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週刊READING LIFE vol.200

あの日、念願のエルメス本店に行けなかった《週刊READING LIFE Vol.200》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/1/9/公開
記事:清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
2016年の9月、フランスのパリに行った。
 
ほんの1週間の短い期間だった。しかし、この旅ほどいろいろなトラブルに巻き込まれ、長く感じた旅はない。旅の途中でいろいろな体験をし、複雑な感情を抱くことになるのだけど、その中でも「エルメス本店」への道は、長く、険しかった。結局辿りつかなかったのだけど、今となっては愛おしい思い出だ。
 
この思い出に彩りをもたらしてくれたのが、旅のお供の友人だった。ここでは彼女に敬意を表して「マダム」と呼ぼう。フランス文学をこよなく愛し、いつも楽しい話を聞かせてくださるマダム。彼女はそれまでも日本とフランスを行き来していて、フランス生活には慣れている。そんな彼女とは、その年の夏に、ちょっとしたきっかけで再会を果たした。フランスの話題で大いに盛り上がったので、調子に乗って旅行に誘ってみた。
「なんなら今度、一緒にパリに行きませんか」
冗談のつもりで言ってみたら、「お付き合いしましょう」と二つ返事でOKサインをいただいた。
「では、ご一緒させてください」
その勢いでPCを開き、航空券を予約した。
女2人、フランス旅行のはじまりである。

 

 

 

フランスといえば、ラグジュアリーブランドを連想する方も多いだろう。
しかし幸か不幸か、私にはどうも「ラグジュアリー」に縁がない。
倹約こそよしとする家庭で育ってきたし、お給料だって高給とはいい難く、生活するのがやっとである。そもそも自分の見た目だってイモみたいに冴えないことを十分わかっているから、ブランド品は映えず、普段はラグジュアリーなものに触れようという感覚さえ湧かないのだ。
 
一方、連れのマダムはエルメスがよく似合う女性だった。 私が知る限り、彼女はいつだって洋服から小物まで、エルメスを身に着けていた。エルメスではないときは、シャネルといったラグジュアリーブランドだった。とはいえ、毎度いろんなお着物をお召しになっているわけではない。彼女はむしろ、少ないアイテムに工夫を凝らして着まわしていた。おまけに年の割に肌にはハリがあり、姿勢がよくて笑顔が絶えない。
 
私が説明するまでもないと思うけど、エルメスはフランス屈指のメゾンである。正直に言うと、エルメスと同じくらい上質の商品なんて、日本でもいくらでも手に入ると思う。日本のデパートに並んでいるような、エルメスの数分の一のお値段の商品だって、貧乏性の私が使えば数年、いや、モノによっては十数年は耐えてくれる。
 
それでもエルメスが格別に思えてしまうのは、物質的なことではなく、精神的なことだろう。おそらくマダムをはじめ、往年のフランス女優など人生を先に歩む憧れの先輩方がとても上手に身に着けているのをみては「エルメスを持っている」自分を想像することで、自分も彼女たちに近づける気がすること、また、あの破格な値段だからこそ、「いつかそれを手に入れたい」と思うことが、日々の生きる糧になっているのかもしれない。エルメスを買える女になってやる!なんて。
 
今回のパリ滞在中、2人旅といえども朝晩の食事以外は単独行動をとった。しかし、マダムのエルメス本店での買い物にはついていくことになっていた。マダム曰く、エルメスの本店は別格らしいが、エルメスなんて、本店はおろか日本のブティックだって、私1人では入るには気が引ける場所だったから。
 
このエピソードを綴るのは、6年経った今でも気が重く、書いてよいものか正直、迷ってしまう。しかし、いつかマダムにも読んでもらいたいから、書くことにする。

 

 

 

滞在数日目の午後、エルメス本店を目指し、マドレーヌ寺院の前を通過するときに事件は起きた。
横断歩道を横切るとき、マダムが石畳に躓いて派手に転倒したのだ。
 
その横断歩道には信号がなく、あと数秒でもタイミングが悪かったら、彼女は車に轢かれるところだった。マダムは気合で起き上がって歩道を通過したが、まぶたから頬に血が流れ落ち、エルメスの白いスーツが血と土埃りで汚れてしまった。
 
彼女は歩ける状態ではなかったので、横断歩道の目の前にあったカフェで休ませてもらうことにした。幸い、親切なギャルソンが我々を迎えてくれ、おしぼりを持ってきてくれたり、何度も大丈夫かと声をかけてくれた。しかし次第に、マダムの額にたんこぶが膨らんできた。時間が経つにつれ、それは大きく、目の周りも青くなってきた。
 
