チーム天狼院

Kさんへ《川代ノート》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」に参加したスタッフが書いたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:川代 紗生(天狼院書店スタッフ)
 
 
送別会の翌日、目が覚めると、ひどい胸焼けと頭痛でくらくらした。
あ、やばい、めっちゃ二日酔いだこれ、と思いながらベッドから身体を起こすと、まるで泥棒が入ったのかと思うくらいに部屋が荒れている。
昨夜の記憶が不確かで、いや、正確には帰ってきたのは朝なのだけれど、まあとにかく浴びるように酒を飲んだこと、そしてふらふらになりながらも無理やりシャツを引き剥がしてパジャマに着替えたことだけは確かだった。
 
目が重い。うまく瞼を開けられない。
徐々に、みっともなく子供みたいに大泣きした昨夜の自分の嗚咽が、よく回らない頭の中に、うっすらと蘇ってきた。
思い出して、恥ずかしくなる。飲み会でビールを飲みまくり、酔っ払ってダル絡みして、音痴のくせにのりのりでアナ雪の挿入歌(セリフ付き)を歌い、あげくにカラオケボックスの個室で寝こけて先輩たちに介抱してもらったのだ。
 
ああもう、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
明日からどんな顔してみんなに会えばいいんだろう。
と頭を抱えたけれど、そこまで考えてから、あ、もう明日からはあの職場に行く必要はないんだということを思い出して、もう一度、寂しくなった。
 
時計を見ると、もうお昼をとっくに過ぎていた。昨日は号泣したせいで読みきれなかった寄せ書きをもう一度見直した。また涙腺がゆるむ。
あー、楽しかったなぁ、と思いつつ、ふと、もらったハンカチや花束やお菓子が入った紙袋の底に、見覚えのあるカラフルな柄の一枚のカードが入っているのが見えた。あれ、と思って手に取ると、自分が昨日の昼間に書いた、Kさんへのメッセージだった。
 
「Kさんへ さびしいので あんまり長くメッセージを書くのはやめます」
 
あ。
え、うそ、これって。
ぐわんぐわんに酔っていた頭が、サッと一気に冴えていくような感覚があった。
あー、マジかよ、なんで忘れちゃうんだよ。
いつもこうだ。またやらかした。私はこういうおっちょこちょいで詰めが甘いところが本当にダメなんだ。
昨日だって、お世話になった人にはちゃんとお礼をしなきゃと、張り切ってプレゼントを買いに行って、全部飲み会の最後に泣きながら渡したはずなのに、結局こうして肝心のメッセージを入れ忘れた。ああもう、なんで大事な時にこんなミスができるんだろう。自分で自分のことが理解できない。
はあ、とため息をついて顔をあげた。ソファに、シマウマ柄のストールがかけられていた。
 
「さきちゃん、風邪引くから、これ巻いていきなさい」
 
心配性のKさんが、送別会のあと、私の首に巻いてくれたものだった。
 
 
 
Kさん。
 
ねえ、Kさん。
 
今更ここでメッセージを書いたところで、Kさんに届くかなんて、わからないのだけれど。
それでもなんだか、今たしかに胸の中にある気持ちがなくならないうちに目に見える形に残しておきたくて、キーボードを打っている。
 
 
 
 

新卒で入社した私の最初の教育係になったのが、Kさんだった。
 
「会社のお局はマジで怖い」
 
大学の先輩から、そう何度聞かされたことだろう。
 
「マジでさ、もういびりが半端ないよ。若いってだけでいじめてくるからさ、あいつら」
 
どの会社にもお局のおばさんというのは必ずいるもので、若い新入社員の女子なら絶対に一度はみんないじめられるものだと言い聞かされていたから、私はビクビクしながら勤務初日を迎えた。
 
「よろしくね、川代さん。大変だと思うけど大丈夫だから」
 
けれど、一緒に働くことになったKさんは、とても「お局」というイメージからは程遠いような、明るい人だった。
「溌剌とした」とか、「磊落な」とかいう表現が一番しっくりくる。
 
Kさんは、見た目は若く見えるけれど、私の母親とたいして歳は変わらないらしかった。はきはきと早口気味に話し、社交的で、誰とでも仲良くできる。はっきりと物を言い、教えるのがうまく、説明が的確だった。
 
