歩き疲れた先の、優しい業務命令に色を取り戻した。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:松下広美(チーム天狼院)
※この話はフィクションです
どれくらい、ここにいるんだろう。
向かい側のホームに夕日が差し込んでいる。
灰色のはずのコンクリートが、橙色に染まる。
「まもなく電車がまいります」
ホームにアナウンスが流れるけれど、立つ力が出てこない。
もう少しだけ、座っていよう。いま、何時なんだろう。
いつも暗くなってからしか会社を出ないから、いまの季節の、日の沈む時間がわからない。
まあ、何時だろうと関係ないか。今日はもう誰とも約束をしていないし、家に帰ったところで誰も待っている人はいない。ギュッと締めつけられる胸を、自分の腕で抱きしめる。
ほんとうは、抱きしめてもらっているはずだったのに。
「これって、他の色はあるんですか?」
赤がベースの、ストライプのネクタイを手にしていた。ストライプの細さはいい感じなんだけど、この赤は彼にはちょっと赤すぎる気がする。
「はい、ございますよ。お出しいたしますね。しばらくお待ちくださいませ」
「お願いします」
店員さんは、背中を向けて棚をあける。ゴソゴソと探りながら「あれ? おかしいな」とつぶやく声が聞こえる。「ああ、上だったか」と、またもやひとりごとを言いながら。背伸びをして探しはじめる。
「この辺にあったはずなんですけどね……」
今度はこちらにも聞こえるような声でつぶやくが、探す手は止まらない。
「ない、ですか?」
「すみません。昨日入荷したのを見たので、あるはずなんです。バックヤードにあると思うので、取ってきますね! お時間は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
時計は見なくても、まだ時間が大丈夫なのはわかっていた。
ただ、百貨店で買い物をするのは、なかなか慣れなくて場違いのような気がしてならない。自分の着ている服を眺めてしまう。
スカートは、名古屋の栄にある地下街のお店で、セールで買ったやつ。このカットソーは、通販で3枚セットで安かったし、仕事中でも着られそうだったから買ったもの。手に持ったカーディガンは……。全身合わせて、このネクタイ1本分にもならないかも。
でも、いいんだ。
今度、大切なコンペがあるって言ってた。だから最近は、夜遅くまで残業してるって。
そのコンペで、この新しいネクタイをして、かっこよくキメてほしい。
彼の、年に一度の誕生日なんだから、これくらいいいよね。今日買ったら「なに持ってるの?」って言われちゃうかな。取り置きしておいてもらおうかな。
「きょうの夜、どこに行くー? なに食べよっかー?」
「あ、今日は友達と約束があるんだ。ゴメンなー」
後ろでカップルの声がした。
「えー、きょうはずーっと一緒にいてくれると思ったのにー。友達だったら、あたしは一緒に行っちゃダメ?」
猫なで声、ってこういう声なのかな?
「ダメだよ。友だちに相談に乗ってほしいって言われてるんだ。いつもより真剣っぽくて。初対面の子がいたら、話しづらくなるだろ?」
諭すような、でも甘えが入った、男の声。
あれ? どこかで、聞いたことのある声?
振り返ったのは、無意識だった。
女の子と目が合った。
キョトンとした顔でこちらを見る。
あんな、猫目っぽいアイラインを入れてみたかったんだよな。ショートが似合う小顔だ。
ノースリーブの白いワンピースから出ている白い腕を絡ませている。
その左側を見た。
「あっ」
彼と目があった瞬間、時が止まった。
周りから、一瞬で音が消えた。
手にしていた赤いネクタイから、色が消えた。
本当に、時が止まってしまえばいいのにと思った。
「お待たせいたしましたっ! こちらがブルーベースのもので、こちらは……」
「あ、いいです。また来ます」
店員さんが言い終わる前に、出口に向けて歩き出す。
「あ、待って……」
声が聞こえたような気がした。でも、振り返りたくはなかった。
あの子は誰? 私はなに? あの人、あんな甘えた声を出す人だったっけ? 待ってって言いながら、絡めた腕を振り払おうともしなかった。私とは、恥ずかしいからって手をつなぐこともほとんどしてくれなかったじゃない。今日は、残業続きで疲れてるから寝てるって言ってたよね。1ヶ月ぶりに休みが合ったから、朝から会えると思っていたのに。昨日、明日何時かってLINEで聞いたら、疲れてるから夕方、って。
え? もしかして、あれは知らない人だったんだろうか? 私の知っているあの人とは別人?
