メディアグランプリ

小さな灯りをともす魔法使いメリンダ


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記事:あき(ライティング・ゼミ9月コース)
 
 

廊下のスタンド、消さなくていいの?
 
出かけようと靴を履きながらメリンダに声をかける。
 
ああ、あれはつけておくわ。だって帰ってきた時に家の中が暗いとなんか嫌じゃない?
 
誰もいない家に灯りをつけておくなんて、電気代がもったいない気がするけれど、ここはアメリカ。1人暮らしの女性が灯りをつけておくのは防犯上の常識なのかもしれないと思い、ああなるほど、OK、と会話を終わらせた。安全のためなら、電気代は問題ではない。それに、わざわざ私の夏休みに合わせて休暇をとり、2週間一緒に遊んでくれる大学来の友人とエネルギーの節約について議論する気もなかった。
 
その日1日遊んで帰宅した時、廊下の隅がぼんやり灯っているのは確かに良いものだった。
 
おかえり
 
と言われた気がした。
 
人の記憶は本当に面白い。その日メリンダと何をして遊んだかの方がよっぽど記憶に残りそうなものなのに、全く覚えていないのだ。その代わり、この玄関でのやりとりと、廊下にぼんやり灯る和紙のフロアスタンドの形だけは、今でもはっきり記憶に蘇らせることができる。
 
なぜか時々ふと思い出す15年前のこの出来事について改めて考えることになったきっかけは、電車の中で耳にした30代と思しき女性2人のおしゃべりだ。
 
家に帰った時「おかえり〜」なんて言いながら、エプロン姿で玄関に出てきてくれるレンタルお母さんいないかなー
 
ほんと、それ。家の中が明るくてあったかくて、お味噌汁の匂いとかしてね
 
わかる! 想像するだけで幸せ
 
メリンダの電気つけっぱなし問題が吹っ飛ぶくらいの発想に、思わず耳がダンボになる。だって、帰宅の一瞬のために、お母さん的な人をレンタルしちゃおうというのだ。すごくないか。まあ発想自体は冗談だろうけれど、帰宅した時に誰かに温かく迎えられたいという願いは本物だと思う。心の柔らかいところに触れるようなその願いを、なんだかいじらしいと感じた。
 
ただいまと帰宅を宣言し、おかえりと認めてもらう。この2秒程度のやりとりは、まるで魔法のようだ。エプロンをつけたお母さん、灯りのともる暖かい部屋、お味噌汁の匂い。そのどれもが醸し出すぬくもりの中で、外の自分を終わりにしてリラックスモードの自分へと帰る。これが幸せでなくてなんであろうか。
 
でも、と疑問が頭に浮かぶ。単身世帯が5割を超える東京で、どれくらいの人がその幸せを味わえているんだろうか。たとえ家族と暮らしていても、家に帰った時に誰かが迎えてくれるとは限らない。「おかえり」を聞くことも「ただいま」を言うこともない人は想像以上に多いのかもしれない。一人ぼっちの静かな、メリンダの言葉を借りれば「なんか嫌」な帰宅だと、リラックスモードへの切り替えがうまくできなかったりするのだろうか。
 
ああそうか、だからメリンダはあの小さなスタンドをつけていたんだ。長年の謎と言うほど大袈裟なものではないけれど、小さな心のひっかかりがなくなった気がした。「おかえり」と迎えられたいというささやかな、でも大切な願いを叶えるために小さな灯りをつけて外出する。素晴らしい知恵なのに、電気の無駄遣いだと思ったりして、本当にごめん。
 
一人暮らしに慣れているつもりでも、帰宅後も仕事モードのまま、なかなか切り替えられないことがある。私にも「おかえり」の魔法が必要だ。かといって、電気をつけたまま長時間外出するのはどうも気が進まない。そこで考えた。玄関のドアを開けた時に「ただいま」と声に出して言ってみるのはどうか。静寂しかない空間でそんなことをしたら、かえって寂しさが増すかもしれないという可能性を危惧しつつ、ものは試しと少しの不安と恥ずかしさを乗り越えて誰もいない家の中に「ただいま」と言ってみた。すると、どうだろう。頭の中に「おかえり」が聞こえるではないか。「ただいま」と「おかえり」は究極のコールアンドレスポンス。どちらかを言えばもう片方は出てくるのだ。思いがけず心に明るく灯りがともったようで、寂しさなど感じなかった。電車のあの女性たちにも教えてあげたい。レンタルお母さんじゃなくても小さな灯りをつけて出かけて、帰ってきた時に「ただいま」って言ってみて!
 
メリンダの灯りの理由が分かった気になり、ついでに全人類に「おかえり」の幸せを! と浮かれモードになったその夜、マンションのゴミ出しに行く途中に、帰宅したと思われる住人とすれ違った。見かけたことはあっても、名前も分からない隣人。都会暮らしの典型だ。この人には「おかえりなさい」と迎えてくれる人がいるのだろうか。普段はただ何となく会釈するだけだが、勇気を出して「おかえりなさい」と言ってみた。
 
びっくりした顔の後、微かな会釈と共に「こんばんは」と返事が返ってきた。さすがに「ただいま」は聞けなかったが、予想外の返事を聞けたことで、「おかえりなさい」を言った私の心もさらに温まった。
 
長い間会っていないけれど、毎年誕生日とクリスマスには忘れずにカードを送ってきてくれるメリンダ。彼女は今でも家のあちこちに小さな灯りをつけて暮らしているに違いない。

 
 
 
 
***
 
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2024-10-04 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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