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天才ゴールキーパーは凄腕治療家になった~元Jリーガー・伊藤和磨氏の挫折と再生~


伊藤和磨氏 プロフィール


腰痛改善スタジオ「Maro`s」主宰。パーソナルトレーナー。元Jリーガーで、ヴェルディ川崎、ブラジル・パルメイラスなどに所属。22歳で腰痛のため引退。長年腰痛に悩まされるが、姿勢矯正と日常動作の癖を治すことで回復。現在は自らトレーナーとして施術のかたわら、腰痛予防の啓蒙に奔走している。最適な身体の使い型を広めるために2021年一般社団法人日本姿勢道を設立。『痛みと歪みを治す健康ストレッチ』などセルフケア関連の著書多数。
 
 

ゴッドハンドとの出会い


私(筆者)が腰痛・慢性痛の治療家、伊藤和磨氏に出会ったのは約10年前。
当時私は原因不明の腰痛と下肢痛に悩まされていた。どこの病院や整体に通っても治らなかった痛みが、数回通ってほぼ消失。以来、姿勢や動作指導とメンテナンスでお世話になっている。
治療時の雑談で、伊藤氏が元Jリーガーで、しかもあのヴェルディ川崎でGKとして活躍されていたことを知った。
すでに13冊、腰痛や姿勢矯正関連の本を出版しておられる氏だが、著書のなかでプロサッカー選手としての経歴についてはあまり言及されていない。
今回の取材では、サッカー選手時代の話に注目し、そこから現在の治療家としてのキャリアにどうつながるのか、その点をクローズアップしてみたいと思った。
 
 

『キャプテン翼』に憧れて


――サッカーを始められたのはおいくつの時ですか?
 
7歳から地元の小学校のチームに入っていましたが、小3の夏に、母のすすめで、「読
売クラブ」(現在の東京ヴェルディの前身)というサッカークラブの入団テストを受けました。
読売クラブは当時日本で最高峰のクラブチームだったので、そのテストに合格したことが、プロを目指すきっかけになりました。
身長が高かったのと、漫画『キャプテン翼』のGKの若林君に憧れていたので、GKとして受けて合格しました。
 
――小学生のときから、プロになろうと思っていたのですか?
 
はい。というのも、読売クラブは当時唯一のプロチームで、下部組織から着実に上がっていけば必然的にプロになれる構造になっていたんですね。だから、やるからには、プロを目指そうと思っていました。
しかし、入ってからが大変でした。
まず入団テストは200人以上受けて、1~2人受かるかどうか。受かっても毎年1/3が脱落していく。
残れる基準は、上手か下手かだけで、試合に出られるかどうかが決まるのです。真面目さとか、礼儀礼節、スポーツマンシップなど無意味で、実力がすべてでした。
チームメイトはすべてライバル。
実力がなければ練習の途中でも家に帰される。常に人が入れ替わるので、誰かと深く知り合うこともなく、一緒に遊ぶこともない。
「その瞬間にそこに集まっているのがチームメイト。でも、そもそもチームメイトって何?」という感覚でした。
 
――小学生には過酷な世界ですね。
 
読売ランドのグラウンドで、週4回か5回、ナイターの時間に練習していたので、終わると夜の8時9時、家に帰ると午後11時半くらいになります。
それとは別に、週2-3日、GKコーチのいる別のチームに、GK技術を習う為、片道2時間半かけて通いました。その日は帰宅が午前0時を過ぎるのですが、ひとりで通っていました。
サッカーグラウンドでの生き残りをかけた、戦場のような時間に比べると、学校での生活は平和でのんびりして、どこか遠いできごとのように思えました。
毎週、地方に遠征試合に出かけるため、体育祭や修学旅行などの学校行事には、ほとんど参加したことがないんです。
小学校4年生のとき、両親と一緒に先生に呼び出されて、「もう少し勉強や学級活動に身をいれてほしい」と言われたのですが「申し訳ないけど、僕は先生に言ってもわからない世界で闘っているんです。どうか見守ってください」と言いました。
 
 

12歳でプロに!?