別人であってほしかった。
夢なら冷めてほしかった。
さっき見た光景を振り払いたくて、早足で歩く。人混みの中を歩きながら、たくさんの人とぶつかって、それでも歩きを止めなかった。あの場から遠くに行けば、あの光景は薄くなって見えなくなるんじゃないか。嘘になってくれるんじゃないか。
最初は人とぶつかってばかりいたけれど、だんだん、人が避けてくれるようになった。
ナナちゃん人形を見たあたりまでは覚えてたけど、なにかに追われるように、街をどんどん歩いていく……。
「なんでこんなに落ちてるのっ!」
誰かが落としてぶちまけてしまったであろう、ポップコーンを、ほうきとちりとりで掃除をする。
大学生の頃、Jリーグの試合が行われるスタジアムでバイトをしていた。試合前の設営から、チケットのもぎり、指定席の案内。そして試合後の掃除まで。
「もう、ポップコーンを販売禁止にすればいいのに。毎回、誰かがぶちまけてるし。掃除する人の身にもなってよねー」
ブツブツ言いながら、仕事だからしょうがないと掃きつづける。
「ポップコーン、もう絶対食べない。嫌いになる。あーもう嫌だ」
「佐藤さん、ひとりごと、大きい」
笑いをこらえながら、話しかけられる。
「あっ」
ひとりごとを聞かれてたんだと、急に恥ずかしくなる。
「まあ確かに、嫌いになりそうだよね、ポップコーン」
そうやって話しかけてくれたのが、彼だった。
スタジアム全体の大勢のバイトの中で、しかも月に数回あるかないかのバイトで、友だちはなかなかできなかった。それでも、仕事の合間にサッカー観戦ができること、関係者しかいない通路で選手に触れられそうな距離ですれ違うことができることが嬉しくて、バイトは続けていた。
黙々と手を動かしていれば、過ぎていく仕事だったから。
でも、彼に話しかけられたことがきっかけで、楽しくなった。
今までが1色で塗られた世界だったのであれば、いろいろな色が混ざりあってきれいな色になっていったようだった。
誰にでも話しかける社交的な彼の周りには、いつも誰かがいた。友達も多かった。その近くにいた私も、少しずつ友だちが増えていった。
バイト仲間と、バイト以外でも会うことが増えた。
彼とは、それ以上に会うことが増えた。
付き合うようになったのは、自然の流れのようだったと、思う。
大学を卒業してからも、付き合いは続いていた。
アラサーと呼ばれる年齢になって、結婚するのも、自然の流れのようにいくんだと、思っていた。
土日休みの、普通の会社員の彼。
会社員ではあるけれど、休みは不定休の私。
すれ違いは仕方なかった。
普通のカップルも、こんなものだと思っていた。
仕事帰りに会って、ご飯を食べたり飲みに行ったり、時にはホテルに行く。
次の日もどちらかが仕事だからと、泊まることはなく、終電までには帰る。
毎月、シフトが出て、土日のどちらかに休みがあれば、伝えていた。
今日の休みだって、10日くらい前に伝えていた。
だから、朝から会えると思って、遠出ができそうなところを考えていたのに。
もう、歩けない。
どこまで歩いたかもわからない。
どこに来たのかもわからない。
歩き疲れて、吸い込まれるかのように、どこかの駅のホームにたどり着く。
ベンチに座る。
もう、何時間くらい、ここにいる?
橙色に染まっていたホームも、元の灰色に戻った。
ホームに明かりがつく。
プシュー
ドアが閉まり、電車が出ていく音がする。
帰らないといけない。
でも、家に帰ったら、今日の出来事がほんとうのことになってしまうような気がする。
まだ受け止められない。
ほんとうにあったことだなんて、どうしたら信じることができるのだろう?