数分おきに様子を見に来てくれたカフェのギャルソンは、脳に傷がついていたら大変だ! と騒ぎ始めた。私たちの席の近くにいた、暇を持て余していた(ようにみえた)ムッシューに声をかけ、近所の病院の医者を呼ぶよう手配をしてくれた。ムッシューはすぐに席を離れ、姿を消した。それからしばらく待ってみたけれど、お医者さんはやってこないし、そのムッシューも、一向に戻ってくる気配がない。
 
我々の隣には観光客と思われるアジア系の女性がひとり、メニューを読んでいた。私も落ち着いてエスプレッソを片手にパリのカフェを味わいたい…という邪念が脳裏をよぎったが、目をつむって思い切り首を横に振った。
 
そんな時だ。
耳に障る大きなサイレンを鳴らした救急車が車の流れをせき止めながら、私たちがいるカフェに近づいてきた。
 
まさかーー
 
ムッシューは救急車を呼んだのであった。
日本でもご縁のない、救急車である。
若く筋肉のたくましい救急隊員が降りてきた。私たちはカフェを出て、マダムは救急車の中で応急手当てを受けた。
 
外で待つこと数十分。
 
パリのエルメス本店はほんの数軒先にあるはずなのに、私は、行けない。
今は行ける状況ではないとわかっていつつも――
エルメスが、遠く感じた。
 
マダムが手当を受けている間、外のベンチに腰を掛け、マロニエの樹の先に広がる薄暗い空を見つめた。時間が経つにつれ、私の中で、マダムへの心配と、それからまだ見ぬ何かへの羨望のような思いが複雑に交差した。空を仰ぎながら、後者を必死に振り払おうとする自分がいた。
 
消防隊員の判断によれば、マダムに異常はなさそうだ。しかし、目の周りとおでこのたんこぶがはっきりわかるほど青くなっていた。念には念を入れたいマダムの希望で、救急車に乗って市内の病院で脳の状態を診てもらうことになった。私もそれに付いていくことにした。
 
あぁ、エルメス本店から遠く離れていく――
 
救急車の中からはパリの秋の街並みが見えた。
どっしりとしたたたずまいのシックなアパルトマンの前を、せわしなく行きかうパリジャンたち。
 
病院に着くまで、断続的に鳴り響くサイレン。
我々を載せた救急車は、渋滞をも難なくよけ、どんどん進んでいった。
 
渋滞が常のパリで、こんなにスムーズに移動でき、とめどなく街並みの変化を眺めることができるのは、きっとバスでもタクシーでも経験できない、救急車ならではの特権かもしれないぞ――
抑えようとしてもむくむくと湧いてくるこの邪念を必死に抑えながら、ひたすら救急車の車窓の景色を眺めた。
 
病院についてから、どれだけの時間を待つことに費やしただろう。
救急専門窓口で手続きの順番を待つ。
その後、診察を待つ。
 
マドレーヌ寺院の横断歩道を横切ろうとしてから、何時間経過しただろう。
これからあと何時間かかるのだろう。
その間、マダムとは沈黙が続いた。
彼女はずっと、何かを考えているようだった。
 
マダムはようやく、私に向かってつぶやいた。
「お買い物してきてちょうだい」
 
マダムは、私が彼女の買い物についていくことを楽しみにしていたことを知っていた。私も彼女と買い物することが、この旅の楽しみのひとつだった。でも、マダムを置いて自分だけ行くなんてできるわけがない。それに、私ひとりでは行く意味がない。
 
「いえ、一緒に待ちます」
このやり取りを何度繰り返したことだろう。
 
「あのね、智代さんにお願いがあるの」
彼女自身がしたかったお遣いを条件に、私が病院を離れ、パリに戻るように導いてくれた。
 
「はい、分かりました。行ってきます!」
 
そのことばを待っていました、というわけでは決してないけれど、私はエルメスに向かうことにした。
マダムは賢い。私が引け目を感じることなく、この場を離れられるよう、うまい切り出し方をしてくれたのだ。単にひとりになりたかったからかもしれないが……。
 
