週刊READING LIFE vol.201

人生の勝者は、受験の敗者である《週刊READING LIFE Vol.201 年末年始のルーティン》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/1/23/公開
記事:牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
塾講師の私は、年末年始はほとんど休みがない。
元旦は、7時半出勤と決まっている。
皆が楽しそうに過ごすこの時期に、全く遊べないことが、私のルーティンだ。
この時期になると、周りが羨ましくてたまらなくなる。生徒は1年だけだからいい。私は25年受験をしているような日々だ。たまには、年末年始に旅行もしたい。のんびり家族と過ごしたい。好きで始めた仕事だが、ふと人を羨む自分に気づく。
 
この時期は、1月から始まる入試の追い込みでもある。不安に押し潰されそうな生徒達は、日々の問題演習で自信をつけていく。受験生に正月休みはない。張り詰めた独特の空気が漂う教室の中で、1点でも多く点を得ようとする生徒達の眼差しは、真剣そのものだ。朝9時から夜9時まで、授業と自習に明け暮れる生徒もいる。
市内受験組の気合もすごいが、少し遠くにある開成高校などを狙う生徒達のいるクラスの意気込みも怖い。都内高校受験クラスでは、過去問題を解いた後、私は1時間の解説授業をしなければならない。この授業が一番怖くて緊張する。1時間の授業のために、何時間もかけて授業の準備をしなければならないのだ。単なる答え合わせだとしたら、生徒達は露骨につまらなそうな顔をするだろう。少しでも彼らの知らない知識を与えねばならない、とプレッシャーを感じる。授業の準備に追われると、イライラしている自分に気づく。私自身が生徒達からのプレッシャーに負けそうだ。
 
街中に洗いたてのピカピカな車が走り、おせち料理がスーパーに並ぶ年末、私は1日12時間の長時間勤務の中を忙しく働く。埃まみれの車を誰かに洗ってほしくても、その時間さえない。我が家の大掃除も、ほとんどしない。そんな体力さえ残ってはいない。
それでも、いざ授業で生徒の前に立つと、身が引き締まる。入試を間近に控え、少しずつ緊張感が増してくるのもこの時期だからだ。遊びたい、休みたい……そんな言葉を絶対口にしてはいけない気持ちにさえなる。
 
年が明け、最初のテストを終えると、私が働く塾では毎年恒例のイベントがある。卒業生による激励会だ。1年前受験を経験した高校1年生が選ばれることが多く、入試で感じたことやアドバイスなどを、これから入試に向かう後輩達に伝える。
今年選ばれた高校1年生は、私の息子だった。
息子は、市内受験はそれなりにうまく行ったが、開成高校受験は不合格だった。今年の生徒達は、息子がいたクラスよりも学力が高く、開成高校合格者が何人か出るだろうとの予想だ。息子もその空気を感じていたから、スピーチに選ばれたものの、どう話をしていいか迷っていた。県立受験、私立受験、都内受験、受験パターンが違う生徒達が一つに集まっている。デリケートな時期に、彼らに余計な不安感は与えたくない。言葉選びが必要だ。不合格だった自分の存在自体が、すでに縁起が悪いような気さえする息子は、話の切り出し方に悩んでいた。
 
「僕は、開成高校に不合格でした。自分よりも学力が高い、合格できそうな後輩達の前で、何を話せばいいのでしょう? 役立ててもらえるようなことなどないような気がして……」
息子は、思うままを塾長に相談した。
「受験は、結果だけが全てではないよ。入試を通して君が感じたことを、正直に語ってくれれば、それでいいんだよ。不合格だったからと心配しないでいい……」
ほとんど人のいない静かな職員室で、息子はそっと不安な気持ちを語る。
息子は悩みながらも、夜中遅くまで、4時間かけてスピーチの内容を考えたようだ。今できる勉強のアドバイスは何か、5教科ごとに細かくまとめた。入試前の後輩達に、不安感だけは与えたくない。今からでも実践できる、ポイントを絞った学習のアドバイスを考えたようだ。
 
いよいよ激励会が始まる時間となった。
毎年恒例の激励会は、かなりの人数の生徒達が出席する。職員室にいた先生達も、全員激励会を行う教室へと向かった。皆が揃ったところで息子は教壇に立つ。
 
「皆さん、僕は1年前、皆さんと同じようにそちらに座っていた塾生です。僕も昨年、この教室で、同じように先輩の話を聞いていました。今から、皆さんに3つのお話をしたいと思います。1つ目は、勉強法です。5教科別に話をしたいと思います。2つ目は、入試会場での注意点です。そして3つ目は、メンタル面について話をしたいと思います」
息子が一番伝えたいと思っていたのは、3つ目のメンタル面の話だったようだ。心を落ち着けるかのように一呼吸おいてから、話し始めた。
 
「僕は、3年前、中学受験を失敗しています。意外とショックが大きくて、中学の3年間を通して、ずっと挫折感をもっていました。今度こそ……そう思って私立高校入試の初日に会場に足を踏み入れると、不合格だった日の光景がよみがえってきたのです。恐怖感がやってきて、試験中は左手の震えがずっと止まりませんでした」
 
