小説「窓」vol.1、vol.2《川代ノート》
2013 ©Jaime
1
僕はずっと迷っていた。ずっとずっと迷っていた。本当に彼女を僕の手に入れていいのかどうか。彼女にとって僕は何の役にもたたないかもしれないけれど、このまま彼女のそばに居続けてもいいのかどうか。僕はいつまでたっても決められずにいた。わからなかった。僕が彼女のことをどうしたいのかも、彼女とどうなりたいのかも、そもそもいったい彼女は何者なのかも、わからない。正直、僕が本当に彼女を好きだという自信もなかった。あまりに多くの謎がありすぎて、僕は正常な判断を下すことができなくなっていた。
彼女と僕がはじめて出会った日のことを、僕は今でも、映画みたいに鮮明に思い出すことができる。平凡な日だった。暑くもなく寒くもなく、心地の良い風が窓から通り抜け、僕の頬をするりと撫でた。リネンのシャツ一枚で外に飛び出して、出かけたくなるような気持のよい気候。春がそろそろ夏になろうと準備体操をしているような、そんな五月の下旬。
突然、僕が住むアパートの窓をこつこつと叩く音がした。僕の住む古い木造のアパートは、廊下を歩くたびにぎしぎしときしんで、僕は歩くたびに不安な気持ちにさせられた。柱やドアや窓、あちらこちらにがたがきていて、今すぐにでも修理を必要としていそうなくらいだった。しがない大学三年生の僕は、大学から歩いて五分で通える場所で、家賃が安いところならどこでもよかった。「コーポ山口」というのがそのアパートの名前だった。いかにも貧乏学生が一人暮らししていそうなそのアパートの名前を、僕の家を訪れた友人は笑った。コーポ山口は言うまでもなく、山口さんという夫婦が老後の余暇に経営しているアパートだった。しかし、僕が出くわすのはいつも妻である山口登美子の方だけだった。学生街にアパートを設けているにも関わらず山口登美子は若者に対してひどい偏見があるらしく、いつも僕を見ては眉間にしわをよせて家賃の催促をしてきた。彼女が太った腹を左右に揺らしながらどすどすと大きな音をたてて歩くところを見ると、僕はいつも廊下に穴があいて彼女がアパートの下の階まで落ちるところを想像した。僕は几帳面な性格で、毎月必ず支払日より三日か四日余裕を持って家賃を振り込んでいたが、山口登美子は大学生という生き物は家賃をすっぽかすものだと思い込んでいて、僕とすれ違うたびにぶつぶつと文句を言った。
でも多少の不備はあれ、僕はコーポ山口を気に入っていた。ぼろぼろのアパートのあちこちにある、ねずみがかじったような小さな穴ぼこや、歪んだ壁の板目からあたたかい隙間風がこぼれてくるのを肌に感じるのが僕は好きだった。こんな日にはとても退屈な国際関係の授業なんかきく気にはなれず、寝間着から着替えることもせず、ただベッドの上でぼおっとしたり、本を読んだり、映画を見たりしていた。だが親の金で高い学費を払って入学したにも関わらず、単位を落とし、昼まで寝続け、友人と飲んだくれているだけのいわゆる駄目大学生だと思われちゃ困るので一つ断っておくと、僕はけっして不真面目な人間ではない。それ相応の単位は毎回きちんと取得していたし、興味のある分野に関しては、自分から教授のオフィスに無理やり押しかけて質問をしにいくほど熱心だった。ただ僕は、自分が一度興味を持てないと判断したものに対しては、どう頑張っても興味を持てなかった。あまりにもその落差がひどく、高校の頃も、数学は赤点で国語は学年トップというあべこべな成績をおさめて教師たちの頭を悩ませたこともあった。大学に入り、次第に「ほどほどに手を抜く」ということを覚えたおかげで、なんとか人並みに暮らせるようにはなったが。
だから僕は毎回シラバスを念入りに調べ、何回出席すればよいのかも把握したうえで授業を選択していた。きちんと休んだ回数も手帳に記録し、気分がのらない日は心おきなく休んだ。それに一度休んだくらいで簡単に単位を落とすほど、僕は馬鹿ではなかった。