――先生もびっくりされたでしょうね。それだけ努力されて、プロへの道が開けたのですね。
 
はい。全国少年サッカー大会の全国大会で、私の所属する読売クラブが優勝したのが、小学校6年生のときでした。
夢のようでした。「キャプテン翼」の主人公大空翼と同じ世界に自分はいるのだと思いました。
大会はテレビで全国中継もされて、優勝チームのGKとして注目を浴びることになりました。その結果、特待生として読売クラブと契約するオファーをもらい、プロになることを確約された条件を提示されました。
当時は読売クラブにGKコーチがいないことにひっかかり、そのオファーは受けませんでしたが、最終的に16歳の時、仮契約してプロになりました。
その後イタリアで行われた大会にも出場して、レギュラーとして活躍でき、現地メディアからも高く評価していただき自信になりました。
 
 

プロの世界でメンタルを保つには


――実際にプロになると、大変なことも多かったと思いますが。
 
そうですね。高2のとき、U17の世界選手権が日本で開催されることになり、ホスト国として日本のチームも参加できることになりました。
宮本恒泰氏や中田英寿氏など、のちに日本代表として活躍した選手たちのいたチームで、メンバーに選出されれば、日本代表として脚光を浴びる絶好のチャンスだと胸を躍らせました。
ところが、大会規定で、たった2週間誕生日が早かったために、出場資格がないことがわかり、絶望しました。
そして、自分の代わりに同じクラブに所属する1歳下の後輩のGKがレギュラーとして出場することになって、悔しさと嫉妬心から自暴自棄になり、所属チームのレギュラーもその後輩に奪われてしまいました。
屈辱感に支配され、サッカーをやめることも考えました。
 
――それはショックですね。実力と関係ない理由で……。
メンタル面でどのようにしてご自身を保っていましたか。

 
言葉に救われることが多かったです。本が大好きで、すごくたくさん読んでいました。
電車やバスに乗っている時間が長かったのでその時間に本を読むことが救いになっていました。読書に夢中になって電信柱にぶつかったことも何度かありましたね。
文学は古典が好きで、特に芥川龍之介、夏目漱石、川端康成などの文豪の作品を好んで読みました。明治や大正時代の世界観や精神性などに憧れて、この時代に生まれたかったと思うほどだったのです。
偉人の名言集も好きで、苦境に立った時に読み、自分なりの解釈で自分の状況に落とし込んで生かしていました。
心を静めるために般若心経を勉強し、「色即是空」という言葉をよく呟いていたり、そんなふうにしてメンタルが壊れないように工夫していましたね。
 
――一番つらかったことは、なんですか?
 
やはり嫉妬の感情ですね。
同じクラブに1歳年下のGKの後輩がいて、常にレギュラーの座を争っていました。
 
自分が負けてサブに回されたときは悔しくて、ベンチにいるとみじめな気持ちになったものです。
自分のポジションを取り戻すために超ストイックな減量をして、10キロ体重を落とし、半年かけてやっとレギュラーに返り咲いて、それでもいつも追われている気がして辛く、楽しいと感じた日はほとんどありませんでした。
後輩が自分の未来を閉ざす邪魔者のように感じ、やがて言葉も交わさなくなり、できるだけ顔を合わさないようにしました。
それの冷めた関係は、私がクラブをやめて、ブラジルに行く日まで続きました。
 
その後輩とは何十年も会うことはなかったのですが、彼に謝っている夢を何度も見ました。彼は本当に良いやつだったので、別の機会で知り合っていたら親友になれたはず。いつか会う日が来たら謝りたいと思っていたところ、20年ほど経ってから、仲間が再会の機会を作ってくれたのです。
 
その席で、私はその後輩に当時の胸の内を洗いざらい打ち明けました。そして「あのとき冷たくしてごめん。自分の器が小さかった」と謝ったのです。
すると後輩は静かに「僕はマロくん(筆者註・伊藤氏の愛称)に追いつきたくて、追い越したかったのに、マロくんはブラジルに行っちゃった。だから僕は一度もマロくんを抜けなかったんだよね」と笑いました。
彼は35歳までプロとして活躍し、サッカー選手としては比にならないキャリアを積んでいるのに。完全に先を越されたと感じましたね。
それ以来、彼の夢を見ることはなくなりました。
 
 

最高から、最悪へ


――ブラジルに行かれたんですね。
 
ブラジルでサッカー選手になるのは、少年のころからの夢でした。受け入れ先の人から、日本一になったら来い、そうじゃなければ話にならないと言われていました。
その夢がかなったのが18歳のときでした。
ブラジルでの生活は今までの人生で一番素晴らしい日々でした。
移籍したのはサンパウロ州にあるパルメイラスというクラブ。世界でもトップレベルのチームでした。
ブラジル代表になるような選手たちが、日本から来た若造を受け入れてくれ、ピッチの中だけでなく、私生活でも温かく接してくれました。
毎朝家の前に迎えにきてグランドまで送ってくれたり、ホームパーティに呼んでくれるなど、本当に親切にしてくれました。
駅まで歩くと危ないからと、マクドナルドで買ったポテトフライをみなでシェアしながら歩いたことは、今でも鮮明に覚えています。
 

パルメイラスのチームメイトと。伊藤和磨氏は後列左端(伊藤和磨氏提供)
 
――帰国後は、どうされたのですか?
 
