落合博満は動かないことで相手に脅威を与えていた
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記事:篁五郎(ライティング・ゼミ超通信コース)
日本のプロ野球史上で監督として一番勝利を重ねたのは故・鶴岡一人氏の1773勝である。リーグ優勝11回、日本一2回に輝いたのは優れた選手を育てて使いこなしたからに違いない。
現在も存命の人物であれば巨人監督の原辰徳がダントツに勝利をしている。監督を通算14年も務め、今年で15年目に入った。2020年に川上哲治氏(故人)が持っていた巨人軍歴代監督勝利数1067勝を抜き、単独トップとなった。プロ野球通算でも11位に入る快挙である。
その原が監督として一番影響を受けたのが父・貢である。原の父は高校野球の名門である東海大相模の監督として甲子園を沸かせた名監督であった。その後は東海大学野球部監督、東海大学系列校野球部総監督を歴任した指導者であった。
その原が野球記者に「俺の原点は親父」と語るほどである。その原の采配は兎に角よく動く。オーダーを何十通りも組み替え、走者が出ると果敢にヒットエンドランやダブルスチールを仕掛けていくのは当たり前。セオリーを無視した野球を平気でやってくる。
例えば、9回に1点負けている場面でランナーが一塁にいる。通常ならば送りバントで二塁にランナーを進めるところを平気で盗塁を仕掛けてくる。ヤクルトを常勝チームに育てた野村克也氏(故人)が原を酷評し、「バッカじゃなかろかルンバ」などと揶揄するほど自分の勝負勘に頼って指揮を振るう。
原の下でコーチを務めた川相昌弘氏はこう語っていた。
「何もしないで負けるより、動いて勝てなければ仕方がない、と考えるのが原監督です。作戦が成功すれば、浮き足だった相手をさらに攻め込み、畳みかけていく。逆にもし失敗したら、『しっかり状況判断ができなかったのか!』とハッパをかける。僕たちコーチ陣にも『もっと何とかできないか? 何かないのか?』と、次の一手を求めてくるんです」
隙あらば攻める。
それが父・貢の野球でもあった。しかし、反対に動かないことで勝利を重ねた監督がいる。原と同じ時期に中日ドラゴンズで監督をしていた落合博満である。
兎に角落合は動かない。
リードしている場面でもう一押ししたら1点でも2点でも取れそうな場面でも動かない。口癖は「じっとしておけ」である。先述した川相昌弘氏は落合の下でもコーチをしていた経験がある。その当時を振り返って
「落合さんは走塁でアウトになることを一番嫌っていました。野球ではそういうひとつのアウトをきっかけに、試合の流れがガラリと変わることがあるからです。だから、リードしている試合の後半には『流れが変わるから走るな』と、よく指示していました」
当時の中日ドラゴンズには荒木雅博と井端弘和という俊足のランナーがいるが、時には彼らに「走るな」というサインを出すほど走塁でのアウトを嫌っていた。
川相氏は続けてこう語った。
「追加点が取れなくても、無得点でチェンジになってもいいから、『絶対に動くな、最後までじっとしておけ』と落合さんは強調していました。そうして攻撃で点を取らないまま、少ないリードを守り切り、最後には勝った、という試合が多かったですね」
しかし、世間一般の落合監督のイメージは奇襲を仕掛けてくるような何をしてくるかわからない采配をするというものであった。
それは、落合が監督に就任した最初のシーズンの開幕戦にヒントがある。この年の開幕投手は川崎憲次郎を指名し、世間をあっと驚かせた。
何しろ川崎はその前の年も含めて3年間肩を痛めて一度もマウンドに上がっていなかった。もはや復帰は不可能だと思われた投手を落合は、自身の監督として初めての公式戦で投げさせたのだ。
通常、プロ野球の開幕戦は143試合の1試合ではない。
大事な一戦と位置づけられており、エースと呼ばれる投手を投げさせるのが当たり前だった。だからこそ落合が川崎を指名したのに驚きを見せたのだ。
それだけなら試合を重ねていったらイメージは消えていくだろう。
しかし、落合は再びプロ野球界の常識を覆す采配をしていた。
