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母がくれた3回目の人生


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:小川大輔(ライティング・ゼミ4月コース
 
 
「元気にしてる?」
 
「うん、こっちはみんな変わらないよ」
 
連絡はいつもこちらから。電話の向こうから聞こえてくる明るい母の声。地元を離れて仕事をしている僕にとって、その元気な声を聞けるだけで安心するし嬉しい。
母親が離れて暮らす子どもの様子を気遣い、連絡をしてくるという話をよく聞くが、僕の場合は逆である。
こちらから連絡をする理由は2つある。1つは母が元気にしているかという当たり前のもの。もう1つ、それは「言葉にしきれないほどの感謝」を感じているからだ。
 
僕はこれまでの人生で2度死んだ。大げさに聞こえるかもしれないが本気でそう思っている。
 
12年前の2010年8月、父がこの世を去った。肝臓癌だった。
営業を担当していた父は仕事をとってくるため、自分の勤める会社を守るために接待を繰り返し、飲めない酒を大量に飲み、帰宅するのは深夜0時を回ることも少なくなかった。病院嫌いだった父は検査にも行こうとせず、あまりの体調の異変に半ば家族が説得して病院に連れていった結果、診断されたのは末期の肝硬変。肝移植もできない、もうどうにもならない段階だった。
わずか数か月後の暑い夏の日、父は59歳で息を引きとった。後に聞いた話だが、父はもともと子どものころから肝臓が悪かったらしい。それでも「仕事が好きだ」と言い、病床で死の直前まで仕事をし、体調のいい時は会社にまで行っていた。亡骸となった父の顔はわずかに笑みを浮かべていた。それは別れゆく家族への最期の優しさだったのかもしれない。
 
当時大阪で働いていた僕は、父の死をなんとか受け入れ、しばらくは同じように生活していた。
 
あの日までは。
 
忘れもしない。父の死後、1年以上が経過した2011年11月後半のある日。
突然、何の前ぶれもなくゾクッという感覚が僕を襲ってきた。
そこからだ。僕がおかしくなり始めたのは。
日が経つにつれ、その症状は悪化していった。なぜ突然こうなったのかはわからない。でも自分が壊れていくのが自分でもよくわかった。崩壊していく自分に耐えながら必死にもがくが限界がきてしまった。もう無理だ……。
仕事を退職した僕は気が狂うほどに考えた。大好きな大阪。学生の頃に住んでいた京都。田舎者の僕は「都会に住み、働いて生活している」ということが、いつしか自分の中でのステータスとなっていた。都会での生活は眩しかった。
仕事を辞めるほど自分が破壊され、立ち上がる気力もない。でも地元には帰りたくない。どうしたらいいんだ……。
 
悩みに悩み、考えに考えた末、僕は地元に帰ることにした。
引っ越しの日、母と妹が手伝いに来てくれた。引っ越しの準備をしているというのに、帰りたくないという気持ちが後ろ髪をひっぱる。「やっぱり帰りたくない」と小さな子どものように言う僕に母は言った。
「こんな状態でここに置いておけるわけがない」
絶望の中で真っ黒な景色を見ながら、僕は地元へ帰った。僕の人生は一度ここで終わった。
 
その後地元に帰った僕は母の支えをうけながら、体を療養し、次の仕事を見つけるために少しずつ活動していた。相変わらず関西への未練は残ったままだ。何か月そんな生活をしただろうか。体調もある程度回復し運よく次の仕事の内定がでた。場所は……神戸だ。
内定が出たことを母に伝えるとき、反対されると思っていた。また出ていくなんて、と。
ところが返ってきた言葉は「よかったじゃない」という意外なものだった。何の曇りも感じない祝福の言葉に、逆に驚いてしまった。
 
こうして僕はまた都会へ出ることになった。不安もあったが喜びのほうが大きかった。
「京都、大阪、次は神戸か。一人で三都物語だな」なんて考えていた。
 
ところが。
 
ちゃんと治療ができていなかったのか、それとも他の理由もあったのか、また体調が崩れはじめた。「ここでまた同じことになったら、もう行くところがない」必死だった。
立てなくなるほど耐えた。
 
ちょうど1年経った頃、僕はまた地元にいた。同じことの繰り返し。
「またか、またかよ……」黒より黒い黒。感情は喜怒哀楽の哀しかない。絶望をとおり越え、死んだら楽かなあという気持ち。
「なんでこうなるんだ? 誰でもいい、なんでもいい、お願いします。助けてください」
再起をかけた2回目の人生はあっけなく終わった。大きな大きな苦痛だけ残して。
 
何もかもうまくいかず、実家で荒れに荒れる自分。ドアや壁には穴をあけ、ガラスを割り、物や自分の体さえ叩きつける。どうして、どうして、どうして?
 
そんな状態の僕を見放さず、ずっと手を差し伸べ続けてくれた人がいた。
母である。
近寄るのも怖かったであろう僕に母はいつも通り接し、自分の出来うる限りのことを僕にしてくれた。そして僕の見えないところで家のお仏壇へ行っては手を合わせ、泣きながら父に祈ってくれていた。
 
僕が初めて母の涙を見たのは、僕がまだ小さかった頃、三輪車に乗ってどこかへ行ってしまった時のことだ。うっすらと記憶にあるが近所の池のあたりまで行ったように思う。母は突然いなくなった僕に気づき、なにかあったらどうしようと本気で心配したのだろう。池のそばで僕を見つけ、車の後部座席で小さかった僕を抱えて泣いていた。母が涙を流していたことははっきり記憶にある。ただ、なんで泣いているのかその時はわからなかった。
 
でも今はその涙の尊さがよくわかる。
 
何十年もたった今でも僕のために涙を流してくれている母。
母さん、お仏壇の前で泣きながら手を合わせていてくれていたこと、ずっと知ってたよ。
 
ふと、母が昔言っていたことを思い出す。
「女性は結婚して子どもができると、妻・嫁・母親の3つをやることになる。私は母親を一番やりたかった」と。海のように深い言葉だなと思う。
 
前回よりも遥かに綿密な治療をしながら並行してまた就職先を探す。何十社応募しても決まらない。苦しい。社会との関わりが断絶している期間が長くなると焦燥感が増していく。
そんな時「あんたが自由に飛んで行けるようになって、いつでも帰ってこれるようにここにいます」と母は言う。太陽のようにあたたかい言葉だなと思う。
 
治療も最終段階に入り、会社も1社最終面接までいけた。「ここがだめならもう無理だな」そう感じていた。来る日も来る日も結果を待った。
 
治療を終えて帰ってきたその日、1通の封筒が届いた。「採用」の文字を見たとき、嬉しさもあったが、それ以上に安堵の気持ちが大きかったように思う。そして場所は京都。
 
出来うる治療は全て終わり、僕は実家のお仏壇の前で母と妹に「ありがとうございました」と正座して頭を下げ、こちらへ出てきた。
あれから6年。まだ後遺症は残っているものの、なんとか仕事は継続できている。都会へのこだわりはもうあまりない。これからどうなるかわからないが「流れに身を任せて自分なりに一生懸命やる。あとはなるようになる」そう思うようになった。
 
母がくれた3回目の人生を、今、懸命に生きている。
 
ありがとう、母さん。
 
 
 
 
***
 
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