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息を止めている


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記事:武田依子(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
※これはフィクションです
 
ふとした瞬間に、無意識に息を止めている。
それがクセになっていると気付いたのは最近のことだ。
洗濯物を干しているとき、お皿を洗っているとき、玄関を出て出かけるとき。それは日常のあらゆる場面で起こっていた。
いつからそれが始まったのかすら分からないくらい、あまりにも無意識にしていた事だったから、これまで気づけなかったのだ。
そしてそういう時は、正体のわからない何かに追われるような気がしていた。
目の前にあるのは、どこにでもありそうな平凡な日常の風景だ。
特に変わりばえのしないいつもと同じ時間を過ごしているのに、ここにいてはいけないようなどこかへと行かなければダメなような、そんな思いに苛まれてソワソワと落ち着かずにいる。息を止めている時はいつもそうだ。
 
なにが? という言葉が浮かぶ。
なにがそうさせているのか、なにが原因なのか……
この状態が一体なんなのか皆目見当がつかなくて、なにがという言葉が浮かび宙を漂う。
 
「えりこ、どこにいるの?」
母の声が聞こえた。
「あ、はーい!」我に返って返事をする。
私は2階のベランダで、洗濯物を取り込んでいる最中だった。慌てて洗濯物を抱えて階段を降りていく。母のいる台所に行くと、夕食の支度が始まっていた。
「お皿を並べてちょうだい」
母に言われて二人分の皿を並べる。
父が亡くなってからもう15年。独身で一人っ子の私は今年で48歳、76歳になる母と二人暮らしだ。
 
亡くなった父は仕事で忙しく、あまり家庭を顧みない人だった。そのせいで、幼い頃から家庭での記憶はほとんど母と2人のものしかない。幼い頃、大好きだった母は私の世界の全てだったし、母がいないと生きていけない気すらしていた。その頃からずっと、私は母にべったりと頼ってきた。母と2人だけの世界は安心できる温かい場所であり続けた。
 
専業主婦だった母は外で働いた経験がなく、女が働くことに批判的だった。
知り合いや近所のお母さんたちが子供の手が離れたと働き始めるのを聞きつけると、夕食の時にそれを話題にして否定するのが決まりのようになっていた。この日の夕食時の話題も、その話だった。
「山崎さんの奥さん、子供が高校生になったからって働き始めたんだって。みっともない!」
「向かいの林さん、自宅で塾を開くんですって。恥ずかしくないのかしら。きっと自営の旦那さんの稼ぎが良くないのよ」
幼い頃は、なにが「みっともない」ことなのか、どこが「恥ずかしい」ところなのか、よく分からなかった。
けれど、母の言う「女は家にいるもの」という価値観を、「そんなものか」と成長とともに素直に受け入れていくようになった。
 
女が勉強するのは生意気と思われて嫁の貰い手がなくなる、と母から反対され大学には行かなかった。学校を出てから一度就職できたのは、結婚までの期間限定との条件付きで許可を得る事ができたからだ。私は働き始めるとすぐに、結婚相手を探し始めた。母から、女の幸せは結婚して家庭に入る事だと固く言い含められてきたから、そのまま働き続けるなんて考えられなかった。
 
ほのかに好意を持つ人ができることもあった。しかし母は、結婚相手の「収入」や「学歴」や「勤め先」にこだわっていて、きっと気に入らないだろうと思うと勇気が持てず、結局、先に進む事は出来なかった。そのうちに母はお見合いを勧めてきた。
お見合いで出会う相手なら最初から相手の条件がわかっているし安心かも、と希望を見出した私は、週末をそれに費やした。
「男性は世間知らずの箱入り娘が好きだから、何にも分からないように振る舞いなさい」という母の言葉に従ってお見合いの時は、難しい話になったら「分かりません」と答えたし、相手がマンションの5階に住んでいると聞けば「私は2階建てにしか住んだ事がないので3階以上は怖くて住めません」と言った。お見合いは断られる事が続いた。断られる度に紹介してくれた人から言動を注意されたが、その注意は母の価値観に合わなかった。段々と母は怒りを溜め、ある時それまでお見合いの話を持ってきてくれていた知人のおばさんと大喧嘩をして、お見合い話はほとんど無くなってしまった。
 
父のガンが発覚したのは、それからしばらく経ってからだ。
「どうせ結婚したら辞めるんだし、そばにいて看病を手伝って欲しい」と母に言われ、仕事を辞めた。
発覚してから程なく、父は呆気なく亡くなってしまった。ほとんど一緒にいる記憶のない私は、父が亡くなってもあまり実感がなかった。そして、家事手伝いをしながら幾つかの結婚相談所に登録して、相変わらず結婚相手を探し続けた。
 
けれど結局、結婚相手を見つける事は出来なかった。最近ではすっかり年老いて、出来ないことの多くなってきた母が「結婚させないでよかった。こうして世話をしてもらえるし」と言う。
私は、幼い頃から母に言い聞かされて描いてきた「幸せ」というものを、自分が手にする事が出来なかった事に深い失望を抱いていた。でも、この先のことや色々なことを考えようとしても億劫で、頭の芯がぼんやりする。
時々、母が電話で誰かと話しているときに「うちの娘は親孝行で」と自慢しているのが聞こえる。私の人生は、親孝行な娘、それだけなのだ。
 
塾を始めた林さんの話を聞いてからしばらくして、近所の本屋で偶然、林さんと会った。
児童書のコーナーの前で本を探していた。
「どうも、こんにちは」こちらに気づいた林さんが声をかけてきた。「子供の声がうるさくない? すみません」と、頭を下げる。「いいえ、そんな、大丈夫です……」と答えると、林さんは話を続けた。
「昔から子供の教育に携わる事が夢だったの。こういう形で実現できて本当に嬉しくてやりがいも感じているのよ」
それを聞いてびっくりした。旦那さんの仕事の経営が苦しくて、家計を補うために塾をしているわけじゃないのか……
「教員免許を持っていなかったけどあきらめないで夢を実現したの。子供たちには、自分の夢やテーマを持つことや、やりたいことは実現できるということを伝えたいのよ」
林さんの声はイキイキとして、その目は輝いている。
彼女は話し終えると、沢山の児童書を抱えて「それじゃ、失礼します」とレジに向かって行った。
 
帰り道、私の足取りは重かった。
気づくと、やっぱり息を止めている。息を止めている時に感じていた息苦しさが、意識するごとにだんだんと広がる。そのうちに身体中を強張らせていく。正体の分からない何かが、いよいよ目の前に迫っているのを察知して緊張しているかのように。
しかし目の前には危険なものはなにもない。実際にあるのは普段と変わらない街並みの風景だ。
 
いつものように、なにが、という言葉が浮かぶ。
何かをどうにかしないと、手遅れになるような気がする。
でも、考えようとするとなんだかやっぱり億劫で、頭がぼんやりする。
私は、息苦しさを抱えながら、母の待つ家に帰って行った。
 
夕食時の話題は、相変わらず働きに出ているご近所の話だ。
「山崎さん、最近帰ってくるの遅いわねぇ、子供が可哀想に」
話はもう耳に入って来ない。林さんの目の輝きが、私の心を掴んで離さなかった。
そうだ、明日、林さんを訪ねていこう。なぜか分からないけど、そう思った。
その時、ほんの少しだけ、楽に息ができた気がした。
 
 
 
 
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