帰国してすぐ所属したクラブは最悪の環境でした。GKコーチとそりが合わず、苛め抜かれたんです。
チームの練習から孤立させられ、紅白戦にさえ出してもらえませんでした。気持ちが折れて、パフォーマンスもガタガタに落ちました。
人間は気持ちがやられてしまうと、当たり前にできていたことすらできなくなるのだなと知りました。それでも途中から開き直り、シーズン後半には自分らしさとパフォーマンスを取り戻すことができたのですが。
高3のときに強打してからずっと繰り返していたギックリ腰も治らず、目立った活躍をすることができなくて、結局、そのチームから戦力外通告を受けてやめました。
その後、いくつかのプロチームのトライアルを受けましたが条件が合わず、契約には至りませんでした。
7歳という年齢からサッカーを始めて、身体もあちこち故障していて、常に痛みを堪えてプレーしていたこともあり、だんだん、自分のなかで、サッカーへの情熱が失われつつあるのを感じ、引退を決意しました。
 
 

何もない


そこからは様々な仕事をしました。パチンコ店の店員、清掃員、現金輸送、警備員、弁当の宅配、日雇いの工事現場などの、身体を使う仕事が主でした。でもどれも続かず、仕事を転々としました。原因は、未熟さ故のわがままさだったと思います。
現役のころ、クラブの重役に、「プロまで行ったら、(引退しても)なにやったって通用するよ」などと言われていましが「あれはウソだった」と思いました。
今なら、彼らが言っていたことの本当の意味がわかります。
何事も、プロになったような人たちは、生半可ではないエンジンを積んでいて、根性と集中力がある。それを活かせば何でも通用するということだったのです。
ただし、それを世間で通用させるためには、適切に方向づけをしてやることが必要なのです。
でもただのアルバイトでは、そのどれも生かすことができず、もがき苦しんでいまし た。
選手のころは試合で活躍してファンを喜ばせたり、チケットを取ってあげたり、大事な人や好きな人に提供できることがたくさんありました。
しかし人の役に立つ特殊技能や発揮できる場所が、今の自分には何もないと痛感していました。またプロフェッショナルな人材になって、大事な人たちを喜ばせたかったのです。
 
――サッカー関連の仕事は考えなかったのですか? コーチとか。
 
サッカーしか知らない人間で終わりたくなかったし、サッカー以外の世界を、観てみたかったのです。元Jリーガーの肩書に甘んじれば、もう先はないだろうと思った。
でも、様々な職業を経験した後で、選手時代の経験を活かせる仕事がしたいなと思い始めてはいたんです。
 
 

運命の出会い


――それがトレーナーのお仕事だったんですね。
 
偶然バイトの情報誌で見つけた、青山の会員制スポーツクラブのトレーナー募集に応募し、採用されました。
そこで出会ったのが、ジェフ・ライベングッド氏というアメリカ人のトレーナーでした。
彼は全国各地からやってくる患者たちを次々と治していたのです。
何よりも驚いたのは、2時間近くかけて私の体をスクリーニングしたことでした。
当時のヴェルディには、有名大学の医学部の教授たちが出入りしており、何度も診察してもらったのですが、通り一遍の反応しか返ってこなかったのです。
「GKなんだから腰痛は仕方ないよ」と。
それにたいしてジェフの「君は腰が痛いのかもしれないが、腰が悪いのではなく普段の姿勢や動作のフォームに原因があるんだよ」という説明は非常にロジカルで、指摘されることのすべてが腑に落ちたんです。
結果、選手時代からの腰痛が、ジェフの言う通りに生活習慣や日常動作を修正しただけで、すっかりよくなってしまいました。
この経験をしてからそれまで持っていたトレーナーへのイメージが大きく変わりました。
そして「この人はすごい。本物だ」と直感し、この人についていこうと決心しました。
 
ジェフの勉強量は半端ないもので、暇さえあれば本を読んで勉強していました。
私の誕生日に英語の医学書を3冊プレゼントしてくれて、「これを読み込めば、日本一のトレーナーになれるよ」と言ってくれたのです。
それで私もそのプロフェッショナルな姿勢に感化され、稼いだお金を医学書や関連するアイテムにすべて投じるようになりました。
 

(施術室の蔵書。医学書や関連書籍がぎっしり詰まっている)
 
そしてジェフに教わったことをジムの会員の人たちアドバイスすると、「よくそんなことを知っているね」「若いのに詳しいな」と褒められ、周囲から評価されるようになっていきました。
引退してから仕事の現場では、一度も褒められたことがなかったので、人から評価されることが素直に嬉しかったです。
そして私の場合は現役時代に数多くの治療家たちの施術を受けていたことが、トレーナーになるにあたってとても役立ちました。
試合に出られないかもしれないという状況から何度も救ってもらってたことで、「人の手が持つ可能性」を10代のころから知っていたのは、大きなアドバンテージだったと思います。
 
