悩みがなく気楽にシンプルに生きるのが幸せであるという風潮について《川代ノート》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
「悩むのは時間の無駄だ」って、わかってるけどさ
「川代さんさあ、そんなことで悩んでても、仕方ないじゃん。いつまでも悩むのに時間使ってたらもったいないよ。そんな暇があるならどんどん仕事して挑戦して、自分が成長できるように努力しなきゃ。人に喜んでもらえることを頑張ろうとするのも大事かもしれないけどさ。そういうことばっかりしてても、川代さん自身は成長できないよ」
ひょんなことで知り合った年上の男は、わたしにそうアドバイスしてきた。自分の親くらいの年齢の人だ。
はい、そうですよね、と相槌をうちながらも、しかし、わたしの心のなかは、どうもしっくりきていないようだった。社会人になってから三ヶ月経った頃のことである。
「わたしはうっかりしているところがあるから、まわりの仕事仲間に、自分の知らないどこかで迷惑かけてるんじゃないかと思うと心配なんです。考えないようにしようと思っても、自分が周りからどう見られているのか、気になっちゃうんですよね。それが悩みといえば悩みですかね」
会って三十分くらい経ち、話題がなくなってきた頃、最近、悩みとかあるの? とその人に聞かれた。だから、最近の自分を振り返って、答えた。なのに、どうして「そんなことで悩んでも仕方ない」なんて言われなきゃいけないんだよ、と思ってしまったのだ。彼にとっては何でもないことかもしれない。でもこっちにとっちゃあ重大なのだ。重大な問題について真剣に考えているだけなのだ。それなのに、「そんなこと」で済ませられるのがなんだか、しゃくだった。そもそも、別にこちらから相談に乗ってくれと頼んだわけでもなかった。ただ質問されたから、自分が思っていることを話した。それだけなのに、自分からきいてきたくせに、なんでそこまで否定されて説教されなきゃなんないわけ? だいたいなあ、悩んでも何も解決しないことくらい、わかりきってんだよ。死ぬほど考えてるんだよ。それでも悩んじゃうもんは悩んじゃうんだから、仕方ないだろーが!! と、内心では人生の大先輩のはずの彼に、ひどい悪態をついていた。説教する側は持論を話せてすっきりするかもしれないけど、聞いている側は何の予想もしていないときに、自分の考えを(というか悩みを)否定されて説教されても困るわけである。動揺するのである。説教を受けるにも心の準備が必要なのだ。
しかし、先輩の言っていることは、たしかにもっともだった。まあもっともだったからこそ、図星だったからこそ腹が立ったのも事実である。先輩だけでなく他の大人にも似たようなアドバイスを受けたことがあるし、そう書いてある本を読んだこともある。うん、そうだ、わかっている。うじうじ人の目ばかり気にしていても何も変わらない。悩んでも意味のないないことには時間を費やさないべきだ。
そう、頭ではわかっていながらも、心の中にはどこか、もやもやしたものが、ぷかり、ぷかり。なんか、なーんか、違うんだよなあ。自分の心が、そうぶつくさと小さく文句を言っているのがきこえた。
でもまあ結局わたしは反論することもなく、でも吐き出しようのない不満と小さな怒りを持ったまま、その彼と別れた。もともと、親しいわけじゃない。たまたま機会があったから話しただけのことだった。だいたい、わたしの悩みを簡単に流されてしまったのも、あまり時間がなかったからなのだろう。
けれどわたしはそれ以来、しばらくずっと腑に落ちない違和感を抱え続けることになってしまった。
表面上ではたしかに、「悩んでも解決しないことに対していつまでも悩んでいても仕方ない」という理屈を理解しているつもりだった。でも、理屈を頭で理解するということと、心もきちんと納得して受け入れるというのは、これまた別の問題なのだった。心の奥の奥の方は、まったく納得できていないどころか、その先輩の持論に腹をたててさえいるのだということが、はっきりとわかっていた。
