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週刊READING LIFE vol.139

その胸の奥底にある哀しみは何ですか《週刊READING LIFE vol.139「怒り」との付き合い方》


2021/08/16/公開
記事:晴(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
人の感情が揺れることに敏感な私は、誰かの感情をかき立てることを極力避けて生きてきた。
それは喜怒哀楽、全ての感情に対してである。

 

 

 

幼い頃、私の家には、時々、剝き出しの激しい感情が吹き荒れた。
 
小学校低学年のころから、私と2歳年上の姉には「お米を研いでおく」というお手伝いが割り振られていた。そして、それは夕方母が仕事から帰ってくるまでに済ませておかなければならなかった。
私と姉が、暗くなるまで外で遊んで家に帰ると、母が先に帰ってきていることがたまにあった。私たちが、家に帰った時には、母は既に不機嫌で、それを隠さなかった。それから大慌てで姉がお米を研ごうとしても、母は「もういい」と言って、姉から米研ぎ用のバケツをひったくった。そういう時の母は、まさしく取り付くしまがなかった。
私と姉が何よりも恐怖に感じたのは、この「拒絶」だった。
もちろん、怒りの言葉を投げられるのも怖かった。
だが、「もういい」と言われ、くるりと背を向けられた時の絶望感や、無言で米を研ぎ始めた母の背中が発する「怒り」の振動が部屋の空気を揺らすのを感じることの方がずっと恐ろしかった。
私たちは、ただ母の背中を祈るような気持ちで一心に見つめていた。
「こっちを向いて」と。
母に拒絶されたと感じた時、私は、この世に自分が居なくなったようなそんな感覚に見舞われていた。
 
母は、怒りも激しかったが、愛情も深かった。
 
我が家は、父のお給料日後の週末には、家族そろって洋食のレストランに食事に行くのが恒例だった。私と姉は、いつもより少しきれいな「よそ行き」の洋服を着せてもらって、父の運転する車に乗り込んだ。
レストランでは、少し高めの料理を注文すると父が喜んだ。
食事のあと、レストランの隣の喫茶店でデザートを食べるのも、恒例だった。
プリンアラモードやフルーツパフェをおいしそうに食べると母が喜んだ。
懸命に働いて、子どもたちに「満足に着せて、満足に食べさせている」
これは、紛れもなく父と母の愛情だったし、私も姉もそれをきちんと感じ取っていた。
また、漢字のテストで100点を取ったときや、プールのテストに合格したときなども、すごく褒めてくれた。私たちは、これを条件付きの愛情だとは今も思っていない。
おそらく、母は他に表現の仕方を知らなかっただけなのだと思う。
 
だが、母から与えられる振り幅の大きな感情は、私と姉を翻ろうし疲弊させた。
大きすぎる「喜」は常に大きすぎる「怒」と隣り合わせだったし、大きすぎる「楽」はいつも大きすぎる「哀」とないまぜになっていた。
私は、自分が人の感情を揺らす原因になることに極端に臆病になり、人が、私から何かを感じ取ることを嫌った。
だが、結論から言うと、自分も含め人の感情を揺さぶらないで生きるということは、人間には不可能だ。極力当たり障りのない人間関係を築こうとしても、時間をシェアし、空間を共有し、話したり行動したりする過程において、必ず「反発」や「共感」が生まれる。
そうして「反発」や「共感」が生まれてしまうと、私はいつも逃げ出すか、逃げ出されるかした。
そして、逃げ出すとき、私は母と同じように「拒絶」という形をとってしまっていた。
人とうまく人間関係を結べない自分を、情けないと思う一方で、これでしばらくは人の感情を揺らすことなく過ごせるという安堵の気持ちもあった。
いずれにせよ、私は人間関係が破綻する度に孤独を感じ、敗北感を味わっていた。
 
今から12年ほど前、私が人生何度目かの敗北感を味わっていた時に、山に出会った。
「登山」を始めたのは、本当に偶然だ。
家族が田舎に帰省し、私は一人の週末を持て余したので、気楽な気持ちでバスツアーにでも参加してみようと思い立った。
私が選んだのは、「入笠山の山頂から、お盆の諏訪湖花火大会を鑑賞する」というものだった。
入笠山は、長野県にある標高1,955メートルの山だが、1,780メートルまではゴンドラで登ることができる。ゴンドラ山頂駅から入笠山山頂までは、片道2キロのハイキングコースだ。私は、山登りだと思わずに、花火を上から見下ろすってどんな感じだろうと花火鑑賞のつもりで申し込んだ。
ところが、ツアーのパンフレットが配達されてみると、準備する物に登山用の靴、雨具、リュックなどと書かれているではないか。そこで初めて、このツアーが登山であることを認識した。私は、登山を始めるつもりは全くなかったが、一人で暇を持て余す気にもなれず、必要最低限のものだけを購入し、ツアーに参加した。
ツアー当日、山麓駅から乗り込んだゴンドラの標高が上がるにつれ、雲行きが怪しくなっていった。下界は晴れていたにもかかわらず、山の上では雨が降っていたのだ。山頂駅のレストハウスでしばらく様子をうかがっていたが、厚い雲に阻まれて、花火を見ることはできなかった。下は晴れていたから、花火大会は開催され、「ドーン、ドーン」と音だけが聞こえ、雲の向こう側がうっすらと明るくなるのを、雨合羽をはおりながら恨めしく眺めていた。
花火鑑賞ができず、時間が余ったので、希望者だけ山頂にある入笠湿原をハイキングすることになった。私は、レストハウスで座っているのもつまらないと思い、参加することにした。湿原ハイキングそのものは、夜だったこともあり、草花を見ることはほとんどできず、しかも山の激しい雨で身体が冷えきって、おもしろいということはなかったが、誰とも話さず黙々と歩くということが思いのほか私には楽しかった。
 