――またプロとして人の役に立ちたいという思いが、叶えられるようになったんですね。
 
最初のクライアントは、俳優の故・藤村俊二さんでした。藤村さんがドラマの撮影中にギックリ腰になってしまい、撮影が中断していたときに、「藤村さんの腰痛を治せないか?」と連絡がきたのです。
自信はなかったのですが「はい、治せます」と即答しました。
人生を変える大きなチャンスだと思ったのです。3日間付きっ切りで施術すると、実際に藤村氏の腰痛は改善し、それ以来ありがたいことに「青山でゴッドハンドの子がいる」という噂が広がっていきました。
青山のスポーツクラブで朝6時から午後2時まで働き、午後3時からは関東全域に、簡易治療台を自分でかついで駆け回るようになり、クライアントも急増しました。
 
――現役時代に鍛えられた「エンジンと根性と集中力」がやっと役に立ったんですね。
 
 

Maro`sの誕生


残念だったのは、ジェフからジムを開設するからパートナーとして働いてほしいと誘われ、そのつもりで青山のスポーツクラブを退職のですが、直前になってその話が急になくなってしまったのです。
行き場を失くして呆然としていたところに、手を差し伸べてくださったのがプロレスラーから格闘家に転向したTさんでした。
「俺の体をお前に託すよ」と言っていただき、その後公私にわたり7年間お世話になって感謝の言葉もありません。
その後も様々な出会いやご縁があり、24歳のとき、代官山のビルの一室を貸していただけることになって、そこに念願の自分のスタジオを開設することができました。
腰痛改善スタジオ「Maro`s」の誕生でした。2002年のことです。
以来20年にわたりパーソナルトレーナーとして日々13時間以上、のべ52000人を治療してきました。
最初の頃は口コミでいらっしゃる方が多かったのですが、初めての著書を出版したのをきっかけに、本を読んだ方からの問い合わせが多くなり、国外からも、わざわざ探していらしてくださるようになりました。
また企業と提携して椅子メーカーにアドバイスをしたり、小中学校で児童生徒に正しい姿勢や動作を教えたり、社員の腰痛防止策の指導やセミナーに呼ばれる機会も増えています。
とはいえ、日々のクライアントへのマンツーマン施術が、私の仕事のベースになっています。
 
 

痛みを抱える人へ


――今でも1日13時間以上の施術…… ため息がでます。
ところで、伊藤さんはご著書のなかで、
「腰痛は患部の治療だけでは根本的な解決にならず、日常的な姿勢や動作を矯正しなければならない」
「腰痛は自分でマネージメントするものだという自覚を患者に持ってもらうことが腰痛改善の近道」
と書かれています(『腰痛はアタマで治す』(集英社新書)。
施術時に姿勢や動作の指導をしたり、本で読んだりしても、実際に実践する人は少ないかと思いますが、心が折れることはありませんか?

 
本を読んでも、そこに書かれていることを実践する人は1割にも満たないと思っています。続ける人はさらに少ない。
基本的に人には怠ける習性があるので、(課題を出しても)やってこないだろうと思っています。
長年の姿勢のクセや動作フォームを変えるって大変なことですから。
やらないことを責めるのではなく、やりたくなるようにもっていくスキルが大切なんです。
実際に身につけた人たちは、こちらが驚くほどコンディションが上向きになっています。
 
――最後に、何かひとことお願いします。
 
4年半かけて書いてきた新刊『痛みが消えていく身体の使い「型」』(光文社新書)が9月14日に発売されました。ぜひご一読いただきたいです。
身体を鍛えるよりも、最適な姿勢と身体の使い型を身につけることにより、今までよりずっと楽に暮せるようになるはずです。
トレーナーになってからの22年間の集大成だと思っています。
この本の特徴は、すべてのエクササイズやセルフケアを61本の動画で紹介していることです。スマホをQRコードにかざせば、いつでも何処でも簡単に見られます。
慢性の頸肩部痛、腰痛、股関節痛、膝関節痛でお悩みの方には、必ず役立つと思います。
 
 

(インタビュー終)

 
 
小3から13年間、ゴールを守り続けた孤高のGKは、22歳にしてそれまでの人生のすべてであったものを失った。
しかし彼はその挫折をバネに、サッカーで培ったたぐいまれな人間力と、人並み外れた向上心で、新たな人生の目標を見つけた。
かつてゴールを死守したゴッドハンドは今、腰痛をはじめとする身体の痛みや機能障害に悩む人たちの、心と身体を守っている。

(取材・構成 河原千恵子)

 
 
腰痛スタジオマロッズHP
https://www.maros.jp/
 
 
***
 
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2022-10-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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