病院は出てみたはよいが、ここが一体どこだかわからない。
街並みからして、パリの中心地区とは趣が異なり、新しい街のようだ。さて、どうやって戻ればよいのだろう――
仕方がないので、地図を観たり、人に尋ねたりして手探りで中心部に向かうことにした。その病院はパリの郊外にあり、マドレーヌから程遠く、公共交通機関のアクセスの悪い場所にあった。おまけに、17時は過ぎていた。エルメスの本店はパリの中心部にあり、閉店時間がとても早いとマダムから聞いていた。今から向かっても間に合わない。
 
そのときなんとなく、エルメスの本店から「お前なんかまだ早い」と、入店をお断りされたような気分になった。
 
地下鉄とバスを何度か乗り換えて、サン=ジェルマン=デ=プレという地区を目指した。
ここはパリらしいシックな街並みで、なんとなく憧れの存在である地区でもある。
普段からまめにチェックしているパリ情報で、最近、この界隈にエルメスのブティックがオープンしたことを思い出したのだ。
憧れの本店ではないのだけれど、とりあえず、向かってみよう。
 
バスに乗ると、エルメスの代表的な革かばんでもある「ケリーバッグ」を持った老婦人が、老紳士とともに静かにおしゃべりをしている様子が目にとまった。
 
パリの中でもひと際シックな通りでバスを降り、ブティックを探した。
いくらフランスかぶれといえども、店の位置情報まで正確に分かるはずがない。良く分からない道中を迷い、冷静さを失ったが、その後なんとかブティックにたどり着いた。この通りには典型的な、どっしりと重厚なパリジャンな建物のたたずまいを前に、ずいぶん場違いなところに来てしまったような気持ちになった。しかも、素敵なムッシューが、わざわざドアの開け閉めをしている。普段、扉を誰かに開けてもらうことなんてないから、場違い感が増していった。エルメスはやはり、私なんかがひとりで入るところではない。
 
しかしその時、私と同じアジア系の観光客と思しきカップルが、ブティックに向かっていった。私はすかさず、彼らの後をついていくふりをして、店に入った。
 
パリのエルメスに入ったのは、今のところこの日が最初で最後だ。
エルメスのブティックは、商品だけでなく、空間や、その場を流れる空気自体にラグジュアリーを感じた。その空間には、雑誌で見かけるエルメスの商品が、美術館の展示品のようにひとつひとつ、丁寧に並べられていた。
これがラグジュアリーというものか。モノにとどまらない贅沢な感覚で、心が潤おっていくのを感じた。
 
病院を出ることのためらいや入店までの戸惑いから一転、私の目は、キラキラ輝いていたと思う。
まるで、今まで何もなかったかのように。
 
本場の店舗でひとりの女性としての扱いを受けながら、販売のプロの説明を受けつつ、自分にとってしっくりくる商品を選び抜いた。
始終、マダムだったらどうふるまうかを考えながら。
 
そしてその日、革のアクセサリーをひとつ購入した。
言うまでもなく、しばらく節約をすれば、なんとか手に入れることができるもの。
そして、マダムがいつも身につけているシリーズで色違いのものだ。
 
今後、ケリーやバーキンを買える日が来るとしても(果たして来るだろうか)、自分で稼いで得たこの初めてのエルメスは、一生涯の友となることだろう。
それと同時に、この日ずっと心にのしかかっていた、苦く、複雑で多様な感情も、きっと離れないだろう……。
 
お店を出て宿に戻り、アパルトマンの階下のカフェでエスプレッソを飲みながら、マダムが帰ってくるのを待った。
エスプレッソを飲み干した後は、この街の人に人気という甘いビールを飲みながら、ひたすら待った。
待つといいつつ、この日起こったことについて頭の中を整理する必要があった。
 
「あらあら、お待たせしてごめんなさいね。夕ご飯を食べましょう」
マダムに異常はなかった、道行く誰もが振り返る、目の周りにできた、まるで殴られたような痛々しい青あざをのぞけば。
 
宿にはキッチンがあるので、普段はパリジェンヌを気取ってキッチンで調理をして夕食をすませていたのだが、その日だけはそのカフェで2人、気を晴らした。
彼女は目の周りの青あざを気にもせず、私の「初エルメス」のエピソードを聞いてまるで自分ごとのように喜んでくれた。
 
とても長い1日だったけれど、今でもうれしい思いや申し訳ない思いが同時に湧き起こる、かけがえのない1日だ。
あれから6年。今度パリに行くときは、堂々と本店に行けるだろうか……。
 
大人の女への道のり、はまだまだかな。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

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2023-01-04 | Posted in 週刊READING LIFE vol.200

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