それは2007年の日本シリーズ第5戦。先発投手の山井が対戦相手の北海道日本ハムファイターズを相手に一人のランナーを出さない完璧な投球をしていた。
8回も3人で押さえて中日は1点のリード。
日本プロ野球史上初の日本シリーズ完全試合に期待が高まったその瞬間、落合は動いた。
ピッチャーを山井に代えてリリーフエースの岩瀬仁紀を送ったのである。
その岩瀬は3人で抑えて日本シリーズ史上初の完全試合リレーを達成した。その時も世間は驚き、大きな反響を呼んび、プロ野球OBはもちろんファンも含めて賛否両論が巻き起こした。
この二つの采配があるからこそ落合は奇襲を仕掛けてくる監督というイメージが確立したのだ。
しかし、実際の落合は奇策はまったくといってほど使わない。ピッチャーは二塁にランナーがいるのがイヤというのを知っていたから一塁にランナーがいれば送りバントで確実に二塁に進める采配である。
しかし、相手はそう思ってくれない。
何か仕掛けてくるのかも? そう疑心暗鬼になりながら落合と戦っていたのである。落合自身もそう見られていたのがわかっており、上手に利用していたのだ。
川相氏の証言がある。
「例えば、アライバ(荒木雅博と井端弘和のこと)が何かやりそうだと見せかけ、相手バッテリーを揺さぶるでしょう。そういうときは、実は落合さんは何のサインも出してなくて、2人だけでいろいろ考えてやってるんですよ。でも、相手ベンチは落合さんの指示だと勝手に思い込んじゃう。何か企んでるぞ、何をやってくるかわからないぞ、とね。落合さんは、そういう不気味で怪しい雰囲気を醸し出すのが抜群に上手かった」
その一つがピンチになったら自らマウンドに行くことであった。特に「ああしろ」「こうしろ」と声をかけることはしない。
「取りあえず深呼吸しようや」
そういって投手をリラックスさせることが圧倒的に多かったという。それならば監督が行かなくても投手コーチが行けば済む話だ。ところが落合は自分でマウンドに向かっていったのだ。
それは一つはひと呼吸置くことで試合の流れを変えることができること。
もう一つは、相手が勝手に疑心暗鬼になってくれるからだ。
「何を話したのか?」「どんな策を授けたのか?」と相手が考えれば考えるほど落合にとって都合がいい。相手がこっちを意識すればするほどガチガチに緊張をしてしまい、普段通りのプレイができなくなるからだ。
しかも落合の表情はまったく変わらない。
投手が打たれようが、打者が三振しようがいつでも同じだ。これが相手にとって不気味に映る。何をしても見透かされていて奇襲も通用しないのでは? と考えてしまうのだ。これを利用して勝ちに結びつけていたのだ。
落合がベンチで表情を変えないのは選手のためだ。選手は監督の表情というのをよく見ているという。
特に中日ドラゴンズは星野仙一という熱血漢が長年監督を務め、ベンチで喜怒哀楽を出し、ミスをした選手を殴るほど熱い男であった。そんな監督の下で野球をしていた選手が相手ではなくベンチを見て野球をしているのが落合は「おかしい」と思ったという。
最初は喜怒哀楽をベンチで出していた。そして「お前さん達が向かうのは相手の選手だよ。こっち(ベンチ)じゃない」と言い聞かせていた。それでも選手はベンチを気にして野球をやっていたのだ。
それに気づいた落合はベンチから自らの表情を消した。
「俺が何をしても表情が変わらないなら選手は試合に集中するだろ。ベンチ気にして野球なんかできないよ」
そういって表情を殺し続けたのだ。その意図を相手が気づかずに不気味に思ってくるのを利用して采配を振るっていたのだ。
そうやって考えさせていたのは相手チームだけではない。
自分の選手達にも考えさせていたのだ。落合はあまり話さない。例えば、チームプレーについて語るときは
「みんな、傷口をなめあうのがチームワークだと思ってる。それは違う。例えば俺はサードだろう。ゴロをさばいて、とりやすい球を一塁に投げる。俺の仕事はそこまでだ。あとは取ろうが落とそうがこっちの知ったこっちゃない」
額面通りに受け取ればとんでもないくらい冷たい人間だと思われる。しかし、それは落合の本音ではない。本当に言いたかったのは
