週刊READING LIFE vol,105

あなたの傘になれたら《週刊READING LIFE vol,105 おためごかし》


記事:深田 千晴(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「――あのさ、実はお兄ちゃんが」
「……えっ」
黒い雲に覆われた空が、明るくなり、身構えたとたんにガラガラという音が響いた。
 
急に勢いを増した雨は、止む気配が見えなかった。
「キャー! やだあ!」
「怖い!」
「チハルちゃん、もし落ちたらどうしよう、死んじゃうよね……」
「大丈夫だよ、たぶん、家の中なら安全だよ」
あれは小学生のころ。友達と一緒に、習い事を終えて帰ろうとしたときだ。雷雨になり、危険だということで、私たちは先生の家の玄関に留まっていた。横並びで腰かけ、親の迎えを待って、もう1時間。たわいのない話も尽きて、だんだん、お互い、無口になっていた。
彼女の思いがけない打ち明け話を聞いたのは、そんな時だった。
 
「お兄ちゃんに、――」
「……」
「それがすごく嫌なんだけど、やめてくれなくて、お母さんも……」
 
雷雨の音がものすごくうるさくて、話の詳しい内容まではよくわからなかった。
彼女自身も適当にかき消されてしまえばいいと思っていたのかもしれない。とても早口で、まるで昨日見たドラマの話をするような軽さで、一気に言葉をつづけた。
私はもう、頭の中にハテナマークが浮かぶばかりだった。焦って、友達の顔を見たら、その顔が見たこともないくらい悲しそうで、もういよいよ何も言うことができなかった。
 
しばらくすると、友達のお母さんが迎えに来た。なんと、私も車に乗せてくれるという。
彼女は、たまたま傘を持っていなかった。
「じゃあ、車のところまで、私の傘に入っていきなよ」
私は自然にそう言って、自分のもっていた傘を広げた。
玄関の外に出ると、たくさんの雫が勢いよく降り注ぎ、ドドドドド! っと傘の表面を叩いた。地面をはねた水で瞬く間に足の裏がひんやりと冷たくなる。ただでさえ狭い子ども用の傘なので、2人で入るのは無理があったのだが、お互いそのことには触れず、傘からはみ出た肩口を濡らしながら車の方に進んだ。
「ありがとう」その時の彼女はどんな顔をしていたのか、思い出せない。
車内は温かかった。あんな話を聞いたばかりだったので、私はなんとなく緊張したけれど、友達は、いつもの顔に戻っていた。
「乗せてくれて、ありがとうございました」
家の前で降りるとき、私がお礼を言うと、お母さんは「いいのよ。いつもうちの子と遊んでくれてありがとう」
と返した。優しそうなお母さんだった。
私が下りた車は、また雷雨の中を走り抜けていった。
 
思えばあのころは、親の付き添いなしで習い事や遊びに出かけるようになったばかりだった。それから二十年余り、外出して雨に遭遇したことはその後も何度かある。
私は絶対に傘を置き忘れるので、折り畳みの傘を携帯しているのだが、雨の日に限って、持っていない。鞄を替えたばかりだったり、他の荷物が多くて学校や職場においていたり――なぜか持っていない。
案の定、ずぶぬれになって帰宅する。(その回数はたぶん人より多い)家の中に入ると、ほっとする。そして決まって怒られる。
「なんで濡れて帰ってくるの! 傘、買えばいいのに」
「いやあ、もったいなくて」
「風邪ひいたらどうするの! もう少し自分の身を大切にしなさい!」
「……すみません」
小さなころは親と、今では夫と、このやりとりをする。こうして書き起こしてみると自分の情けなさを感じるが、身近な人が私の健康を大切にしてもらえることのありがたみも見える。
 
友達のことは、子どもながらに心配だったけれど、聞き返すのが怖かった。なんとなく、誰にも言えなかった。自分の親に伝えたらよかったのかもしれないが、後の祭りだ。その次の年、クラスが別々になり、後に私が転居してしまったので、今では、その子がどうしているのかわからない。
私はいわゆる女子グループというものが苦手で、1人でいることが多かった。そのせいか、それからの学生時代にも、同じようにあまり話したことのない子から、不意に苦労話を打ち明けられることが何度かあった。おそらく、話すほうとしては気楽だったんだろうと思う。
そのたびに私は、「なんて辛いんだろう」「かわいそう」「助けてあげたい」と思った。だから先生に相談したり、カウンセラーを予約して、ことの顛末を話し、どうすればいいか聞いてみたりした。
意外なことに、先生やカウンセラーがそういう友達の事情を初めて耳にする、ということは少なかった。だいたいもう相手のほうが先に知っていた。そして、たいてい、こう言われた。
「あなたの気持ちは素晴らしいと思うわ。でも、大丈夫よ」
 
