あいうえお
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:高井雄達(ライティング・ゼミ6月コース)
「ラが違う…」
ショックだった。自分の思っている『ラ』の音が違うのだ。
先日、仕事帰りに最寄駅へ降り立つと、どこからか渋い音色が聞こえてきた。姿が見えなくてもサックスだとわかるその音色は有名アーティストの曲をカバーしている。
改札を抜け、音を頼りにすぐさまストリートミュージシャンを探す。
いた。髭を蓄えた黒縁メガネの男性が改札から少し離れた高架下でサックスを吹いている。
曲は往年のスタンダードナンバーに変わっていた。
それから三十分間、その場を離れられなくなった。
この街は、『ジャズで明るく楽しいまちに』を合言葉にしている影響なのかストリートミュージシャンをよく目にする。
「それにしても今日の人の演奏は素晴らしかった。よし、久しぶりにオレも」
もらったチラシを手にそんなこと考えながら家路を急ぐ。
こうして数年ぶりに音楽熱が再燃した。
久しぶりにヴァイオリンに触れようと、ケースを開けてみた。何年ぶりだろうか。
楽器特有の懐かしい松脂の香りがする。
大丈夫。弦は切れていない。チューニングをすればすぐ弾ける。
弦をはじく。当然チューニングは滅茶苦茶だ。
オーケストラが演奏前に舞台でチューニングするあの『ラ』の音を意識して昔のようにチューニングする。
しかし、なぜか何度やっても合っていない。昔当たり前のようにできていたことができなくなっている。
仕方なくスマートフォンでチューニング用のアプリをダウンロードしてみる。
時代は変わった。今やマイクにむけて音を出せば、どの程度音がずれているのか一目瞭然だ。
アプリの力を借りてようやく音を合わせたが、チューニングができた安心感より、自分の『ラ』がいつの間にかズレていたことへのショックの方が大きかった。
しかし、指は意外と動くもので難易度の高くない曲ならそれなりに弾けた。
『年内に路上デビュー』と目標を設定したが、あの夜、三十分も人の足を留めたサックス奏者のレベルには到底及ばない。練習しなければ。
昔、正しい『ラ』の音がいつでもわかったのは日々の積み重ねがあったから。今やその積み重ねさえもない中で、正しい音がわかるはずもない。
昔の経験は自信に繋がる。しかし時として、その自信は慢心を引き起こす。
十年ほど前、当時勤めていた会社の上司に言われたことを思い出す。
「油断、隙をなくしなさい。そのためには『あいうえお』を排除すべきです」
『あ』が甘えであるならば、その後に続くのは、言い訳、嘘、遠慮、驕りらしい。
長い時間経過してもこうやって記憶に残っている、そんな言葉を数多く与えてくれる上司だった。
今となっては、なぜそんな話をされたのか覚えていないが、言い得て妙だ。
油断や隙は、いつもごく当たり前の日常の中に潜んでいる。そしてそれらの最たる原因は慢心だ。
上司の言葉を借りるなら、驕りということにでもなるのだろうか。
驕りや慢心を取り除くためには…冷静に、そして客観的に、物事を俯瞰して見てみる。
日頃から頭ではわかっていても、どうも難しい。
目標の『年内路上デビュー』に向けて謙虚に練習を重ねよう。
当時の上司から声をかけられてから長い年月が経過した。
仕事も変わり立場も変わった。そして取り巻く環境も変化した。
この長い年月の中で一体どれだけの慢心や油断、隙があっただろう。
今、職場では若手社員の研修を担当している。
毎週、スキル向上のためプレゼンテーションと称し、定期的に発表の機会を設けている。
ルールは単純。プレゼンの内容は問わないが、必ず聞き手に配布する簡単な資料を配布することのみ。
皆、仕事に関する話題だけでなく、工夫を凝らして最近読んだ本の紹介や、趣味に関するプレゼンテーションをしてくれる。自分の好きなことに関して発表する時の表情は誰もがイキイキとしている。
そして一人ひとり発表に個性があり、意外な一面を知ることができる。とても有意義な時間だ。
若手同士の共通の話題も増えているようだ。
ある若手社員が自身のプレゼン前に配布した資料のタイトルを見てドキッとした。
『思い込みをなくすには…』
まさか、そうくるか…
彼のプレゼンテーションの内容は、一言で言えば、『常識を疑え』という内容のものだったが、このタイトルはまさに、今の自分に訴えかけているようだった。
動揺していることを悟られぬようプレゼンテーション終了後のコメントをする。
「とても良いプレゼンでしたよ。是非、思い込みをなくすために、『あいうえお』を排除しましょう。『あ』とは…」
真剣に講評を聞いている若手社員に、十数年前の自分が重なって見えた
***
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