Kさんの仕事の早さは、異常だった。
もうなんというか、笑えるくらい仕事が早いのだ。見ていると、こちらがだんだんおかしくなってきて、ぷっと吹き出しそうになるような早さなのである。
 
まず、足が速い。
歩くのが信じられないくらい速い。
 
「あ、Kさんあのこれ」と、私が声をかけようとしたときには、Kさんは既に次の角を曲がっていて、私が焦って追いかけると、もう声が届かないくらいずっと遠くを歩いているというような、もう逐一、そういう感じだった。普通の人が四時間かけてやっと終わらせられる仕事を、Kさんは二時間で終わらせられる上に、別の人が忙しくて手が回せない他の仕事にも顔を突っ込み、そして「もうやることない。全部終わっちゃったから、帰るね」と涼しい顔で「バイバイ」と言って颯爽と帰っていくような、そんな人だった。
セオリー通りに行けば、Kさんほどの仕事がテキパキこなせるタイプの女性というのは、「お局」というレッテルを貼られるものなのだけど、Kさんは「お局」らしさが全然なかった。むしろどこか、少女のような純粋さと愛らしさを見せることも多々あった。大の野球好きで、しょっちゅう神宮球場に行って広島カープの応援をしているのだと無邪気に語った。
 
「さきちゃん、見て見て。私が仕入れた商品、今日もうこんなに売れてたの。すごくない? 私もうすごく嬉しくて、お客さんのこと追いかけてありがとうございます〜って言いたくなっちゃって」
 
自分の仕事がうまくいくと、まるで子供みたいに喜んで、何がどれくらい売れたのか、どんな人が買って行ったのか、そういうことを毎回私に報告してきた。
 
かと思えばお母さんのように私のことを心配したり、「彼氏いつこっちに来るの? 見たい見たい。きた時絶対教えてね」と遠距離恋愛中の彼氏との恋話をやたら聞きたがったりした。
 
やけに私の彼氏のことばかり聞きたがるので、一度、「じゃあKさんはどんな人がタイプなんですか」と興味本位で聞いてみると、「田中角栄」と即答した。
 
「た、田中角栄?」
 
「うん、かっこいいじゃない。ああいう政治家大好きなの」
 
「あれ、黒田はどうしたんですか?」
 
Kさんは広島カープの大ファンで、そのなかでも特に黒田博樹の話をよくしていた。
 
「黒田は選手として好きだけど、男としてはう〜んって感じ」
 
女子高生みたいにきゃぴっと首を傾げて言うKさんに、ぶっと思わず吹き出した。ちょ、黒田、めっちゃかわいそう!! 田中角栄が好きなんて、どれだけ渋いチョイスなんだ。
 
「男気がある人が大好き」とKさんは言った。男らしくて、仁義を通しているような生き方が好き。だから、極道ものの映画も大好きなのだと語った。
 
なんだ。
なんなんだ、この人は。
 
不思議な人。
 
Kさんのことが全然読めないなあ、とは思ったけれど、それでもどこかでふつふつと、Kさんに認められたい、Kさんの役に立ちたいという欲求が浮かんできて、私はなんとかKさんに食らいついて仕事を覚えた。
 
「これね、ちゃんと毎日見てあげないとダメだから。うちのチームは忙しいから、何かしながら何かをやるってしていかないと終わらないのよね。ここもこう。あ、こっちももうなくなってるから補充しなきゃ。これもあとでもうすぐ連休だから大目に発注しよう。こうして、こっちを直しながらこっちもちゃんと見ておく。あねえねえTさん、この子うちのチームに新しく入った子さきちゃん。いい子だから仲良くしてあげてね。さきちゃん、Tさんめちゃくちゃ仕事できてすごくいい人だから何かあったらなんでも聞いていいから。あ、それ持っていくからこっち半分持って。はい、じゃ、行こう。ね、大変だけど、慣れだから大丈夫大丈夫」
 
慣れだから、って言われても、ちょ、ちょっと、Kさん。
あなた、自分がどれだけ仕事早いかわかってんの? と教えてもらっている間じゅう、私は何度もKさんに言いたくなったけれど、きっとそう言えば、Kさんはすぐに「大丈夫大丈夫。私は長いからできるだけ。さきちゃんの方がそのうち偉くなるよ」と笑って言ってごまかすんだろうと思って、やめた。
 
