哲学カフェの不思議
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:益田和則(ライティング・ゼミ平日コース)
「ようこそ、哲学カフェへ!」
俳優の高橋一生さんに似た女性的な顔つきの男性が、やさしい微笑みを浮かべながら、私を迎えてくれた。飾り気のない大きなテーブルが、カフェの真ん中にどんと据えられていた。そのテーブルを囲むように座っている10人余りの来訪者が、一斉に私の方を見た。私は誰にともなく軽く会釈をして、やや緊張した足取りで最後に残った椅子にすわった。
まわりをさりげなく見渡す。この集まりは自由参加であるが、老若男女、見事にばらけている。後に参加者の自己紹介でわかったことであるが、年齢で言えば、最年少が18歳の受験生であるJK、そして大学生、現役世代の方々、最年長は68歳の整形外科医であった。性別でいうと、男性7名、女性は5名が参加。常連の人もいたし、私と同じように哲学カフェ初体験の人もいた。
そもそも、哲学カフェとはなにか? 毎回異なるテーマを設定し、参加した方々が、そのテーマにまつわる経験や問題意識、持論を自由に語り合う場である。いわゆるカフェでの開催に限らず、カフェのようにゆったりとした雰囲気を保ちながら気楽に対話ができる場を総称してそう呼んでるらしい。
そして、今日の集まりのテーマは、「ヒマな時間とどう付き合っていますか?」という、哲学の持つイメージに反して、ゆる~いお題目であった。
このカフェのオーナーであり、進行役を務める高橋一生さん(仮名)から、「みなさんが、なぜこのイベントに参加したか教えてください」との、指示があったので、それぞれが、自己紹介とともに参加理由を述べていった。
テーブルを一回りして、最後に、私の番がきた。
「私は、数か月前に定年退職しました。したがって、時間を自由に使えるのですが、やりたいことがたくさんあって、「ヒマな時間」と感じた時は全くありません。テニス、ボイトレ、ライティングゼミ、婚活デート、娘と過ごす時間などなど、いつも時間に追われているという感じです。若い頃から、ずっとそうです。限りある命。時間を無駄にすることに、罪悪感を感じてしまいます。
しかし、今まではそういう生き方でよかったのですが、これからは、人生の峠を下る時ですから、ゆっくりと、眼前に広がる景色を味わいながら生きて行きたいと思っています。そのためには、「ヒマ」というより、「時間そのもの」とどう向き合うかという事に関し、いろんな人の意見を聞いて参考にしたいと思いました。」
「なるほど。では、先ほどの方のように、田舎に行ったとき、来るべき電車が来なくて2時間待たされた。たまたま、空いた時間ができてしまったというような時がありますね?そういう時間をヒマと考えませんか?」と、高橋一生さんがつないだ。
「そんな時間も、常にいろんなことを頭の中で考えています。例えば、テニスの打ち方のこととか、次のエッセイの構想などなど……。それは、次のアクションのために必要な時間であり、自分の中では、ヒマな時間という意識はありませんね」
参加したみなさんも同様に、様々な意見を、活発にかつ自由気ままに話されていた。
そして、対話が進むにつれ、私の中に、ひとつの思いが浮かんできた。
テーマは、「ヒマの過ごし方」であるが、これは単に、話の取っ掛かりに過ぎず、皆さんの関心事は、「限られた人生の時間をどう使うか」、そして、突き詰めれば、「限りある人生をどう生きるか」という事である。ここに集まった人たちは、普段からそういうことを考えながら、時を過ごしている人たちなのである。
普通、そういうことは、まわりの人に話しにくい。この場所は、自分にとって重大な関心事であるが、身近な人には話しにくい事柄について打ち明けられる場なんだと合点がいった。ただし、世間から落ちこぼれた人たちが、傷をなめあう場では決してない。勉学に励んでいる学生、最前線で活躍している社会人など、現実社会に対しても、しっかりと向き合っている人たちの集まりであると感じた。
時間がたつにつれて、まるでバラバラに思えた参加者の人たちが、何か目に見えないもので結ばれているように思えてきた。あたかも、この哲学カフェという大きな脳の中に住んでいる、複数のわたし……、例えば、見栄っ張りの私、臆病な私、慎重な私、名誉を求める私などなど、12人の個性的なキャラの私が、脳内会議をしているように想像できた。12人の個性が、複雑に絡み合っているように思えてきた。
そんなことを思っているうちに、早々と予定の2時間が過ぎた。
結論というものを出す必要はない。夫々が、ここで得られた意見を、あとで反芻し、自身の考えを深めていくだけでよいのである。
中締めを行った後、希望者が残り、お酒を飲みながら、より胸襟を開いたトークに入っていった。
昔から言われているように、「より善き生」を考えるという事は、「死」と正対することでもある。したがって、何のテーマで話を進めて行こうが、いずれ行きつくところは、「死」に関する議論となるようである。最近、世界中で「Death Café」と銘打ち、死に特化した話し合いをする場が増えているそうであるが、何人にとっても、死は重大な関心事であることに間違いない。
という事で、二十歳を過ぎているにもかかわらずジンジャエールを飲んでいる青年が突然言い放った。
「僕は、絶対、死にたくありません。理化学系の大学生ですが、今、まじめに、不死の研究しています。生きている間に、完成する可能性はあると信じています。それまでは、健康にも気を付けて長生きします。お酒は一切飲みません!」
私も若い頃は彼の考えに同調したかもしれないが、今はちょっと違うように感ずる。
「私は、不死か、死ぬこととどっちかを選べと言われれば、死ぬ方を選ぶなあ~。宇宙の中で、独りぼっちで生きて行くこと考えると、それほど怖いものはない。」
キャリアウーマンの方が、大学生に半分、茶化しながら行った。
「君は、恋したことあるの?」
「いいえ、ありません。まったく興味ありません。研究がすべてです」と、大学生。
「僕もそうでしたよ。でも、来るときが来れば、好きな人ができるものですよ。問題ありません」と、中年の男性がサポート。
死とともに、愛というものは、悩ましいものです。ある時は、身を焦がすような恋の炎となり生きている証となりますし、反対に、愛する人を失った時には、生きる意味を失うこともある。また、愛する子供のために惜しみなく命を投げうったりと……。
愛と死は、背中合わせ。複雑に絡み合っているものだと思う。
これ一事が万事。世の中、すべて、難解。
そんなことを、あれやこれや話しても、ラチは明かないし、何の解決にもならないと思うのだが……。
参加者の方、みんな、そんなことは、わかっていて、あえて参加されているのだ。
話すことで、そして、聞いてくれる人がいることで、なぜか心が軽くなる。
それが哲学カフェ。
「ようこそ、哲学カフェへ!」
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