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失恋時に欲したのは、中也でした -喪失の哀しみに寄り添うセラピスト-


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:平井理心(ライティング・ゼミ4月コース)
 
 
恋した分だけ失恋があり、碧い哀しみがありました。
誰もがいつでも恋するように、失恋による心の痛手も老若男女が感じるものです。
 
私は、臨床心理士(セラピスト)として心療内科クリニックで15年以上、心理面接を担当しております。今まで多くの方の苦しみや哀しみをうかがってまいりました。そこには、失恋体験から、うつ状態になった方もいらっしゃいました。そのような方々をご紹介したいのですが、私たち専門職に課せられた守秘義務を越えないかたちでお伝えいたします。
 
某企業管理職の50歳代男性。食欲不振、不眠、仕事でのミスが続きました。妻のすすめで心療内科に通い始めます。医師の診察で、睡眠薬等が処方されましたが改善されませんでした。男性は、心理士の存在を知り、心理面接を希望されました。数回の心理面接を経て、男性は「実は……」と、切り出しました。
 
―――部下の女性と恋仲になり、逢瀬を重ねた。彼女との関係は変わらず続いていたが、ある日突然、彼女と連絡が取れなくなった。仕事にも来ない。彼女のアパートを訪ねたが彼女はいなかった。そして、彼女からの退職願が届いた。風のたよりに彼女が結婚するときいた。そこから自分を失った。1日1日をどう過ごしているのか感覚がなかった。―――
 
そのような夫の不調に気づいた妻はとても心配しておりました。その妻は、夫の不調が失恋によるものだとは、もちろんご存じではありませんでした。
その後、男性は数回の心理面接を経て、仕事復帰されました。最後の面接で男性は「おかげさまで、妻とうまくやっています」とおっしゃられました。
 
このようなお話をうかがいながら、いろいろ思うことはあります。かく言う私も、数多の失恋を経験しました。離婚も経験しました。その後も恋することを続けました。シングルマザーの恋は忍ぶ恋です。母親の役割を降ろせる刹那に恋を味わい、失った時はひとりで噛みしめます。そのようなひとりぼっちの私に寄り添ってくれたのは、中原中也の詩でした。
 
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる        (『汚れつちまつた悲しみに・・・・・・』より)
 
教科書か国語便覧かに載っていた中原中也の詩の冒頭です。思わず口ずさむと、傷ついた心につぅっと染み入りました。
 
人の哀しみに寄り添う場合は、相手と同じ強さでなければなりません。臨床心理学者、故・河合隼雄先生は「スッと相手と同じ力になるというのは、やっぱり専門的に訓練されないと無理ですね。我々のような仕事(セラピスト)は、どんな人が来られても、その人と同じ強さでこっちも座ってなきゃいかんわけですよ」とおっしゃっています。中也の詩はすぅっと読み手の哀しみの程度に寄ってくれます。この点では、中也の詩は名セラピストなのかもしれません。
 
そして、中也は、「喪失の詩人」とも言われます。年上の恋人を友人に取られました。溺愛した息子は夭折しました。深い深い哀しみを知る中也ですが、中也の詩はただ哀しみに浸るのではなく、その中に生きる力を感じさせます。
 
私は希望を唇に嚙みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!            (『少年時』より)
 
NHKテレビ番組『100分de名著』において中原中也詩集がとりあげられていたとき、指南役の作家・太田治子さんは、「太宰はいつも死のうと思っていた。中也さんは生きようとしていた。だから私は中也さんのほうがうんと好きですね」と、おっしゃっていました。なるほど、だから中也の詩にはエネルギーも感じられるのですね。ちなみに、太田治子さんは太宰治の娘さんです。
 
中也の詩のように、哀しみに寄り添い、そしてエネルギーもさりげなく与えてくれる、この塩梅は難しいものです。やはり、中也の詩は腕利きのセラピストといえるのではないでしょうか。
 
一方で、生前の中也自身は、知人宅に連日押しかけたり、絡み酒で太宰治もタジタジにさせたりと、人との距離感が上手くつかめない質(たち)でした。そのため、まわりの人たちとの軋轢は多く、お友達も少なかったみたいです。
 
でも、中也が書いた詩は、今や時代を超え多くの人に寄り添ってくれています。ただ、中也の詩も万能ではありません。哀しみが溢れすぎて、読んでいるのが辛くなるときもあります。ですので、自分が気に入った詩を、必要なときに欲するようにしています。まさに「ゆあ-ん、ゆよ-ん ゆあゆよ-ん」みたいな距離感がちょうどいいのかもしれません。実際の心理面接もクライエントが欲したときに、欲したセラピストをたずねて、はじまるものですから。
 
そんな中也の詩で絶妙にいい塩梅だなぁと、感じるのが次の詩です。
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打ち際に落ちてゐた。
 
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向かつてそれは抛れず
波に向かつてそれは抛れず
僕はそれを、袂にいれた。              (『月夜の浜辺』より)
 
 
失うものは恋だけではありません。プライド、仕事、家庭、大切な人……。
そして、喪失の哀しみは、いつ何時、あなたに覆いかぶさるかわかりません。
そういうときに、寄り添ってくれる中也みたいな存在が必要です。
そのような存在が、あなたにはいますか?
 
(4月29日、中原中也の誕生日に)
 
 
 
 
参考文献
中原中也『汚れつちまつた悲しみに・・・・・・』角川文庫.2016.
小川洋子・河合隼雄『生きることは、自分の物語をつくること』新潮社.2011.
***
 
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