しかし、そこでただ腹を立てるだけでなく、自分が腹を立てている理由をきちんと考えられるのが、わたしの数少ない長所のうちのひとつである。わたしはもやもやの正体を解決するべく、ふらりと本屋に入り、自己啓発本の棚を眺めた。こういうとき、わたしは本屋に頼ることが多い。本屋で立ち読みをしてぴんとくる言葉を探す。こうして目の前の雲がさっと晴れる瞬間を、これまでに幾度となく味わってきた。とくに、自己啓発本の棚をざっと眺めるのは面白い。世の中の人が何について悩んでいるのか、一般的にどうやって解決しているのか、人生に対してどんな価値観を持っているのか……そういうことを、客観的に観察できること。考え方のブームのようなものが、なんとなくわかること。
とは言っても、ビジネスマン向けのもの、哲学っぽいもの、もっと簡単に読めて簡単に実践できるもの、女性向けのもの……種類はたくさんあった。ただ共通するのは、「〜するための99の方法」とか「〜しない理由」とか、タイトルも目をひくようなわかりやすいものが多いということだろうか。
そんなことを考えつつ、わたしは、ひとり自己啓発本の棚のまわりをうろうろしながら、ぱらぱらといろいろな本を手にとっては眺める。目次を読み、興味のわいた項目をざっと読み、そして本棚に戻す。で、また別の本。それを繰り返してしばらくしてから、わたしはあることに気がついた。
「シンプル」「悩まない」「前向き」という言葉が、そういう言葉を使われている本が、この棚には、あまりにも、多いのだ。多すぎる。よくよく読んでみれば、ほとんどの自己啓発本の根本的なテーマはこの三つで説明できるんじゃないかとすら思える。タイトルに使われているものもあれば、宣伝のために帯にでかでかと「もう悩まない!」「揺り動かされない心を保つためには」などと書かれているものもある。目次に使われているものもある。が、いずれにせよ、かなり多くの本に、「シンプルに生きよう」「難しく考えすぎるな」「平常心を保つ」というフレーズが載っていた。そして、そのほとんどが、「肩の力を抜いて、楽に生きる」ことを推奨していた。あとがきなんかを読むと、たいていの本に「感受性の強いあなたが、この本を読んで少しでも、楽に、肩の力をぬいて生きられるようになるなら、こんなに嬉しいことはありません」というようなことが書いてある。
頭をズガン、と殴られたような衝撃が走った。まるで、わたしの今までの人生二十二年間を、全否定されたような気分だった。そしてその瞬間、わたしが先輩に言われてもやもやしていた理由が、はっきりした。
考えても進展しないことを考えすぎてしまうのは、本当に人生の無駄なのか
「紗生は考えすぎだよ」と、昔からよく言われた。わたしが些細なことで悩みすぎるからだった。悪口を言われたとか、先生に怒られたとか、そういう、どこにでもあるような、誰にでも起こりうるようなことで、わたしはいちいち落ち込んでいたからだ。小学一年生の頃の悩みは、学校の誰からも「川代さん」としか呼ばれないことだった。ゆりちゃんだのみほちゃんだの、はるだのさっちゃんだの、わたし以外の友達みんなは名前で呼ばれていたし、ニックネームを持っていた。でも、真面目で成績が良くて学級委員長に推薦されるようなわたしは、「川代さん」という名前から抜け出すことができなかった。「川代さん」と呼ばれる以上、「川代さん」らしく真面目に、成績の良い模範生徒を演じなければならないような気がした。でも本当は「川代さん」なんて呼ばれたくなかった。「川代さん」という呼び名は、楽しそうに外でドロケイをする友達たちと自分のあいだに立ちふさがる大きくて頑丈な壁のように見えた。そちら側に行きたいのに、「川代さん」のせいでわたしは一歩も入ることを許されていないような気がした。名前なんて、ニックネームなんて、さして大した問題ではないのかもしれない。あの頃の友人たちもとくに深い意味もなく川代さんと呼んでいただけかもしれない。自分でもどうしてこんなことで悩むのかわからなかった。けれど、仕方がないのだった。他の「さき」は「さきちゃん」と呼ばれているのに、川代紗生は「川代さん」としか呼ばれないことが、寂しかったし、もう一人のさきちゃんよりも、自分が劣っているような気がしてしまっていたのだ。めんどくさいけれど、わたしはそういう細かいことをいちいち気にしてしまう性格なのだ。うまれつき。
よく言えば、感受性が強い。悪く言えば、神経質。気弱。小心者。でもそのかわり、いつもどんな小さなことにでも、真剣に向き合って生きて来たつもりだった。わたしはそれが普通だと思っていた。もっと言えば、自分がとくに考えすぎだとも、思っていなかった。あまりにいろんな人に言われるので、ようやく最近、自分は世間一般的に見て、平均よりもかなり考えすぎる性格らしいということがわかってきたのだ。そして考えすぎというのは、ふつう、長所よりも短所に分類されるのだった。
