昭和の名女性バーテンダーの話
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:喜多村敬子(ライティング・ゼミ10月コース)
岐阜の繁華街、柳ケ瀬にかつて「中西」というバーがあった。
ママは、日本で五指に入る女性バーテンダーとして知られていた。
父が常連で、私は小さい頃から「中西」に時おり行っていた。
ママのことを、私は「ビールのおばちゃん」と呼んでいた。
ビールではなく、カクテルやウィスキーのお店だったのだが、
子供の私には、お酒=ビールだった。
名前が福島初栄だと知ったのは、すっかり大人になってからだった。
「中西」は地元で良く知られた特別なバーだった。
細長い店内にカウンター7席のみ、
静かにジャズが流れるオーセンティック・バー。
おばちゃんとバーテンダー1人の2人が基本体制だった。
ビルの一階入ってすぐの重い木のドアを開けると、
透明で褐色のウィスキーのような静かな灯り中に、
曲線の美しい木のカウンター。
その向こうにいつも和服姿のふくよかな、京都弁のおばちゃんがいた。
昭和38年(1963年)に柳ケ瀬で「中西」を始め、
平成11年(1998年)に亡くなるまで現役だった。
存命だったら、先日99歳で亡くなった瀬戸内寂聴よりちょっと若い。
柳ケ瀬は、昭和41年の美川憲一の120万枚のヒット曲
「柳ケ瀬ブルース」で全国的に知られていた。
当時、夜の柳ケ瀬には、ギターや三味線を持った「流し」が飲み屋を回っていた。
そんな「流し」の1人が作ったのが、「柳ケ瀬ブルース」だった。
おばちゃんは京都の旅館に生まれ、
岐阜で「中西」を始めた時は30代後半だった。
岐阜に来た経緯は知らない。結婚したことがあったのかも知らない。
父に聞こうにも、高齢でもう昔のことを思い出せない。
食とお酒の雑誌「バッカス」の取材で、
「福島」さんなのになぜ「中西」かと記者が聞いたら、
「そういったことは、ムニャムニャでございます、ホホホホホ」
とさらりとかわされてしまったそうだ。
家族で自宅を訪ねたことがあった。
1人暮らしのきちんと片付いた住まいだった。
おばちゃんには失礼だが、
「中西」はいわゆる美人ママでもっている店ではなかった。
小津監督「東京物語」の母親役の東山千栄子に似ているという人もいた。
そのおばちゃんの人柄、謙虚さと勤勉さとお酒の美味しさで知られた店だった。
「バーテンダーはいつでも勉強が大切。
外側が古くても、中身を柔らかくして毎日精進していかなくてはいけない」
とおばちゃんはコミュニティ誌のインタビューに答えていた。
ヤフー知恵袋で「中西」の思い出話を見つけた。
若い時にカクテルに凝って、
知識を女の子に語るのが楽しい時期があったという男性の話だった。
「中西」では多くの事を学んだという。
かいつまんでみると、こんな話だった。
ある夜、既に酔っていたが、
いつものように女の子を連れて「中西」に行き、カクテルについて語った。
頼んだジントニックがいつもより薄めに感じた。
帰り際にママに「ジン変えましたか?」と聞いた。
するとニッコリ笑って、
耳元で「だいぶお酔いのようでしたので……」とだけ言われた。
そこでジンが全く入っていなかったことに気づいた。
おばちゃんが名女性バーテンダーとなぜ言われたのか合点が行った。
お酒に精通しているだけでは「五指に入る……」とは言われないだろう。
ホテルリッツのバーでは、悪酔いしている客に、
「お客様、ここはリッツでございます」
とスタッフが耳元でささやくという話を聞いたことがある。
さすが、世界の一流ホテルだと思ったが、おばちゃんも負けていない。
お客に恥をかかすことのない、さりげない気配りが見事。
多くの人がここでお酒の楽しみ方、マナーやもてなしを学んだという。
たった7席の小さな空間が、地元の名士たちを引きつけ、
常連になる事がちょっとした自慢だった。
同業者からも一目置かれていた。親の代から通う人たちもいた。
岐阜を訪れる昭和天皇の来店を打診されたこともあった。
しかし、諸事情でおばちゃんはお断りした。
私が中西に行くのは、いつも家族そろってだった。
外食の後、「中西」が混む前にちょっと寄って行こうと父が皆を連れて行く。
私と妹がジュースを飲んでいる間、
両親は軽く飲んで、おばちゃんと話をして、サッと引き上げる。
子供心に、それだけの付き合いで、なぜ長く通い続けるのだろう、
何が楽しいのかと思っていた。
子供の知らない、大人の時間があるのだと分かるのは、
ずっと後の事だった。
大人になると、夜の柳ケ瀬で困ったことがあったら、
「中西」に行きなさいと母に言われた。
残念ながら、私は「中西」でお酒や人生について聞く機会がないまま、
実家を離れ、関東に嫁いでしまった。
妹は、社会人になってから、仕事帰りに寄っていた。
たくさんの事をおばちゃんから学んだに違いない。
おばちゃんが年を重ねて、夜遅くまでの店がきつくなってくると、
古くからの常連たちが気遣って、若い客に遅くまで居座っていないように、
言い聞かせていたという。
オリジナルカクテル「うすずみ」を作り、お客に敬愛されて、
おばちゃんは最期まで現役だった。
ある日、「中西」に出てこなかった。
連絡を受けて、「中西」から独立したバーテンダーMさんが自宅を訪ねた。
おばちゃんは布団の中で眠るように亡くなっていた。
医師に来てもらい、親しい人たちに連絡して、
おばちゃんの家で皆でそのまま飲み会になった。
亡くなっているおばちゃんの脇でわやわやと飲んだそうだ。
お寺での葬儀はMさんが取り仕切った。
参列した妹によると、転勤していった常連さんが、
出張先からお酒を持って駆け付けたり、おばちゃんらしい告別式だった。
お寺でも夜更けまで常連たちが飲んだという。
家族の縁には薄かったというおばちゃんには、
いい御供養だったのではないだろうか。
さんざんバーの話をしておいて、私はお酒が飲めない。
子供の頃、「中西」ではいつもトマトジュースかレモネードが出て来た。
それがそのまま続いて、二十歳過ぎても「中西」でお酒を飲むことがなかった。
名バーテンダーの誉れの高かったおばちゃんの事だから、
頼めば、飲めない私にも合うカクテルを出してくれたに違いない。
自分は飲めないからと、相談もしなかったことが悔やまれる。
人生、まずは聞いてみることが大切。
「中西」はおばちゃんの代で終わった。
私が一度もお酒を飲まなかった昭和のバー、
そこには京言葉ではんなりと話す名女性バーテンダーがいた。
***
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