東京へ帰るバスの中で、隣に乗り合わせた女性が私に話しかけてきた。私は、普段そんなに人と打ち解けるタイプではないが、この時は、「共に花火を見逃し、夜の雨の中を一緒に歩いた仲間」という意識が生まれ、会話に加わった。
その女性から、「来月、北アルプスの唐松岳に登るのだけど来る?」と誘われた。
北アルプスがどんなところかも知らないまま、歩くことは楽しいし、せっかく買った山道具をむだにするのももったいないと思って、「行く」と即答した。
唐松岳は、長野県と富山県にまたがる後立山連峰に連なる、標高2,696メートルの山だが、ゴンドラとリフトを乗り継いで1,830メートルまで登れることで、北アルプスの入門の山に位置付けられている。
唐松岳には、入笠山で出会った彼女と、彼女の山の先生「しんちゃん」と私の三人のパーティーで登った。これが、私と山の師匠「しんちゃん」との出会いだった。
私と彼女は、山小屋に宿泊し、しんちゃんはテントを担いで登ってきていた。
 
唐松岳頂上山荘について、夕食までに少し時間があったので、私たち3人はテント場でおしゃべりをすることにした。しんちゃんが、「その前に少し行きたいところがあるから」と、20分ほど居なくなった。こんな山の上で、どこに行くのか不思議に思って聞いてみたら、「何年か前、冬の唐松岳で友人を亡くした」と話し出した。しんちゃんの友人が亡くなった場所は、唐松岳のテント場から目と鼻の先、山小屋までもあと少しのところだったそうである。
しんちゃんの友人は、副業で登山ガイドをしており、その時も3人のツアー客を冬の唐松岳に案内していた。山の天気は変わりやすい。その日も、急に風が強くなり、登頂後下山するときに道に迷ってしまったのだ。風雪が強まりホワイトアウトすると、視界は1メートルも効かなくなってしまう。
しんちゃんは、「一緒にガイドに行ってくれないか」と友人から頼まれたが、その日は用事があって断ったそうだ。
「自分が一緒に登っていれば、友人を助けることができたのではないか」
しんちゃんは、それからずっと同行できなかったことを後悔し、唐松岳に登る度に、友人が亡くなった辺りに行き、線香をあげて手を合わせていた。
一時は、山をやめようと思ったこともあるそうだが、亡くなった友人のご家族から、山の素晴らしさを伝えてほしいと言われ、また山に戻ってきていた。
そして、私たちのような山の初級者を手伝って、山の素晴らしさを伝えることを再開していた。

 

 

 

山の上にも測り知れないほど大きな「喜怒哀楽」があった。
 
北アルプスの絶景は言葉には尽くせない。
唐松岳山頂も、息をのむほど美しかった。
くっきりとした緑の稜線、遠くに仰ぐ剣岳、立山連峰、雲海、朝やけ、どれもが日常を超越して言語化することは不可能だ。美しすぎて言葉にならない。
実際に、唐松岳では、私の目には、「きれいなもの」しか映らなかった。
だが、山では人の死も日常だ。私たちが踏みしめてきた道は、全て死者が通った道でもある。
滑落して全身打撲で命を落とした人、雪崩に巻き込まれて春まで雪の中で待ち続けた人、落石に頭を打ち砕かれた人、全て山に眠っている。
 
どんなに避けようとしても、喜怒哀楽は不可分なのではないだろうか。
喜びの中に、怒りも哀しみも楽しみもすべてあり、喜びも怒りも哀しみも内に抱えながら私たちは楽しんでいる。
夕日に照らされた唐松岳の頂上を見ながら、しんちゃんの話を聞いて、私はそう感じた。
 
喜怒哀楽は、ただの感情だ。そこに良いも悪いも上も下もない。そして、それらが揺れるからこそ、人は生命力を発揮し、その振り幅が大きいほど人としての充実があるのではないかと思う。振り幅の分だけ、人としての魅力の幅があると言い換えてもいい。
圧倒的にきれいなものは、圧倒的に醜く、圧倒的に尊いものは、圧倒的に下卑たものなのだ。
 
私は、きれいなものだけ、楽しいものだけを自分の中に住ませようとし、自分の周りに置こうとし、見ようとしていた。
醜く、下卑た自己を見つめ、認めるのは恥ずかしかった。
醜く、下卑た他者を見つめ、認めるのは怖かった。
それが、記憶を呼び覚まし、自分の感情、ひいては人の感情をかき立てると思っていた。
だが、これらは切り離すことはできないし、誰もが必ず持っている。

 

 

 

山にすべてがあるように、人もすべてを持っている。
自分の中のすべてを認め受け入れた時、人のすべてを認め受け入れることができる。
自然は、優しく厳しい。人も、案外優しく、案外厳しい。
自然は、美しく醜い。人も、ことのほか美しく、ことのほか醜い。
 
自然には、喜怒哀楽すべてがある。
人は、喜びを与えるが、怒りも発散する。
人は、哀しくも楽しい。
 
山で、私はそんなことを考えている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
晴(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

2021年2月より、天狼院書店にてライティングを学び始める。
1966年生まれ、立命館大学卒 滋賀県出身 算命占星術「たなか屋」亭主

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2021-08-16 | Posted in 週刊READING LIFE vol.139

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