「感受性が強い人は、ときに、必要のないことにまでも、傷ついてしまいます。それは時間の無駄ですし、損です」
そう書いてある自己啓発本は、一冊ではなかった。
くらり、と本屋で立ちくらみが起こった。ああ、あの先輩も、こういうことが言いたかったのか、と、自己啓発本のページをめくって、気がついたのだ。
「悩んでても、何も前に進まないよ。本当に優秀な人っていうのは、いつも充実しているから、悩む暇もないんだよ。いつまでもぐじぐじしてないで、とにかく、行動だよ、行動。成長したかったらね」
先輩に言われたことを、思い出す。そうか、わたしが今こうして悩んでいることや心配していることや、不安になっていることは、世間一般的に見れば無駄な作業なのかと、はたと思いついた。考えすぎは時間の浪費なのだ。有効じゃないし、何の役にもたたないことなのだ。そんなことに時間を使うやつは、貴重な人生を無駄にしてしまっている人なのだ。みんなから見れば。わたしが今まで、考えて考えて考えてきたことを、多くの人は、「いらないもの」とみなすのだ。
その事実を知ったとき、もちろんわたしは悲しかった。電撃が走ったようだった。わたしは本の「はじめに」のページを開いたまま、立ちつくしていた。
しかしそれでも、なんだか胸の奥にストンと何かが落ちる感触があった。ああ、そうか、そういうことか。これまでの人生で幾度となく経験してきた違和感に、説明がついたからだ。
「本当にすごい人なのか、ただの変なやつなのか、どっちなんだろう」
たとえば、どうして人は見栄を張ってしまうのかとか。どうして嘘をついてしまうのかとか。みんなが何を考えていて、わたしとはどう違うのかとか。友達に悪口を言われていると知ったとき、自分は何にたいして怒りを感じているのかとか。自分のどこがどうだめなのか。わたしは何にたいして罪悪感を覚え、何を大事に生きていきたいと思っているのか。何が正義で何が悪なのか。人間性とは一体何なのか。人間は死んだらどこへ行くのか。生きている意味はあるのか。この世界で、必要とされる人というのは、どういう人なのか。
そして、もやもやしている自分の胸の奥のよくわからない何かは、どんな感情や欲求から成り立っているのだろう。
そういうことをただとりとめもなく、よく考えていた。別に理由なんかない。何かに役立てるつもりもなかった。ただわたしにとっては、そういうことを考えるのが日常だった。
でもみんながみんな、そういうことを考えるわけではないのだということに勘付き始めたのは、中学の頃だった。
わたしが自分の考えていることを友達に話すと、「紗生の言ってることってよくわかんない」とつまらなそうに言われた。それはすなわち「つまんない」というのと同義だった。中学生の彼女たちにとっては、恋愛の話や、部活の先輩との上下関係の話や、嫌われている教師の悪口の方が、ずっと面白いのだ。ああ本当に興味がないんだなと思った。でもわたしは不思議だった。どうしてそういうことを考えずにいられるんだろうと思った。だったらいったい何を考えているんだ。何も考えていないのか、それとも。
その違和感は高校に入学してからも続き、不満はどんどんふりつもっていった。自分が考えているもやもやを共有して、一緒にもやもやしてくれるような友達がほしかった。誰かはいるはずだ、と思った。きっと自分の感情を理解してくれる人がいるはずだと。世界のどこかに。だって、この世は広いんだから。
人の多い大学なら、そういう人もいるだろうと思って、死に物ぐるいで勉強して、早稲田に入学した。自分のいるべき場所はここじゃない。バカなくらい純粋にそう信じて。
自分と同じ、もっと「わかる人」がたくさんいる大学にはたしかに、頭のいい人や、並々ならぬ知識量を持っている人がたくさんいた。バケモノかと思うくらい頭が切れる人もいたし、リーダーシップを発揮して次々に人を引き寄せる人もいた。自分とは違う人間と会うのは、面白かった。世界が広がったと思った。わたしが求めていたのはこいういうことだったのだと思った。何も考えていないような、ただ日常をぼーっとしながら生きる人なんかと話すんじゃなくて、ディープなことを語り合える、相手。もっと学術的な何かを求めていたのだ。人生にたいする真剣さを求めていた。
