悲しみのブラジャーを手放すとき
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:渡邊真由子(ライティング・ゼミ4月コース)
幾段もある箪笥の引き出しの中でもっとも取り出しやすい場所。
私はそこに下着を仕舞っている。何故ならば、それくらい下着は私にとって大切な存在だから。
もう何年経つだろう。随分前から主に舶来品の下着にのめり込み、恐らく一般的な女性が一生涯で購入するであろうほどの分量の下着を私は既に手に入れた。勿論、ある意味「消耗品」なので断腸の思いで手放したものもかなりある。
私の元へやってきたものたちの中には可憐なものもあるけれど、多くはそれとは真逆の濃厚で粘度の高い雰囲気のもの。華奢なのにしなやかで強く「誰にも媚びたりなんかしないわ」という佇まい。まるで「だから何? 私は私よ」という言葉が聞こえてくるかのようで、気高いけれどそれと同じくらいのじゃじゃ馬具合だといつも思う。だが、それが良いのだ。
好みというものは理屈ではないから理由などわからない。しかし、どうやら私はそういうものに惹かれる傾向があるようだ。
さて、つい先日のことだ。
私がもっとも大切にしているその引き出しをしみじみと眺めてみた。
色とりどりの下着が並ぶいつもの景色。どれもこれも狂おしいほどに愛おしい。
このコはこういう特徴で、あのコの個性とも違うし、こっちのコはずっと眺めていられるくらい相変わらずの美人さん! イタリアとフランスとではやっぱり魅せ方が違うな、などと一つずつ手に取り想いを巡らせながら。
ふとその手が止まる。
その瞬間何とも言えない感情が込み上げた。そしてこう思った。
「私はまだこのコを手放していなかったのか」と。
そのコはスポーツ用ブラジャーのような形状で背中側にホックはなく、前側にスナップボタンが付いている。幾度にも亘る開閉のためスナップボタン脇の縫い目は一部が裂け、朽ち果てる寸前の風情を醸し出している。一般的なブラジャーに見られるようなワイヤーも当然なく、トップバストを隠すための薄いパッドが入っているだけ。
このコを毎日欠かさず手洗いして半年近く身に着けていた日々が一気に想い出された。思いがけず涙が零れる。
このコの使命は他のブラジャーたちと一線を画す。このコは「術後専用」なのだ。
私は数年前に病気をした。バストにメスを入れる必要があった。
あれほど下着が大好きで夥しい数の下着が箪笥にスタンバイしているというのに、手術して傷ができ、陥没したバストが耐えられるものはその中に一つもなかった。
だから今でもよく覚えている。手術翌日、激しく痛む傷口を庇いながら病院内の売店で術後専用のこのコを買った時のことを。
店頭には黒とベージュの二種類が並んでいたが、迷わず黒を選んだ。
術後に行われる放射線治療では、確実に同じ場所に照射するための目印を油性ペンでバストに書かれるのだと同じ病気に罹った友達から聞いていたし、そのインクで汚れるから下着は濃色の方がいいというアドバイスもあったから。
「洗い替え用はなくても大丈夫ですか」
売店のかたはそう言ってくださったけれど、私が購入したのは一着のみ。悲しい下着はひとつあればいい。およそブラジャーとは呼べないこのコを迎え入れる現実があの時の私には何よりもつらく、傷口も心もひどく痛んだ。
それから半年ほど経った頃のこと。懇意にしている下着屋を訪問した。私のような手術経験者も顧客に多く、心強い存在だ。
丁度その頃、洗濯の度に色が薄れ古ぼけていくあのコを見ては自分だけが何かから取り残されたようで気分が滅入っていたし、ワイヤー入りの美しいブラジャーを身に着けてもいい時期に達したと思ったのだ。
しかし、私の身体が導き出した結論は「まだ時は満ちていない」だった。
放射線の影響で皮膚が剥落し焼け焦げたパンのような肌の私と、眼前の見目麗しいブラジャー。あまりにも不釣り合いだった。私はブラジャーを選ぶ側だと思っていたのに、私はブラジャーに選ばれてすらいなかった。
フィッティングルームの中で私は泣いた。私には女という価値がないのだと思った。切なく、悲しく、苦しかった。
そんな私に店のオーナーはこう仰った。
「まだ内部が炎症していて熱を持っているみたいね。でもじきに落ち着くから大丈夫よ。それと、あなたが病院で買ったこのコは今日限りでサヨナラしましょう。少し前に買ったフランス製の一枚レースのブラジャーがあるでしょう? まずはデフォルトをそこに移して『手術は終わっている』と身体に教えてあげないとね。いつまでも『術後』のあなたを纏っていてはダメよ。必ず『もう大丈夫』と思える時が来ます。あなたの身体が教えてくれますから」
オーナーの言葉を聞き「二度とあの時に戻らない」と私は決めた。決めたはずなのに、箪笥にはまだあのコがいた。
どうしてすぐに手放さなかったのだろう。単に忘れていただけ? 苦しい時を伴走してくれたから情が移った? それとも、再発したら……と心のどこかで思っているの?
どれも正解のような気もするし、どれも違う気がした。あの頃の記憶は曖昧になっていてハッキリと思い出すことができない。
再びあのコを手に取ってみる。
このコの向こう側に透けて見える想い出は沢山ある。悲しみもあったけれど、少しずつ回復しているという喜びも私に運んできてくれた。
「キミがいてくれたからここまで回復できた。でも、もうこれで本当にお別れしましょう。今までありがとう」
そんな言葉が自然と湧き、私は廃棄用の小さな袋の中に役目を終えたあのコを入れた。
これは本当の意味で前を向くための小さな儀式。あの頃はこんなに小さな決断さえできなかった。
きっとこれで私の「術後生活」はひと区切りつく。
涙が頬を伝い、私は箪笥の横にある姿見を覗き込んだ。
欠けたバストでも胸を張って生き切る。
再びそう決めた私の顔は、清々しさに溢れていた。
***
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