピアを舞台にした話だ。
兵士役としての「衣装合わせ」が終わり、鏡を見て唖然とした。ほぼ腰蓑のみ、パンイチの半裸である。腰蓑の上に、白い腹が乗っかっている。
おまけに派手な飾りつきの槍。金色で塗った蛇の飾りのついた、アメフトのヘルメット。
体を鍛えておけばよかった。人生には、いつ兵士役が回ってくるかもしれない。
時給800円で、こんな恥ずかしいことまでしなければならないのか。だが、こちとら、金のない学生、背に腹は変えられない。
その後、数分、舞台にあがって立ち居振る舞いを練習した。チョビヒゲの監督は、「いいね、すごくいい!」と、こちらをノセようとする。照りつけるスポットライトは、肌をジリジリと焼く。私は、暑さと恥ずかしさで、ゆでダコのようになっていった。
舞台袖には、巨大なゴム鞠のような男が立って、こちらを物珍しそうにジロジロ見ている。黄金の筋が入った、青緑の衣装を身にまとっている。さながら、マスクメロンだ。勝手にしやがれ。
いよいよ、本番の時が来た。デカいチェコ人たちのあとについて、舞台に上がる。
想像してみてほしい。観客席から見た舞台を。
ファンファーレのような音楽が鳴る。屈強で背の高い、日に焼けたチェコ人兵士が次々と入場する。それに続き、なぜか、なまっちろい、小太り、半裸の日本人が、ブカブカの装備で入ってくる。15分ほど、舞台の端に立ちっぱなしである。
S席は、3万円だった。正直、観客に申し訳ないと思う。私は時給800円。正直、割にあわないぞ。舞台の上で、私はこっそり、ため息をついた。
その時である。目の前にマスクメロンが立った。メロンが歌い始めた瞬間、体じゅうが震えた。文字通り、震えたのだ。あまりにも響きのある、大きな声に、私の身体が共鳴しているのである。
この人が、世界3大テノール歌手の一人、パヴァロッティだった。
とても人間の歌声とは思えない。まるで、寺の鐘のそばに立っているようだ。寺の鐘なら一つの音だが、彼は、あらゆる音を奏でる。しらずしらずのうちに、涙がにじむ。
S席のお客さんは、3万円支払って彼の歌声を聞いた。私は、時給800円をもらって同じ歌声を聞いた。人生、何がどう転ずるか分からない。「ありがとう!ジャガイモ、チョビヒゲ、メロン」。私は舞台の上で、そうコッソリ繰り返した。
人生には時として、驚くような展開が待ち受けている。だが、ひょっとしたらそれは、パンイチで舞台に立たされるようなもの。新たなワクワクを私に味わわせようとしてくれているのかもしれない。
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