いろいろな人がいる大学では、わたしも自分が考えていることを以前よりもたくさん話すことができた。うんうん、と話をきいてくれる人がいた。やっぱり早稲田にきて正解だったとわたしは確信した。自分の居場所は中学や高校よりもここだったんだと。みんながわたしを認めてくれる。すごいと言ってくれる。何言ってるのかわかんないじゃなくて、面白い話だと言ってくれる。興味を持ってくれる。わたしはわたしのままでいてもいいんだ、と思った。ここなら。
けれど大学二年のときに半年くらい付き合った彼氏に別れ際、こう言われた。
「なんでそういう小難しいことについて真剣に考えてるのかわからなかったし、そういうことを話したいと思ったこともなかった。そんなこと考えてどうするの? 意味あるの? すごいやつなのか、ただの変なやつなのかってことがずっとわからなかった」
全・否・定。ずがーん、どがーん。グレネードランチャーでぶっとばされたかのような(ぶっとばされたことないけど)衝撃。自分の保ってきたもの全てが、がらがらと崩れ去っていくのを感じた。
しかも最凶最悪に運の悪いことに、わたしがそれを言われたのは新宿のラブホテルのだだっ広いベッドの上で、しかももう終電もなくて、意味深にうすぼんやりとピンクに光る間接照明が照らす彼の申し訳なさそうな顔から発せられたその言葉を、にわかには、理解することができなかった。
何言ってるの、この人。
わたしは、自分を認めてくれる人を求めていた。わたしがこれまでに考えてきたもやもやに、興味を持ってくれる人を求めていた。そして彼はそういう人になってくれると信じていた。なぜなら、彼はわたしのことを本気で好きていてくれていると思っていたからだ。それがわたしの求めていた「好き」の形だった。本当に相手を好きなら、相手を理解しようとする。たとえすぐには理解できなくとも、共感もできなくとも、相手がそういう考え方をするのだと、理解しようと試みる。相手を知ろうとする。たとえ自分と相手の価値観が大きく異なっていても、その違いこそ、楽しもうとする。自分と相手の差を、男と女の差を、楽しむ。そうやって知ろうとする気持ちこそが愛だと思っていた。だからわたしは彼を知ろうとしたし、彼にも自分を知って欲しかった。いや、知ろうとして欲しかった。興味を持って欲しかった。彼とはそういう関係になれると信じて、ずっと付き合っていた。でも、蓋をあければ、彼にとってはわたしのそういう恋愛にたいする「真剣さ」すらも、「変」だったのだ。自分が求めている恋愛はこういうこと。こういう風になりたい。こういう考え方が好き。価値観の交換が好き。自分の気持ちを深く深くほりさげていくことは、わたしにとっては当たり前だった。でも彼にとっては当たり前じゃなかった。わたしが一番重きを置いていて、一番の長所だと思っていた部分を、彼はあっさり「変なやつ」だと否定した。彼には、わたしが何事にも真剣な姿勢そのものが、「面倒」で、うざかったのだ。彼はもっと気楽に、何も考えずに付き合える関係を望んでいたのだ。
もう女のプライドも人としての矜持も、見栄も、自尊心も、何もかもが一気に崩壊した。これは現実? こんなに辛いことって起こるの? しかもそういうときに限ってどうして視界に入ってきてしまうんだろうか、枕元にある、ホテルに備え付けのコンドームの入った箱が、より一層わたしを虚しくさせた。
「俺、本当なら、人の話はあんまりききたくないんだ。俺がずっと話してて、彼女にはきいてもらうだけでよかった。彼女にそういう、哲学的な話とか、求めてなかったし、ぶっちゃけ、紗生が言ってることの意味も、よくわからなかった。そういうことって考えても、無駄だと思ったし。なんでそんなことに時間使ってるんだろうと思ってた、ずっと。だって何の役にもたたないじゃん」
わたしの目を見ずに、空中の一点をただぼんやり見ながら言う彼を、わたしは信じられないような気持ちで見ていた。頭が真っ白だった。いろいろな不満が浮かび、頭で考える間も無く、冷静になることもなく、そのまま彼に向かって、わたしは暴言をぼんぼん吐き出した。どうして今さらそんなこと言うの! どうして今さらそんなに正直になるの! ずっと自分のことよく見せようと見栄張ってたくせに、ねえ! どうしてそう思ってたならさっさと言ってくれなかったの!? どうして! どうしてどうしてどうして! おかしいでしょ! 男として、人としておかしいよ。だめだよ! ねえ。ひどいと思わない!? 思うよね? わたしが言ってること、間違ってる!? ねえ!