本人は気がついていないかもしれないけれど、大丈夫、というのがKさんの口癖だった。
Kさんは足だけでなく、しゃべるのもとても早かったので、いつも、「大丈夫」が「ダイジョブ」に聞こえた。
Kさんのダイジョブ、には不思議な力があって、Kさんがダイジョブ、と言うと、たしかに、なんだかすべてのことが本当に大丈夫になるような気がして、私はいつもKさんのダイジョブを求めて、Kさんに仕事のやり方から何から、いろんな事を相談した。
 
するとやっぱり期待通りに、Kさんはいつでもダイジョブダイジョブと言ってくれた。
ああ、Kさんがいれば安心して仕事ができる、と、人見知りで緊張しいの私も、徐々に仕事に慣れていくことができた。
 
 
 
私がKさんと働くようになって3ヶ月くらい経ち、やっと一通りの仕事を覚え始めた頃のことだった。
上司から、悪夢のような宣告があった。
 
「Kさんが、1ヶ月くらいお休みします」
 
なんということだろう。Kさんはなんでも帰省するために毎年夏に1ヶ月くらいお休みを取っているらしく、今年も例外ではなかったようなのだ。
もちろん、Kさんが抜けることはチームにとって大打撃だった。気が利いて、仕事が早くて、仕事量が多いKさんの穴を埋めるのは至難の技ではない。だいたいKさんがいなくなるということはイコール、私が独り立ちしなくてはならないということなのだ。それを聞かされた時、私は身が縮むような思いがした。
え、ちょっと待ってよ、Kさん。
なんとか3ヶ月必死に一緒に仕事をして、Kさんのフォローがあれば業務を終わらせられるくらいにはなったけれど、とてもじゃないが、私は一人前ではなかった。
Kさんなしであんなに大量の仕事量をこなせるわけない。
やばい、どうしよう。
不安で不安で仕方なかったけれど、駄々をこねたからってKさんがお休みする事実が変わるわけもなかった。
 
「さきちゃん」
 
Kさんがお休みする前の最後の出勤日、私は今にも泣きそうになりながらKさんを見送った。
 
「さきちゃん、そんな顔しないで。大丈夫大丈夫」
 
ダイジョブダイジョブ。
Kさんらしい清々しい笑顔で、私の頬を優しく触った。
 
「大丈夫だから、さきちゃんなら」
 
私がよっぽど、子供みたいに見えたのだろうか。
 
「もう独り立ちできてるよ。大丈夫大丈夫」
 
でももう今回ばかりは、いくらKさんのダイジョブを聞いても、全く安心できなかった。
何が大丈夫だって言うんだ。何も大丈夫じゃないし、絶対に失敗する。一人であんな量の仕事なんかできるわけない。
 
「じゃあこれ、食べて。しばらく私いなくて、迷惑かけるから。はい」
 
別れ際、Kさんは無理やり私のポケットにお菓子をズボッと突っ込んで、そしていつもみたいに「バイバイ」と言って、田舎に帰っていった。
 
こうして、ついに私にもKさん断ちしなければならないときがやってきた。
 
普通でも4時間かかる仕事が、5時間かかった。ときには6時間かかることもあった。ということはつまり、毎日のルーティンが後ろ倒しになり、チーム全体に迷惑をかけることになる。
 
「大丈夫? 何か手伝おうか?」
 
そうやって気を回してくれる優しい先輩たちに迷惑をかけるのが、心底申し訳なかった。
ああ、Kさんがいるときだったらきっと、もうみんなが声をかけるまでもなく、Kさんの方からチームのみんなに「何か手伝うの?」と声をかけているくらいだったのに。
3ヶ月経っても「新人」の域から抜け出せない自分に、腹が立った。
ほら、だから言ったじゃん、Kさんいないとダメだって。
 
でもそう心の中で呟いてみても、「何言ってんの、弱気になっちゃダメ」と背中を叩いてくれるKさんが現れるわけじゃない。
やるしかない。
Kさんが帰ってきたとき、何も成長してないんじゃ、意味がない。
なんとかそう言い聞かせて、仕事をした。
1日1分ずつでもいい。本当にほんの少しずつでもいいから、前よりも仕事ができるようになっていればいいんだ。
 