そんなわけで、まったく罪悪感のないまま、のんびりと小説を読んでいた僕は、窓を叩く音に、はじめはまったく気が付かなかった。こつこつ、という音は控えめでほとんど風のひゅう、という音にまぎれて消えてしまう程度だったが、次第に大きくなり、重みをもちはじめ、いくら鈍感な僕でも無視できないくらいになった。僕ははじめ、鳥が飛んできたか、近所の子供がいたずらで石でもなげつけているのかと思ったが、それにしてはあまりにもその「こつこつ」は丁寧すぎたし、意思を持っていた。「お邪魔して申し訳ないんですけれども、ちょっとすいません」、というどこか申し訳なさそうな配慮が感じられた。
でも二階にある僕の部屋の窓をわざわざノックする人間なんて思い当たらない。家賃はきちんと振り込んでいるはずだし、それに山口登美子がのりこんでくるなら、こぶしを握り締めてどんどんと思いきり強くドアを叩き、こう言うはずだった。「ちょっと望月さん、いるんでしょ。今月の家賃はもう払ったの?」
何の覚えもないそのノックに僕は不信に思ったが、その音は鳴り止む様子もなく、窓の向こうの誰かは断続的にこつこつ、こつこつ、と叩き続けていた。これじゃあいつまでたっても本に集中できない。僕は本に皮のしおりを挟んで机の上に置き、錆びた窓の鍵をはずして窓を開けようとした。しばらく窓を開けていなかったせいでがた、という古びた金具がきしむような音がして、軽く砂埃が俟った。ひどいアレルギー体質で花粉症を持っている僕には、あたたかい季節に窓を開けるという習慣があまりなかったのだ。目に細かい砂が入り、僕は思わず目をぎゅっと強くつぶって、思いきり窓を開けた。開けた瞬間にぶわっと砂埃が舞い、僕は咳き込んで掌であおいだ。
瞬間、ジャスミンの花のような、あるいはあたためたミルクのようなほのかに甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。
僕がゆっくりと目をひらくと、ひとりの女が、僕をじっと見上げていた。とても美しい女だった。
2
「突然ごめんなさい。はじめまして。隣に越してきた風野梨生と言います」と彼女は言った。新緑がもえる桜の木がゆれるのと同じように、そよそよと彼女の長い栗色の髪もゆれた。こちらを大きな瞳でじっと見つめる彼女と背景の緑は綺麗に木の窓枠で縁どられ、あまりにも現実離れしていて、美しかった。そっくりこのままこの窓から見える光景を、窓枠ごとごそっと取り外して美術館に持って行って飾れそうだと思った。いつか、六本木かどこかの展示会で見たフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を思い出した。あの青いターバンを巻いた少女のように、妖艶さと清廉さ、母性と少女性を持ち合わせた美しさがあった。ゆたかな彼女の髪は太陽の光を浴びてきらきらしていた。そしてすきとおって向こう側が見えてしまいそうになるくらいに美しい彼女の白い肌に、僕は――。
「あの、望月さんですよね? 望月優人さん」
彼女が僕の名前を親しげに呼び、僕ははっとわれに返った。小さな唇の口角がきゅっと上がる。
「あ、はい、そうですけど」と惚けていた僕は反射的に答えた。
「やっぱりそうだ。昨日アパートの入り口で見たとき、望月さんっぽい人いるなあって思ってたんです。あ、たぶん気付いてないと思うけど、ほら、桜井先生の授業とってるでしょう? イスラーム史入門」と彼女はぐいっと顔を近づけ、大きい目をさらに大きく開いて僕を見た。
「ああ、あの授業。はい、とってますけど」
「やっぱり。私、望月さんの隣の隣に座ったことあるんですよ。まあ絶対に気が付いてないだろうな、とは思っていたけど。私、風野梨生っていいます」よろしく、と彼女は窓の淵においていた僕の手を無理やりとって握手をした。
「そうなんですか、それはどうも、気が付かなくてすいません。でもどうして僕の名前、知ってるの?」
「ほら、授業の初めの回で、自己紹介したでしょう。それで覚えました」と彼女は当然のように言ったが、僕は意表をつかれた。あの授業には百五十人近くの生徒がいるのだ。自己紹介なんて形式的にやってはいるが、誰もひとりひとりの名前なんか覚えちゃいない。それに僕は当たり障りのない、発言した本人も覚えていないほど中身のない自己紹介をしたのだ。平凡で単調でつまらない、三十秒の自己紹介。平凡な顔と平均的なファッションに身をつつみ、ぼそぼそとしゃべっていた冴えない男が言ったことを覚えている人間がいたなんて到底信じられないことだった。しかも彼女みたいな明るくていかにも人づきあいがよさそうな人間が僕に興味を持つとは思い難かった。彼女はよほど記憶力がいいのだろうか。それにしても、彼女もあの授業で自己紹介したのだろうか? こんなに綺麗な女がいたとわかったら、二十歳そこらの飢えた男どもが黙ってはいないはずだが。