さっき受けたグレネードランチャーの反撃とばかりに、どかーん、ぐわっしゃーん、と暴言の手榴弾を休む暇なく彼に投げつける。彼はものすごい勢いでわたしに身体中を爆破され、焼き尽くされていった。答えろ、おらー! どうなんだよ、え!? と、メイクも涙でどろどろに落ち、眉間にしわを寄せ、それこそ烈火のごとく怒り狂うわたしの形相は、それはそれはひどいものだっただろう。彼も相当に傷ついてることは想像にかたくなかったが、わたしは止める方法を全く知らなかった。というか、わたしをこれだけ傷つけたのだからお前も同じ分だけ傷つくべきである、と本気で思っていた。
明らかに言い過ぎな部分もあった。だが彼は「ごめん」としか言わなかった。言い訳をしようとすらしなかった。自分が悪者になろうとし続けた。でもそれがわたしにとってはかえってしゃくだった。常にプライドを守り続け、他人の評価をいつも気にする彼が最後だけ正直に、悪者になろうとしているのが許せなかった。悪者になろうとするその潔さみたいなものが、わたしと別れたいのだという意思をよりはっきりと強調している気がして、ますます辛くなった。ひとりで彼をせめまくり、自分は悪くない、お前が悪いと主張し続けるわたしのほうが、よっぽど「悪者」みたいだった。でもわたしは止めることができなかった。最後まで綺麗な思い出のまま別れるなんて器用なことは、不可能だった。
でもわたしの本当にみっともないのは、それだけ暴言をあびせておきながら、結局やっぱり彼が好きで、喧嘩して別れ話が落ち着いたあと、仕方なく二人で広いベッドの端と端に寝ているうちに、情が蘇ってしまって、「ねえ、やっぱりやり直せない?」としおらしく言ってしまったことである。ああなんと情けない。ダサい。ダサすぎる。典型的なダメ女である。感情にまかせてギャーッと騒いでおきながら、冷静になるとやっぱり彼が惜しいのである。でも結局は後の祭り。「いや、もう完全に好きじゃなくなった」と冷めた声で彼に言われ、わたしは何度も彼の背中を振り返り、何度も泣き、当然のように手に入っていた彼の背中のぬくもりにもう二度とふれられない辛さをかみしめながら、一睡もできないまま朝を迎えたのである。彼は大あくびをかいて寝ていた。死ぬほど腹が立った。彼とはもちろん、それ以来、まともに顔を合わせることはなかった。
まあそれはともかく、彼に振られたことは、わたし自身の存在を疑うことになる、大きな転機となった。
どうしてわたしはいま、悲しいんだろう、苦しいんだろう。何が嫌なんだろう。どうして彼はあんなことを言ったんだろう。彼が言ったことは本心だったのだろうか。だったらわたしが主張していたことは、全部間違いだったのか。わたしの「真剣さ」はやっぱり間違いだったのか。彼が正しかったのか。これまでわたしの話を聞いてくれていた人たちも、内心ではわたしのことを笑っていたのだろうか。わかってくれていると思っていた、早稲田の友達も。意味わからないことを言って、偉そうにして、バカだな、と。
「紗生の考えていることに意味が見出せない」と言われてもなお、失恋してもなお、ぐるぐるととりとめもなく自分のもやもやを細かく分析しようとしてしまっている自分を、わたしはどこか冷静に見ていた。彼に考えることを否定されても、気がつけば、こうして自分の苦しい感情を分析しようとしてしまっている。
そう、もう仕方のないことなのだった。わたしは、こうして考えて分析することが、好きで好きでたまらないのだ。
どうして、どうしてと考え続けることや、人間のなかにどんな感情があるのかを深く深くほりさげていくことは、わたしのアイデンティティでもあった。それは踊るのが好きな子が音楽がなると勝手に体が動いてしまうことや、お料理が好きな子が何を食べてもこれはどんな具材と調味料から作られているのだろうと考えてしまうことと、なんら変わらなかった。ただわたしは生まれつき、考えることが好きだった。文学の研究やお金を儲けることや政治にはまったく興味がわかなかったけれど、身近なことを考えるのは好きだった。自分や、家族や友人が何を考え、何を思い、何を大事にして生きているのかを考えるのはとても好きだった。面白いと思った。
でもわたしにとってはまた、運の悪いことに、この考えるという作業に、定義も、一般的に広まっている名前もなかった。だからわたしは自分の好きなことを人に伝えようとするとき、うまく説明できなくて何度も悔しい思いをした。音楽が好きなんだ、スポーツが好きなんだ、ビジネスが好きなんだ。「好き」という気持ちは同じなのに、みんながやるようにはっきりと説明できないのが、もどかしかった。誰とも共有できないことが寂しかった。心から好きなのだと、だれかに指図されなくてもやらずにはいられないくらい好きなんだと伝えられない。だから結局わたしは、「何が好きか」という質問をされたとき、いつも口ごもってしまうのだった。もしまた、彼が言っていたように「この人、すごいやつなのかただの変なやつなのかわからないな」と思われたら嫌だったからだ。だからわたしは結局そのときそのときで適当に、「読書が好き」とか「映画が好き」とか「散歩が好き」とか、無難な答えをするしかなかった。
どうして大人は、「悩んでも仕方ない」と言うんだろう
「そんなことで悩んでいても何も前にすすまないよ。時間の無駄だよ。そんな暇あったらどんどん挑戦しなきゃ」
先輩にそう説教され、本屋で「シンプル」「悩まない」「前向きになる」という言葉を見たとき、走馬灯のようにこれまでのことを思い出した。小学生の頃に感じた蔑みの視線を思い出した。中学のときの「よくわかんない」と言った友達の心底興味のなさそうな声を思い出した。わたしを振った彼の言葉を思い出した。
わたしは人生最大級のもやもやを胸の奥にかかえて、今にも沸騰しそうになっていた。耳から湯気が出そうなくらいに。
どうして?