 
 
 
「さきちゃん、久しぶり! お土産あるよ。ほら、これ、かわいいでしょ、さきちゃんっぽいと思ったんだよ」
 
約1ヶ月ぶりに会ったKさんは、全く何も変わっていない溌剌とした笑顔で私にお土産をくれた。
 
「なんですか、これ」
 
「定期入れ。私すっごいかわいい〜と思って」
 
そう言って渡してきた定期入れには、パンダのキャラクターが描かれていた。たしかにすごくかわいい。
 
「あ……ありがとうございます」
 
「それで? どうだった、1ヶ月。大丈夫だった?」
 
いや、全然、ダイジョブじゃなかった。
ダイジョブじゃないよ。Kさんいないとダメだよ。一人ですごい、不安だったんだよ。
 
久しぶりに会うKさんの顔を見ると、思わずそう言って泣きついて、自分が一人で仕事をしていかに不安だったかをとくとくと説明したくなったけれど。
 
「……はい、なんとか。大丈夫でした」
 
少しでも成長したと思われたくて、ちょっと見栄を張った。
 
 
 
 
Kさんが帰ってくると、一気にチームにも活気が増えて、改めてKさんの力の大きさを思い知った。
 
「さきちゃんこれ、私がいない間誰も補充してない」
 
「ここないよ。なんか発注しなきゃ」
 
「そろそろさ、シルバーウィークだから、それに向けて色々準備しようよ」
 
まるで1ヶ月のブランクなんか少しもなかったみたいに、Kさんは馬車馬のように動き回っていた。
 
半年も過ぎると、私はようやく仕事にも慣れてきて、Kさんと一緒に働く事が少なくなった。
自分に任せてもらえる仕事が増えると、だんだん仕事も楽しくなってくる。胸をはっていられるようになった。もう毎回出勤してメールをチェックするたびに緊張することもなくなった。
 
「さきちゃん、最近あんまりかぶらないじゃない。私すごく寂しい」
 
一緒にいる時間が減っても、眉毛をへにゃりと曲げて、心底寂しそうにそう言ってくれるKさんのことを、素直にありがたいと思った。
 
 
 
 
入社してから、もうすぐ一年が経とうとしている頃のことだった。
 
「さきちゃん、お願い、すぐ戻ってきて」
 
Kさんの焦ったような声で内線が届いた。
そのとき私はたしか、いつも働いているフロアとは別のところで作業をしていた。
Kさんならだいたいのことには対処できるのに、どうしたんだろう。
かなりテンパっているような声だった。何かよっぽどのことが起きたんだろうか。
 
足早にフロアに戻ると、Kさんが助けを求めるような顔で私を見た。
 
「ああ、やっと来た。さきちゃん、あのね」
 
焦るように早口で説明するので、なかなか状況がつかめない。
ただ、よくよく聞いてみると、ちょっと急ぎで対応しなければならないようなトラブルが起きてしまったようだということがわかった。
かなり面倒くさい状況だったと思う。今だから言えるのだけれど、なんでこんな日に出勤になっちゃったんだろうと思った。だってKさんが対応できない状況なのだ。私がなんとかできる保障なんかどこにもない。
 
正直すぐに逃げ出したかったけれど、もう対処する人間が自分しかいないからには、私がやるしかない。
なんとか状況を整理して、トラブルを回避しようと務める。
 
内心、緊張と焦りで心臓がばくばくしていた。失敗したらどうしよう。うまくいかなかったら。もっと大きなトラブルに発展したら。
 
でも人間というのは不思議なもので、なぜか自分以外の人がみんなものすごく焦っていたり、イライラしていたりすると、自分だけは落ち着いて対処しなければと、冷静になってくるものなのだ。いや、心の中はずっと緊張しっぱなしだったのだけれど、なんとか、冷静な自分を装おうことはできたと思う。
 