「プロなんだから個人がもっと練習して技術を磨けばミスをする確率は減る。ミスをかばい合って慰め合っているヒマがあるなら練習すればいいということであった。
現役時代に自分がエラーしたときもピッチャーに謝罪したことはなかったし、「打って取り返す」と言い訳もしなかった。ノックを受けて守備が上手くなることを第一に考えた。
だからといって落合がチームプレーを拒否していたわけではない。
エラーをした後の打席では誰よりも燃えていた。打席に向かうときは次の打者に「頼む」と声をかけていた。それは自分が初球から打ちにいってしまい打ち取られるかもしれないという不安からであった。
主力打者が2球で2アウトになればチームのムードは悪くなる。それだけはどうしても避けたいという落合の願いから出た「頼む」であった。だからこそ自分の立場でチームにできることを真っ先に考えて動いていた。監督がチームのためにできることは「責任を取ること」である。
だから開幕戦で3年間登板していない投手を起用したときも、日本シリーズで完全試合目前に交代したときもすべて責任は自分で背負った。自分が批判の矢面に立ち、選手を庇い続けた。
その代わりに選手にも「長く野球ができる選手になれ」と言い、厳しい練習を課して技術を高めるように指導をした。コーチにも「よそから呼ばれるようなコーチになれ」と言って、マスコミを向いているような者は全員クビを切った。
それが原因でマスコミから叩かれても平然として監督をやり続けたのである。
最後は球団のフロント揉めて解任されたが、落合は現場を預かる責任者として選手を庇い、一番の目標である「勝利」を重ねてきた。
そのことを一番知っていたのは選手であり、コーチであり、プロ野球ファンであった。
落合の解任が決まったときに選手は「一日でも長く監督と一緒に野球をやろう」と奮起をし、今まで以上の全力プレイで首位を追いかけた。長くやるには優勝をするしかない。それをわかっていたからだ。コーチも選手が「練習したい」といえばイヤ顔を見せることなく付き合い続けた。
そしてファンは快進撃を続ける中日ドラゴンズを応援するために球場へと駆けつけた。
その甲斐あってか落合博満監督最後の年はセリーグ優勝。中日ドラゴンズ史上初の連覇を達成した。
日本シリーズも福岡ソフトバンクホークス相手に敗れるも3勝4敗と最後まで相手を苦しめた。
落合博満最後の日、ヤフードーム(現・PayPayドーム)に集まったドラゴンズファンに試合終了後に選手とお辞儀にきた落合監督へ大きな声援が送られた。
「落合監督お疲れ様でした」「監督ありがとう」
この声はレフトスタンドに陣取る中日ファンだけではない。ライトスタンド、内野席にいるホークスファンからも拍手と声援が送られたのだ。
ドームに「落合」コールが鳴り響く。そして対戦相手であった秋山幸二監督も落合をねぎらった。選手は涙と嗚咽が止まらない。
そんな中、落合の表情は澄み切っていた。
「負けたのは残念だけど悔いはない。あいつらがここまで連れてきてくれた。大したもんだと思う。オレらはいなくなるけど、今までやってきたことを継続してくれればいい。自分を大事にして野球人生を送ってくれれば、それでいい」
敗戦濃厚だったシーズンをここまで勝ち上がってきた選手を幸せそうに見守った。ロッカールームでは
「8年間、ありがとうな。今、この場に立っているのはみんなのおかげだ。9月で終わっていたかもしれないんだから。この場に立っていることに感謝している。ただ、ここからも下手な野球はやるなよな。でなきゃ、今までやってきた意味がないだろ」
誤解されるくらいなら無言を選ぶ。己を偽るくらいなら孤独を選ぶ。その姿勢がいつも議論を巻き起こした。それでも、孤高の歩みは最後までぶれなかった。
落合の去り際の美学はこうだ。
「猫って、だれにも見られない場所に行って最期を迎えるだろ。俺も、そういうのがいいよな」
現役を退く時も引退試合は断った。涙の別れなんて柄じゃない。去り際はひっそりとしたい。しかし、それは叶えられなかった。誰よりもチームのため、選手のために体を張ってきた男は皆に惜しまれながらチームを去らないといけないのが宿命である。
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