どうしてみんな、「悩むな」って言うんだろう?
どうして、悩むことは間違ってるみたいに言うんだろう。
どうして当然のように、悩まずに、苦しまずに、考えすぎずに、前向きに肩の力をぬいて行動するのが正しくて、不安や恐怖をかかえて苦しむことが、間違いみたいに言うんだろう。悩んでうじうじと落ち込むのは、時間の無駄みたいに言うんだろう。
子供の頃は、それでも、自由にあばれることができた。泣いたり笑ったり、怒ったり、感情を爆発させることができた。悩んで苦しんで、わがままを言うことができた。でも大人になるにつれ、素直に悩むことができなくなっていく。自分の気持ちに蓋をするのが、うまくなっていく。苦しいとか悲しいとか怒ったとか、そういうマイナスの感情を押し殺せるのが大人なのだ。感情をむき出しにしないのが大人のマナーなのだ。自分がどんなに辛くても、辛くないふりをしなければならないのが、大人なのだ。いや、わかる。それはわかる。お金をもらって働いている以上、仕事場に私情を持ち込むのはフェアではない。輪を乱すような感情は表に出されるべきではない。それはわかる。わかるけど。なんか、何かが、むなしいというか、寂しいというか。
わたしは一歩一歩大人に近づくにつれ、感情をコントロールする方法を学んでいった。わたしよりも大人の先輩や親は、感情に蓋をする方法を知っていた。みんな平気な顔をしていた。泣きたくても泣かなかった。わたしもそうならなければならないんだと思い始めた。大人というのは理性で生きなければならないのだ。悩みは誰にでもある。でもそれをずっと悩み続けるのではなく、行動したり頭でいいきかせたりして、なるべく苦しまないようにしなければならないのが、世間で言う、大人なのだ。仕事をしはじめると、悩みもどんどん増える。自分はだめだと思うことも増える。自信もなくなる。でも大人は「悩むな」と言う。「悩んでいる暇があったら仕事しろ」と言う。ぐいぐい動け、先輩から仕事を奪うくらいの勢いでやれ。悩む暇もなく働け。じゃないと成長しないぞ。わたしの周りの大人はそう言った。貴重な人生をそんなことで無駄にするなと言った。たくさんの本にも、そう書いてあった。むしろ「悩んでも仕方がない」というのは当然の、普遍的な、ゆるぎない事実であるということを前提に書いてある本もあった。前書きに「誰でもできることなら悩まずに幸せに生きていきたいですよね」と書いてある本もあった。
でも、どうして。
疑問や不満がものすごい勢いで膨らんで、心のなかでぱあん、と大きく、はじけた。
悲しかった。そんなことで悩む自分は幸せじゃないと言われているみたいで、間違っている人間だと言われているみたいで、悲しかった。
どうして誰も、わかってくれないんだろう。
どうしてみんな、悩まない方法ばかり探すんだろう。楽に生きる方法ばかり探すんだろう。ありのままの自分を受け入れることばかり、すすめているんだろう。悩まずに肩の力をぬいて、前向きに生きることが幸せだと、なんの疑いもなく、どうして思えるんだろう。
ねえ、誰か。
誰か、誰か、誰でもいいから、教えて。
どうして大人は、一番言ってほしい言葉を、子供の頃なら平気で言ってもらえた言葉を、言ってもらえないのかなあ。
どうして誰も、「悩んでもいいよ」って、言ってくれないのかなあ。
たった、一言だ。
その一言で、救われるのに。
どうして大人になったというだけで、「悩んじゃいけない側」に、来てしまったんだろう。いつのまにその境界線を、乗り越えていたんだろう。いつのまに、許されないことが、増えていたんだろう。
苦しかった。怖かった。自分は人と違うのかもしれないということが、自分が好きなものは、人にとっては好きの対象になりえないということが、寂しかった。
誰でもよかった。本当に誰でもよかった。たった一人でいい。ほんの一人でいいから、お願いだから、「悩むのはおかしくないよ」って、悩め、悩め、どんどん悩めって、言って欲しかった。
楽に生きる必要が、肩の力をぬいて生きる必要が、どこにあるというのだろう。
苦しまずに、悩まずに生きなければならない理由が、どこにあるというのだろう。
役に立たなかったり、結果につながらなかったり、何の意味も見出せないようなことに時間を使うと、どうして罪悪感を覚えてしまうんだろう。
いったい誰が決めたんだろう。悩まずに生きるのが幸せだなんて、誰が言ったんだろう。どどうしてそれが常識になっているのだろう。