長い時間をかけてようやくそれが終わって、火種が爆発することもなく終わったとき、早番のKさんは私より先に帰宅していた。
 
Kさん、大丈夫だったかな。
 
夜、帰宅したあとに、「今日は大変でしたね」、とKさんにラインをした。
すぐに既読がついた。Kさんはいつも返信が早い。
 
「今日は本当にサキちゅん凄い成長したなと感じた1日だったわ いろいろありがとう おやすみなさい」
 
サキちゅん、という打ち間違えの仕方がなんだかすごくKさんらしくてくすりと笑ってしまった。
凄い成長したな、なんて。
ぱっと誤字が目に入ってきた後に、じわじわと嬉しさがこみあげてきた。
Kさんはすごく優しい。いつもダイジョブ、と言って支えてくれる。でも、成長した、と言ってもらえたのは、はじめてのことだった。
 
 
 
 
だから、天狼院に戻ると決めた時、真っ先に浮かんだのが、Kさんの顔だった。
 
「Kさん、あの」
 
「ねえねえさきちゃん、これから会社で偉くなったらどういう方面に行きたいかとか、決めてるの?」
 
皮肉なもので、言おう言おうと構えているときほど、言いづらい環境にどんどん追い詰められていく。
きっとKさんは私がこのまま会社にい続けて、そしてここで上り詰めていこうとしているのだと無邪気に信じきっているのだろう。
当たり前だ。入社して一年で辞めるというのはあまり普通のことじゃない。
 
「どうって……えっと、あの」
 
「彼氏はどうするの? 彼氏がいるところに配属になればいいのにね」
 
ドキッ、という心臓の音がそのまま聞こえてしまうんじゃないかと心配になるくらいだった。
 
会社を、辞めることにしました。
天狼院書店っていうところで、大学生のときインターンしていたんです。
もちろんこの会社も好きだし、Kさんたちと同じチームで働くのはすごく楽しいけど、やっぱりどうしても、今しかできないことに挑戦してみたいって気持ちが強くなっちゃったんです。
 
今日Kさんに会う前に、何度も心のなかで復唱した言葉たちが、舌の上で溶けて消えていく。
 
ああ、どうしよう、言えない。どうしても言えない。
 
毎回毎回、Kさんと働く時間がかぶっている度に、言おう言おうと決心するのに、結局はKさんの顔を目の前にすると、急に口の中がからからに乾いてきて、言い出せないのだ。次こそは、次こそはとどんどん先延ばしにしてしまう。
 
他のチームのメンバーに伝えるのも死ぬほど緊張したし、言いたくなかったけれど、やっぱり一緒に仕事をする時間が一番長かったKさんには、誰よりも言いづらくて、結局言うのが最後になってしまった。
 
Kさんが悲しむ顔を見たくない。
私が今いなくなるって知ったらKさん寂しがるかも。
もう少し、ギリギリになってから言った方がお互いのためにむしろいいんじゃ……。
 
毎日毎日、いくつも、Kさんに辞めると言わなくてもいい理由を考えた。
 
でも、本当は初めから、気がついていた。
そんなの全部、言い訳だってことも。ただの保身に過ぎないってことも。
本音のところは、ただKさんに幻滅されたくないだけなんだ。
 
せっかく一年間かけて、面倒見て育てたのに。
あんなに迷惑かけられたのに。
一緒にたくさん働いて、これからやることもたくさんあるのに、もうやめるの?
だいたい、就職して一年で辞めるなんて、おかしいでしょ。どういう神経してるの?
一年で戻るんなら、最初からそっちに就職してればよかったんじゃないの?
 
そう思われたくないだけ。「仕事の途中で平気で投げ出すだめなゆとり世代」だと思われたくないだけなんだ。
いつも何があっても、ダイジョブダイジョブ、とにっこり笑って言って、私のポケットに無理やり飴やらフィナンシェやらチョコやらをつっこんでいくKさんとの絆を、失いたくなかった。
 
 
 
 

Kさん 突然ごめんなさい。実は3月いっぱいで会社を辞めることにしました。大学生のときインターンしていた会社に戻ることにしました。私はずっとライターになりたいと思っていて、その夢を

途中まで書いて、はあ、とため息をつく。
 
直接はどうしても言えなかった。やっぱり嬉しそうに自分の発注した商品が売れた話をしているKさんに突然やめますなんて言えるわけなかった。だいたいなんて切り出せばいいんだ。Kさんと二人っきりで話す機会なんて皆無に等しい。まだ大っぴらに公表もしていなかったし、他の人に聞かれたらなんとなく嫌だし……。
 