そう言われる理由が、よくわからなかった。ただ無力感を覚え、一生懸命勉強した。
だんだんと見えてきたのは、身近な人が、健康や幸せを願ってくれることは、当然ではないということ。体からぬくもりを奪い、時には命の危険を感じるような――雷雨の止まない場所に帰っていく人たちがいるということ。
家庭でしんどい思いをしている人は、意外に多い。嫌だと思っていることを何度も繰り返される。暴言を吐かれる。自分の行動や持ち物、趣味嗜好について行き過ぎた管理をされる。痛みを与えられる。最も安らげるはずの場所で、自分の心身を尊重されないことは、ほんとうにつらいことだと思う。
それでも、いろいろな事情で、そこから逃げられない人がいる。雷が当たったら死んでしまうけれど、雷雨の下にいるからといってすぐにそうなるとは限らない。逃げるために行動しても今よりましな環境になるとも限らない。
そういう人を見るたび、私はやはり助けてあげたいと思った。
あのときの友達の顔が浮かんだ。知識もなく、力もなく、何もできなかったあのとき。
けれども、具体的な案を求めて他の人に相談すると、こう言われることが多かった。
「あなたの気持ちは素晴らしいと思うわ。でも、それは仕方がないことだよ」
 
多くの人たちが、助けようとする私のもとを通り過ぎて行った。
中には、明らかに自ら距離をとったと思える人もいた。私の下心を見破っていたのかもしれない。
 
あとから気づいたことだが、うた。きわめて自分本位いと願っていた。きわめて自分本位である。学生時代の私は、打ち明け話をした友人それぞれの幸せを本気で考えていたわけではなかった。
誰かの助けになることで自分の存在価値を見出したいと願っていたのだ。
安易で、愚かな考えをもっていたと思う。そうすることで、女子グループからあぶれてしまう、人間関係の下手な自分を肯定したかった。
無自覚だった私は、「助けたい」という思いが破れる度、自分の思いが否定されたようで、ただただつらかったけれど、結局それまでしていたことは、安全な家の中から、雷雨を眺めて、どうしたら雷雨が止むか考えているようなものだった。
 
学生時代からの友人も、社会人になると毎日会うことはなくなる。休みの日に約束して、数時間、ご飯を食べたり、スポーツをしたり、近況報告をしたりした。そうしてまた、それぞれの事情を抱えたまま、自宅に帰る。
苦労を抱えた人も、表面上は笑っていることが多かった。
事情を知っている私は、その笑顔を見るたび「無理をしているんだ……」と思い、心が痛んだけれど、彼らが望んでいるのはそういう風に心配をすることではなかった。
日々の中で、それぞれの抱える苦労から、物理的にも精神的にも離れる時間をもつこと。
遠回りに見えて、それこそが本人を励ましていくのだと気づいたのは、大人になってからだ。
結婚してしばらく経つと、私自身が子育て、介護、仕事など、魔法のような解決策のない問題ばかりを抱えることになった。
雨を、人の力で止められはしないように、ただ、時間とともに苦労が軽くなるその日まで、できるだけのことをして生き延びるしかない。
うまくいかないことばかりで、「自分が悪いんだろうか」と何度も落ち込んだ。
ひとつ幸運だったのは、周囲の人に恵まれたことだ。環境が変わっても遊びに誘ってくれて、楽しい時間が過ごせること。愚痴を言えること。友達でいてもらえること。
傘を差したからといって、強い雨が防ぎきれるわけでも、止むわけでもない。
それでも――そっと傘をさしかけるような人の温かさに、何度も救われた。
 
数年来の付き合いの趣味仲間がいる。その子は同い年の女性で、数カ月に一度くらい会う仲だった。最近、結婚が決まったという話を聞き、お祝いのために私が席を設けた。やはりグループでの付き合いは苦手なので、必ずサシ飲みになるのだが、恒例化するにつけ、私も相手もとりたてて何か思うことはなくなっていた。
「結婚、おめでとう」
「ありがとう」友人は言った。「実はね……」
友人が口にしたのは、はじめて聞く実家の話だった。知らぬ間に、けっこう色々なことがあったようだ。
「今まで、誰にも言えなかったんだけど。あなたが、こうして時々会ってくれて、楽しい話をしてくれたのがすごくうれしかった」
「……」
「結婚して幸せになる勇気をもらったよ。ありがとう」
 
おためごかしばかりの、私だった。
「あなたの傘になれたら」
そう言って手を差し伸べたのは相手のためだけじゃない、複雑な思いがあった。
けれども友人にとっては、雷雨を乗り切るための後押しになっていたのだ。
 
窓の外を見上げると、暗くなり始めた空に、星が見えた。
私の心が晴れていった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
深田千晴(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

東京在住の2児の母、専業主婦。現在は地域の子育て支援サイトで記事を書いたり、イベントを企画したり、ママ友が始めた「育児日めくりカレンダー」の開発に携わったりと、面白そうなことならなんでも首を突っ込んでいる。プロレベルのライターを目指し、2020年9月からライターズ倶楽部に加入。窮屈な社会に疲れた人を励まし、明日も生きてみようと思うきっかけになるようなコンテンツを発信したいと思っている。尊敬する人はちきりん、鴻上尚史、落合陽一、よしながふみ。

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2020-11-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol,105

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