コンプレックスが見つかる毎日
悩むのは、たしかに苦しいし、辛い。できることなら悩みなんてない方が幸せなのかもしれない。
でも、何の悩みもない人生ほどつまらないことはないと、わたしは思う。いや、思いたい。
これがしたい、あれがしたい、ああなればいいのに、こうなればいいのに、認めて欲しい、自分を証明したい。自信をつけたい。自分のこういうところが嫌。こういうところを直したい。あの子みたいだったらいいのに。どうしてあの子はできるのに、わたしはできないの。どうしてうまくいかないの。どうしてわたしはダメなんだろう。
まるで日めくりカレンダーみたいに、自分のコンプレックスや悩みを、ひとつひとつ、数える毎日だ。それが、わたしにとっての日常だ。今日、ひとつのコンプレックスが消えても、明日にはまた新しいコンプレックスが見つかる。どんなに毎日自分の悩みを解決しようとしても、いつまでたっても、完璧な自分になんて近づけている気がしない。むしろ、自分を知れば知るほど、理想からは遠ざかっているような気さえする。
嫉妬や、妬みを抱えて、まわりの人間と比べて卑下して、自分なんかもうだめだと思って、まわりを落とすことで自分を上げようとして。他人の足をひっぱろうとして、他人を見下して、バカにして、そういう自分に気がついては、自己嫌悪して。
そうやって苦しんで悩んで、それでも毎日は進む。だめなところをひとつひとつ数えながら生きる。前に進んでいるのか、それとも後退しているのか、そもそも自分は何を目指して生きているのか、わからない。人生に何を求めているのか、最終地点はどこなのか、まったくわからない。
でも、そうやって生きていくことの、何がいけないというのだろう。悩んで苦しんで、それでもその苦しみをひとつひとつ乗り越えようと、一生懸命時間をかけて考えることの、何がいけないのだろう。
人は時間の無駄だというかもしれない。いつまでもうじうじしてても何も前に進まないよと言うかもしれない。そんなことじゃ成長できないと言うかもしれない。
でも、みんなが口々に言う、「成長」って、いったい、なんだよ。何なんだよ。
今の段階から、いったい、どうなったら、「成長したね」って、認めてもらえるの?
「成長」とか、「成功」とか。
わたしたちは、曖昧な言葉に、あまりに簡単に、振り回されてはいないか。
成長って何? ときかれて、何人の人が、とっさに答えられるのだろう。何が成長なのかは人によって異なるというのは誰もがわかりきっているはずのことなのに、どうしてみんな平気で、「これじゃ成長できない」とか、「成功する法則」とか、そういう言葉に振り回されるのだろう。
世の中、わたしたちが思っている以上に、わからないことだらけじゃないか。はっきりしないことだらけじゃないか。明日になったらひっくり返っているかもしれない言葉や概念に、わたしたちはどれだけとらわれてきただろう。本当はどこにも存在しないはずの「成長」や「成功」や、「シンプル」や「気楽さ」や「前向き」という言葉たちに、どれだけ思い込まされていたのだろう。それが、紛れもない、幸せというやつなのだ、と。
「気楽に生きる」ブームに、反旗をひるがえそう
わたしはもう、決めたのだ。
シンプルで悩みなく、ポジティブに生きる楽な毎日を、もう、諦めたのだ。
だって、無理なんだもん。楽しくないんだもん。悩んでいる方が面白いって、気がついちゃったんだもん。みんなが幸せだよと、ごり押ししてくる世界より。
わたしはこれでいい。将来はまた考えが変わっているかもしれないけれど、いまのところは、もう、それでいい。いろんな煩悩に振り回される自分でいい。だってまだ、二十二歳なんだから。
悟りを開くとか達観するとか、いろいろなことが許せるようになるとか、あまり怒らなくなるとか。そうやって穏やかになって、感情をコントロールできるようになって、理性で生きられるようになるにつれ、人はそういう人を「大人だ」と、「できた人間だ」言うけれど、わたしはとても、「大人」にも「できた人間」にも、なれそうにない。
わたしの心の中にはいくつも、いくつも煩悩があって、やりたいこともあって、嫌なこともあって、好きも嫌いもちゅうくらいも、嬉しいもむかつくも悲しいも楽しいもめちゃくちゃたくさんあって、毎日、津波みたいに押し寄せる。とてもコントロールできないくらい、いろいろな感情や欲望に振り回される。
