メディアグランプリ

雨のち晴れ ~信じられない自分と、大人の優しさ~


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:なつむ(ライティング・ゼミ日曜コース)

「大丈夫、間に合う」

目的地まであと二駅。
地下鉄の駅表示を確認し、ホッとした直後だった。

ふと違和感に気がついた。

いつもよりなんだか身が軽い。

なぜそう感じるのか、わかるまでに、少し間があった。

「え?」

「え??」

「ええーーー??!!」

地下鉄の中だ。
声には出せなかったが、心の中で叫び声をあげた。

「ない……?」

「持ってない……?」

「え? 嘘でしょ? だってありえなくない??」

どこかで落としたのかと思った。
でもそんな小さなものではない。
会社を出て、電車に乗って、その間の荷物の感触は変わった気がしない。

だとしたら。

本当なのか。

本当にそういうことがあるのか。

私は、目の前の現実を、自分のやらかしたことを、認めるしかなかった。

私、……セカンドバックだけ持って、財布や家の鍵が入っている鞄を、会社に置いて来ちゃった……。

私は今、終業後に、東京駅近くで行われるセミナーに向かっている。

出る間際にバタバタしたのは、仕事のせいでも、誰のせいでもない。自分の段取りが悪いためだった。

落ち着いて会社を出たつもりが、まさかのミス。

仕事中、中身を出し入れするセカンドバックは手近にあり、財布などを入れた革鞄は棚に入れていた。
なまじ存在感があるせいか、私はセカンドバックだけを持って、会社を出てしまったのだ。

「なんてこと」

これまでも忘れそうになったことはあった。
でも、こんな遠くまで来てから気付くのは、初めてだ。

がっかりした気持ちもつかの間、次の瞬間、脳内でアドレナリンがうわっと分泌されるのを感じた。

そうだまずい!非常事態!

この後、セミナーの受付で、受講料を払う約束なのだ。

財布がない。お金もない。
銀行のカードは、全部、財布の中。

これから鞄を取りに帰ったのでは、間に合わない。

あるのは、定期付きPASMOだけ。
スマホだけは手で持って出た。そのケースに入っている。

血の気が引いた。

どうするか。
あと5分もすれば、電車は目的地の駅に着いてしまう。

私は、一つの考えを想定しながら、セミナー主催者のUさんを思い浮かべた。
先日初めてお会いし、今日のセミナーを紹介頂いた。優しく、芯のある大人の女性との印象を受けた。
SNSでのやり取り以外でお会いするのはまだ2回目。

正直に事情をお話ししてみるか……。
明日以降の振込でお許し頂けるかもしれない。

ダメなら、丁寧にお詫びをお伝えし、受講を断念して帰ろう。

慌てた気持ちを鎮め、腹をくくり、大急ぎで、私はメッセージを打った。
セミナーの直前、もちろん、ご覧になれない可能性も高いが、それでも良い。

どう書くか迷う時間もなかった。
お詫びと、鞄を忘れたという告白、後払いで受講させて頂けたら嬉しいと、綴った。

送信前、もう一度、迷った。
本当に、こんな厚かましいお願いを、まだ関係もできていない方に、送ってしまっていいのだろうか。

私は時間をにらみながら、もう一周、考えた。

でも、結局、失敗は失敗。
今の状況だと、潔く、恥をかくのが最善。

自分の認識を再確認し、「送信」をタップした。

一息つくと、脳内のアドレナリンは3割減くらいになった。
改めて、自分の間抜けさがじわじわ来る。

いやはや。やってしまった。

ありえない。

情けない。

でも。

なんだか、ちょっと可笑しい。

私、こういうことやらかすんだ……。

自分でも知らない一面を見た気がした。

電車が目的地に着く。私は会場へ急いだ。

建物に入り、フロアを上がった。

どうなるか……。

意を決して、お部屋に入った。

部屋は6名ほどが入る広さで、他の方はすでに揃っているようだった。
一斉に視線が集まる。

Uさんが、「ああ、いらっしゃい」と微笑んだ。
そして「あ、じゃ忘れないうちに」とおっしゃった。

受講料だ。
メッセージはご覧になっていないふうだった。

私は、場が凍ることも覚悟しながら、「実は……」と言いかけた。

すると、私がその先を言う前に、Uさんが、察してくださった。

「あぁ、お財布忘れたの?」

「はい……そうなんです」

「うんうん。良いわよ、今度で。じゃあ、はい、どうぞ~、座って」

まるで普通のことのように、にこりとしてそうおっしゃった。

あっさりしていた。

怒る様子どころか、驚く気配すらなかった。

「大丈夫ですか……? 本当に、申し訳ありません。ありがとうございます」

頭を下げ、恐縮して、席に付いた。
他の受講者の方も、特に驚いたり、訝しがったりする様子もなかった。

ホッとし、自然と湧き上がる感謝の気持ちとともに、私が席に着くと、セミナーが始まった。

……。

セミナー後、私は会社に戻った。
帰り道、革鞄の感触を何度も確かめながら、ない!と気づいたときのゾッとした気持ちと、Uさんの優しさとを、脳内で反芻した。

人は、こうもあっさり、忘れ物をする生き物なのだ。
支払うはずのセミナー料を払えずに受講するなんて。

やっぱり、二度と繰り返したくないし、繰り返してはいけない。

でも。
そのおかげなんて言ってはいけないが、「大人の対応」を、目の当たりに、見せて頂いた。

素敵な大人は、「経験値の桁が違う」とでも言えばいいだろうか。
あるいは、経験値の「幅」の差なのか。

私のお馬鹿な失敗を、日常の中にさらりと流してくださった。

まだ二度しかお会いしていないのに「次会う時に」という「信頼」を寄せてくださった。

もちろん、お金のことは最終的にルーズではいけない。
けれど、挽回できる失敗かできない失敗かでいうと、完全に前者だったようだ。

おおげさだと笑われる方もあるかもしれない、でも。

私が信じられないと思った自分のことを、その直後にUさんが軽々と信じてくださったことが、私には衝撃的だった。

鞄の肩紐をことさら大事に握りしめながら、自分がこれまでいかに狭い世界で生きてきたのか、そして、「人を信用する」「人に信用される」とは、どういうことなのかを思った。
うまく言葉に出来ないけれど、とてもあたたかい気持ちに包まれて、私はその日、歩き慣れた通勤路を、いつもと違う気持ちで、たどって帰ったのだった。雨の後、穏やかに晴れたときのような、眩しさを感じながら。

***

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2018-11-08 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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