自分が歩んできた苦しみを一つずつ、正直に後輩達に向かって語り出した。
「僕は、開成高校受験の準備のために、20年分くらいの過去問題を解きました。点数も少しずつ伸びてきて、合格できるくらいの点数を取れるようになって、いい調子でした」
 
話をしながら、束になった問題を後輩達に見せる。開成高校受験のために解いた問題全てだ。15センチメートルくらいの厚さはあっただろう。その分厚いプリントの束を見せながら、さらに話し続けた。
「でも、こんなに頑張った数学で、問題の傾向が変わってしまいました。僕は、いつも数学の問題は関数の問題から解くことに決めていました。時間配分も考えてあります。そして、入試会場でもいつも通りに問題を開いたら、なんと関数の問題がなかったんです。一瞬焦りました。何から解いたらいいだろう? 頭が真っ白になりました。きっとその瞬間、メンタル面がやられたのでしょう。気持ちを落ち着け、何とか得意の立体図形の問題を解きましたが、次にどう問題を処理すればいいか焦り、パニックになりました。他の問題を解いても解けなくて、数学はうまく行きませんでした。その後、ショックですぐに気持ちを立て直せず、英語もうまく行きませんでした。お昼を食べた時、もう不合格だと分かりましたが、励ましてもらった先生方の顔が頭に浮かんできます。投げ出さずに最後まで解こうと気持ちを整えました。そして、午後は理科と社会を受けました。ですが、どちらも配点が数学と英語の半分ずつしかありません。だから、どんなにうまく行っても挽回はできません。結果は不合格でした」
 
教室の中は、静まり返り、皆が息子の話に集中している。息子の顔をまともに見ていなかった生徒でさえ、話に釘付けになっていた。
 
「不合格になって1週間は、僕は勉強する気持ちになれませんでした。点数もどんどん下がっていきました。受験において、メンタル面がどんなに大きく影響するか、痛いほど分かりました。
受験には、合格と不合格しかありません。でも、僕は入試には4つの合否があると思っています。現実的な合否以外に、心の合否があるのです。僕は、人生には、どんなに頑張ってもうまくいかないことがあるということを学びました。たとえ不合格でも、心の中は成長できた気がします。皆さんにも、単なる現実的な結果だけではなく、入試の後に自分の心が成長できるような、清々しい戦いをしてきて欲しいのです。もし、私立入試がうまくいかなくて、苦しくてガス欠のような自分になり立ち止まっても、それでもいい。またそこからもう一度立ち上がって歩き出せばいい。皆さんも、自分の心が成長できるような、清々しい、いい受験をしてきて下さい」
 
自分の辛さを後輩達の前で話し、励ましている。息子の話を聞きながら、1年前の入試日を思い出した。会場から帰る駅のホームで流した息子の涙が、今でも忘れられない。きっと今でも、1年前の不合格から完全に立ち直れたわけではないだろう。
自分自身について、ありのままに語った息子のスピーチは、先生達、後輩達の空気を少しずつ変えて行った。スピーチの後、その場に残っていた後輩達が、息子に話しかけに行く。後輩達の質問に答える息子を、私は教室の後ろから黙って見ていた。話を始めた時に息子に視線を向けなかった後輩も、息子に質問をしている。きっと何かが心に響いたのだろう。息子は後輩達に心を与えられたようだ。
 
人生の中で、成功の道だけを歩んでいる人は、ほとんどいないだろう。もし、心の傷があるとしても、失敗の先にある心の傷を癒そうとする必要はないのかもしれない。トラウマはトラウマのままでいいのだ。忘れよう、癒そうとすることは、その苦しかった経験までをも否定することになる。だから、その心の傷までを自分の個性として受け入れる。乗り越えよう、忘れよう、そう思う必要はないのだ。心の傷は、自分の一部だと傷のまま受け入れればいい。
息子は今回の激励会で、自分が不合格になった理由を初めて話すことができた。話すことで心の傷がやっと自分自身の心の中に入り込み、息子自身も受け止められたようだ。
 
激励会の次の日、ある生徒が職員室に来た。
「先生、質問してもいいですか?」
3年間一度も質問に来たことがないA君の姿があった。苦手な理科に向き合い始めたようだ。息子の言葉が響いたかどうかは分からない。だが、彼も清々しい戦いをしようと、前を向こうとしているのだろう。
合格という大きな目標に向かってはいるが、生徒の心が動いた小さな瞬間は、大きな喜びでもある。息子が話した「清々しい戦い」を一人でも多くの生徒が経験できるよう、私はあと2ヶ月、全力で彼らを支えて行こう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
牧 奈穂(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、25年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。2021年12月開講のライティング・ゼミ、2022年4月開講のライティング・ゼミNEO、10月開講のライターズ倶楽部を受講。

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2023-01-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.201

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