そうやって考えうるありとあらゆる言い訳をしまくって、私は結局直接言わずにラインで言うことにした。ラインならメッセージを打って送ればそれでおしまいだ。相手の反応を目の前で見る必要もない。
 
本当にKさんのことを大事に思っているなら直接言うべきだというのは嫌という程わかっていた。これは卑怯な方法なのだ。
 
でももう仕方がない。伝えなければならないことなのだ。
 
時計は深夜一時を過ぎていた。
 
たしか明日、Kさんは早番だった。きっともう今の時間には寝ているはずだ。
ということは、たぶん今ラインを送ってもすぐに返事が来ることはないだろう。だから、私も送信ボタンを押したら、すぐにベッドに入って、朝まで眠ろう。
 
ここまで来てもまだずるい考えを捨てきれない自分が恥ずかしいとも思ったけれど、もうどうしようもなかった。だって怖いのだ。幻滅されて、「信じられない、もう嫌い」だと言われてしまったらどうする? 明日から会う度に気まずい思いをすることになったらどうする?
Kさんが、もう二度と口を聞きたくないって、言ったら?
 
送信ボタンを押そうとする指先が細かく震えていた。
はあ、と大きく息を吸い、ぎゅっと硬く目をつぶって、画面をタップした。ラインの緑の吹き出しいっぱいに文字がぎっしりつまっていた。
 
ああ、もう後戻りできない。
とりあえず今日はもう寝よう、と画面を閉じようとしたとき、Kさんから返信がきた。
 
え、Kさん、起きてたの?
 
「さきちゃん 眠れなくなるわ」
 
Kさんから、それだけの短いメッセージがきていた。
 
「すいません……こんな時間に」
 
「いやいや、サキちゃんがいなくなるなんて寂しいわ」
 
ホッとして、それだけで泣きそうになった。
たとえお世辞だとしても、寂しい、と言ってくれるだけで、もう十分だと思った。
 
「ありがとうございます」
 
まだ震える手で、すぐに返信を打つ。
 
「ありがとうを言わないで ますます寂しくなるの」
 
鼻と喉の奥の奥の部分が、きゅっと縮こまったような感覚があって、そして、痛くなる。
何かがこみ上げてくるのがわかった。目の奥が、鼻の奥が、全部が痛くて、苦しい。
 
なんで。
なんでこの人は、ここまで素直なんだ。
 
私は何を、心配していたんだろう。
何を勘違いしていたんだろう。
 
ああ、そうか、Kさんはそういう人なんだ。
私はKさんから嫌われるんじゃないかとか、だめなやつだと思われるんじゃないかとか、自分が不利な立場になる妄想ばかりしていたけれど。
Kさんは、ただ純粋に寂しいと、言ってくれる人だった。
 
自分が得するかどうかとか、損したくないとか、そういうことじゃなくて。ただ、純粋に、感情を表現できる人なんだ、Kさんは。
こっちの方が自分にとって有益になるからどうとか、こっちの方が論理的だとか、こういう道の方が人として正しいとか、そういうことじゃなくて。
ただ、自分が寂しいから嫌だとか、悲しいから嫌だとか、こういうことがあったから嬉しいとか、そういうことを素直に表現できる人なんだ。だから私はKさんのことが好きだったんだ。大好きだったんだ。
 