「あれ? 佐藤? 家、近くだっけ?」
頭の上で声が聞こえる。
声のする方を見る。
「あ」
なぜか、会社の先輩の、クロさんがいた。
「あ、じゃねーよ。なんでここに……」
笑っていた顔が、ふと真顔になる。
「……メシ、食いに行くか?」
「食べたくないかも」
「俺が食べたいんだ。業務命令だ。いいんだ、付き合え」
業務命令って、仕事じゃないし。
クロさんのわがままに、付き合っているような気分じゃない。
「いいです。もう、帰るところなので」
立ち上がろうとすると、ベンチに吸い付いてしまったんじゃないかと思うくらい、体が重い。
力を振り絞って、体をあげようと足に力を入れる。
「痛っ」
「どうした?」
クロさんは足元を見ている。
「おい、すげー靴ズレしてねーか?」
そういいながら、肩にかけていたバッグをゴソゴソしている。
自分でも見てみると、確かに、すごい靴ズレ。
かわいいって言ってほしかったから、今日は新しいパンプスを履いたんだった。せっかく、新しい靴なのに……。靴ズレの水ぶくれが破れて、酷いことになっている。
「ほら、これ履け」
赤いビーチサンダルが置かれる。
「ちょっとでかいけど、痛いよりいいだろ」
駅前に停めてあった自転車にバッグと私のパンプスを入れて、クロさんは歩き出す。
私の足より、ビーチサンダルはふた回りくらい大きい。
ぺたん、ぺたん、ぺたん。
大きさの合わない、ビーチサンダルの音が響く。
カラカラ、カラカラ。
クロさんが引いているママチャリからも、音がする。
それにしても、ちょっと意外。
会社だと、スーツをビシッと着ていいバッグを持ってるから、ママチャリなんか乗らないと思ってた。自転車を持っていたとしても、イマドキの自転車に乗っているんだと思ってた。
ぺたん、ぺたん、ぺたん。
カラカラ、カラカラ。
自転車、調子が悪いのかな?
業務命令だからって、なんでついてきちゃったんだろう?
ぺたん、ぺたん、ぺたん。
カラカラ、カラカラ。
規則的な音に、少しずつ心が落ち着いてくる。
「なあ、佐藤。鏡は持ってるか?」
ふいにクロさんが言う。
「はい、持ってますけど……」
なにに使うんですか? って聞こうとしたら「ちょっと待っとけ」と、自転車を停めてコンビニに入っていく。
どうしたんだろう?
こんなところで鏡を持っているかを確認して、コンビニに入っていくって。
まあ、あんまり動きたくもないし、考えたくもない。
「ほら、これ」
コンビニから出てきたクロさんに渡される。
……メイク落とし?
渡されたコンビニ袋の中には、メイク落としが入っていた。
「そこそこ酷い顔してるから、落とした方がいいぞ」
そう言うと、また歩き出す。
酷い顔?
人の顔を酷いだなんて、失礼な。
でも……。
とりあえず鏡で、自分の顔を確認する。
「うわっ! やばっ」
そこには、ホラーですか? という顔が映った。
顔全体は脂でテカテカしている。鼻の頭と頬は真っ赤。目元は悲惨だ。パンダどころじゃない。ドロドロにメイクは溶けて、ゾンビよりも酷い顔だ。
そっか。
自分でも気づいてなかったけど、泣いてたんだ。
泣きながら歩いて、汗もかいて、日に焼けて。
それを放置すれば、こうなるよね。
あのまま電車に乗らなくてよかった。
クロさんが、現れてくれてよかった。
ぺたん、ぺたん、ぺたん。
カラカラ、カラカラ。
歩きすぎて、泣きすぎて、もう私の中は空っぽだ。
なんにも考えたくない。なんにもしたくない。
現実には、しばらく戻りたくない。
でも、あの瞬間、色も音も消えてしまったけど、今は見えるし聞こえる。
そういえば、ホームで夕日がキレイだって感じたな。
とりあえず、洗い流してしまおう。
洗いたい、全部洗ってしまいたい。
「クロさん」
「なんだ?」
「家、近いですか?」
「おお」
「行っても、いいですか?」
「俺を襲う気か?」
「襲いませんよっ! ……顔、洗わせてください」
「おお、いいぞー。どうせ、家の下にある焼き鳥屋に行くつもりだったし」
顔を洗って、焼き鳥を食べて……
事件のことは、また後で考えよう。
「業務命令、ありがとうございます」
すっかり暗くなった空には、満月が光っていた。
■松下広美(チーム天狼院)
天狼院書店「名古屋天狼院」店長。
1979年生まれ。名古屋市出身。
2016年12月に「天狼院ライティング・ゼミ」に出会い、その後、ライティング・ゼミの上級者クラスである「プロフェッショナル・ゼミ(現 ライターズ倶楽部)」に進む。ライターズ倶楽部に3年ほど在籍して、書き続けているうちに、気がついたら天狼院書店に合流をしていた(2020年5月より)。
ライティングだけではなく、フォト部部員としても活動中。相棒はSONYα7Ⅱ。
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