「私、昨日の朝からこのアパートに引っ越してきて。夕方に荷物を運んだんだけど、そのときにアパートの玄関から望月さんが入っていくのが見えて。授業の帰りだったんですよね? きっと。私、知っている人がアパートにいるって思ったらすっごく嬉しくなってすぐに話しかけたかったんだけど、望月さんすぐ二階に上がってドア、閉めちゃったから。今日話せて嬉しい」と驚いて何も言えずにいる僕をよそに、彼女は興奮気味にまくしたてた。
「そうか、そうなんだね、よろしく。それで、えーと、風野さん。隣に同級生が越してきたのは僕も嬉しいけど、どうしてここにいるの?」彼女に話させるといつまでも終わらなさそうなので、僕はしびれを切らした。
「あ、そうそう。ごめんなさい私、自己紹介するので必死になって」と彼女は少し恥ずかしそうに頬をかいた。「私どうやら、大学かどこかで鍵を落としちゃったみたいで。引っ越して一日目なのに、馬鹿でしょう。登美子さんに開けてもらって新しく鍵つくらなきゃと思ったんだけど、今日と明日と、登美子さんと和久さん(山口和久は僕が入居時に一回挨拶しただけの山口登美子の夫である。妻とは対照的に静かで害のないじいさんである)、息子さん夫婦のところにお孫さんが生まれて、長野まで出かけちゃってるでしょう。月曜日までは戻らないって言ってたから」
どうしてそんなことまで知っているんだ。よく初対面であの気難しい山口登美子を手なずけたものだ。
でもまあとにかく彼女は困った状況にあるようだった。今日は月曜日だから、山口夫妻が予定通りに息子夫婦のところに泊まっているなら、風野梨生は今週一週間弱は自分の部屋に入れないということになる。
「なるほど、それで僕を頼りにしたってことか。でも、ドアがあるのにわざわざ窓からノックしなくてもよかったんじゃないですか?」と僕は根本的な疑問を投げかけた。すると彼女は頬をりすのように膨らませて僕を軽く睨む。
「もう、望月さん。私何度もドア、ノックしましたよ。ピンポンが壊れてたから、ドアをたたいたの。でも望月さん、全然気が付いてくれないんだもの」と彼女はわざとらしく怒った顔を作って僕の腹を人差し指の先でつんつんとつついた。その瞬間、ああ一番関わりたくないタイプだ、と僕は思った。もとい、関わってはならない人間なのだ。この風野梨生という女は僕が決して入ることのできない円の中に所属する人間なのだ。
その事実に気が付いた瞬間、僕はいそいで彼女とのあいだに、薄いけれど丈夫な壁を作る。心のなかでこっそりと。けっして彼女にはばれないように、自然に、高くて簡単なことでは壊れない壁を作り上げる。
「ごめん、たぶん本に夢中になってたからかな。窓は僕が座っていた椅子のすぐ真横にあったから、音でさすがに気が付いたけど。でもイヤホンをしてなくてよかったよ、気が付かなかったらいつまでも風野さんを待たせるところだった」と僕はにこやかに言った。「でもどうやってここまで登ったの?」
「あ、望月さん、説明する前にすいません、中に入れてもらえませんか。実は私、ずっと樹の枝の上に立ってます。そろそろ落っこちそうです」と彼女が言うのでびっくりして窓の外に顔を乗り出すと、たしかに樹の枝の上に片足をかけ、もう片方を幹のくぼみにのせ、左腕でエアコンの空気を流す配管にしがみついていた。彼女の足がかかっている桜の木の枝は心もとなくゆらゆらゆれて、小さくみしみしと音をたてていた。
「ああ、ごめん、気が付かなくて。狭くて申し訳ないけど」と本当に申し訳なさそうな顔をつくって僕は言ったが、彼女は「いえ、お構いなく。同じ間取りですから」と笑った。
それが、風野梨生という女との出会いだった。
(vol.3につづく)
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