社会人になって、色々な人と出会った。色々な大人の話を聞いて、色々な人生の形を見た。
けれどそのどれもが自分の正解とは少しずつ違っているような気がして、どうもしっくりこなかった。
どうやって生きていけばいいんだろう。
どうすれば幸せになれるんだろう。
どの道を選べば、「あなたは幸せな人ですね」って、言ってもらえるんだろう。
「人の決めた道を生きても仕方がない」って、いくつもの本に書いてあったのに。映画で、本で、ドラマで、何十回と見てきたはずなのに、私は結局気がついたら遠回りして、いつもいつもどうすれば周りから二重丸をつけてもらえるかどうかばかり考えて、人生を選択してしまう。
大学を卒業して、社会人になって、どんな風に生きていくのが正解で、どんな風に生きていけば合格なのかがわからなくなって、いつもいつも足元が不安定だった。本当は自分で自分の道を決めたいって思っていたはずなのに、何も先が見えないから、何か頼れるものがあればいいのにと、探していた。
そんなときに私の前に、あの速い足で颯爽と現れたのが、Kさんだった。
純粋で、屈託がなくて、嬉しいことには全力で喜んだり、頭にきたらカーッと顔を真っ赤にして怒ったりした。感情に正直で、無理に理屈で隠そうとしたり、「自分はいい大人なんだから」と、変に自分に嘘をつくこともなかった。嘘をつくのがひどく下手くそだった。嫌なことがあった時はすぐに顔に出た。晴れたり、曇ったり、雨が降ったりお天気雨みたいに、コロコロと顔色を変える。
そんなKさんが、お世辞なんか言えるわけがない。
きっと本当に寂しいと思ってくれているのだ。ただ、私がいなくなることが純粋に寂しいんだよと伝えてくれているのだ。
 
Kさんはいつだってこんな風に、自分の感情や欲求に素直に生きる人だった。
ああそうだ、だからこそ私は、Kさんに必死に食らいついてついていこうと思ったんだ。
Kさんとの思い出が走馬灯のように浮かんでくる。
 
うう、とくぐもった声が、喉の奥から溢れた。
最近引っ越したばかりで家具が少ない殺風景な部屋で泣くから、余計に寂しく感じてしまう。
 
するとまた、Kさんからメッセージが来た。
 
「サキちゃん、仕事をどうこうよりは、女として幸せになってね 絶対に」
 
Kさん。
ねえ、Kさん。
 
Kさんに会えてよかったとか、Kさんに教えてもらったことはずっと私の糧になるとか、いつかまたKさんと仕事がしたい、とか。
メッセージカードに書ける言葉は、書こうと思えばいくらでも思いつくのだけれど。
でも、Kさんがあまりに、純粋で素直で、ひたむきに私と向き合ってくれたから、私もKさんに、理屈とか抜きにして、ただ素直な自分の気持ちを伝えたい。
 
「Kさんへ
さびしいので あんまり長くメッセージを書くのはやめます。
Kさんと離れるのが本当にさびしいです。
大好きです。本当にありがとうございました」
 
 
 
 
はあ。
キーボードを打つ指が痛くなってきた。ぎゅっと指先を握ったり離したりする。
今、狭い一人暮らしの部屋で、この記事を書いている。
長く書くのはやめますとか言っておきながら、もう一万字を超えてしまった。
 
だめだ、なんだかもう感情がうまくまとまらなくて、支離滅裂になってしまう。
 
いくらKさんとの思い出を語っても、Kさんへの感謝を書き連ねても、きれいごとみたいになる。終わらせようとすると、うまく感動話にまとめて終わらせようとしてしまう。自分らしくない。指がうまく思うように言葉を紡ごうとしてくれない。
 
ああもうすみません、Kさん。
最後までかっこつかなかったから、こうしてせめて文章ではかっこつけようと思ったのに、結局はこんな風にうやむやで終わってしまいそうだ。
 
いや、もうむしろ終わらなくていいのかもしれない。
結局私はいつまでもKさんに甘えていたいのかもしれない。
 
あー、もう、本当、すいません、Kさん。
 
申し訳ないから、直接会いに行って、言い訳してもいいですか。
 
初めて会ったときみたいに、早足で「さきちゃん、なんか、ちょっと離れてただけなのに、すごく久し振りな感じがするね」と、私の前に颯爽と現れるKさんを想像する。
 
ごめんなさい、Kさん、ストール借りちゃっててごめんなさい。
あと、Kさんにちゃんとした熱い文章も書こうと思ってたんですけど、結局あたし、うまくまとまらなくて。
本当いつもこんなんで、詰めが甘くてすいません。
 
そうだ、ちゃんとKさんの目を見て、さっきクリーニングに出してきたシマウマ柄のストールを返そう。
 
うん、そうだ。それがいい。
 
そうしたらKさんは、ダイジョブダイジョブと、笑って言ってくれるだろうか。
 
 
 
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2016-04-04 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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