でも、そういう自分に、「それでいいよ」と、わたしは、言ってあげたい。
悩んで、苦しんで、それでもそういう感情を細かく切り刻んで分析するのを楽しいと思う自分を、深く深く掘り下げるのが好きな自分を、「何もおかしくないよ、間違ってないよ」と、言ってあげたい。
自分くらいは、自分だけは、自分のことを認めてあげないと、かわいそうじゃないか。何も、ありのままの自分をすべて、受け入れようと言っているわけじゃない。だって嫌いなところ死ぬほどあるし、それは無理だもん。でも、たくさんのコンプレックスはさておき、感受性の強い部分くらいは、認めてあげたいと思うのだ。誰も「それでいい」「悩んでいいよ」と言ってくれないなら、自分が認めてあげないと、どうも、かわいそうすぎる。寂しがり屋なんだもの、わたし。
大人は「悩むな」というかもしれない。「人生を無駄にするな」というかもしれない。でもわたしはそれを無駄だと思わない。意味がないとは思わない。いや、というよりも、意味がなくてもかまわない。何も意味がないとしても、全世界の人がそれを意味がないと言おうとも、わたしは、わたしだけは、自分自身の味方でいてあげたい。ま、世界中を敵に回すようなことなんて、ないとは思うけどさ。
それでいいんだ。コンプレックスだらけでいいんだ。煩悩だらけでいいんだ。役に立たないことに、時間をかけたっていいんだ。だってわたしはそれが、楽しいんだから。そういう生き方が、好きなんだから。
ポジティブシンキングだの、楽に生きるだの、ありのままの自分を全部好きになるだの、鈍感力を身につけるだの、人に差をつける成功者の法則だの、幸せな人の習慣だの、シンプルに生きる、だの。
もう、き き あ き た わ !
もう、知らん。何も知らん。ききあきた。もーおなかいっぱい。いい加減、悩みがちな人間の居場所ができてもいいじゃないの。いや、べつに前向きに意欲的に毎日イキイキと生きている人々を否定するつもりは一切ない。むしろそういう人たちに憧れるし、なれるもんならそういう生き方がしたいと思う。
でも、そろそろ、わたしが本当に楽しいと思う生き方をしても、いいんじゃないかなあ。
さまざまな常識によって、わたしが楽しく生きられなくなっているのなら、わたしは、それをぶち壊してでも、自分らしい生き方を見つけたいんだ。
シンプルに生きるのも、ポジティブに生きるのも、いいと思う。そうやって生きて幸せな人ももちろんいるし、尊敬している。
でも、自分がそういう人たちに合わせて生きる義理もないと、わたしは思うのだ。自分の生き方は、自分で選んでいい。
こういうことを主張し続けていると、もしかしたら、人は、こう言うかもしれない。
「あいつ、こんなこと考えてたのか」
「自分のことをこうやって書いて、自分に酔ってて気持ち悪いな」
「こんなに性格が悪いだなんて、思わなかった」
そんな風に、わたしのことを批判する人もいるかもしれない。そう言われて、立ち直れないくらいの傷を、わたしは負ってしまうかもしれない。自分の考えていることを好き勝手に吐き出す以上、それだけのリスクを、わたしは背負わなければならないのだ。
「すごいやつなのか、ただの変なやつなのか、わからない」
あのときの、彼のように、そんな風に言う人間も、いるかもしれない。
他人から批判されることを想像すると、とても恐ろしくて、不安な気持ちになる。だってわたしはひどく、承認欲求が強いから。
でも、それが、なんだと言うのだろう。
悩みがなく、ただ楽に、肩の力をぬいて、シンプルに生きていくことほど、つまらないことはないと、わたしは思う。
批判されたら、苦しいだろうと思う。自分を嫌いで、認めてくれない人がいるという事実は、逃げ出したくなるほど、辛いと思う。
でも、そのときはそのときでまた、批判されてどうして苦しいのか、分析すればいい。
「本当にすごいやつ」なのか、「ただの変なやつ」なのか。
もう、そんなこと、どっちでもいい。
ただ面白く生きられるなら、ただの変なやつにでもなんでも、なってやろう。
わたしは、自分の道を信じることにする。
さあ、シンプルに生きようとする大人たちに、反旗を翻そう。
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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