あなたも恋愛で別人になってしまったことありますか?《週刊READING LIFE vol,98「 私の仮面」》
記事:岡 幸子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
―どんな奥さんを目指しますか?
―ぐうたらな妻
友人の結婚式で配られた新郎新婦プロフィールの一文を見て、私は衝撃を受けた。
すごい。
結婚相手にこんなことを堂々と言えるなんて!!!
いいなあ、ぐうたらな妻。
私もそれがいい。
家事は嫌いだ。できるだけやりたくない。
なのに。彼氏の前で仮面をかぶっていい子ぶっていた。
目指したのは「人もうらやむいい奥さん」
ムリだよなぁ。だから、あんな結末になってしまったのだ。
彼と付き合い始めたのは大学2年生の秋だった。
私は自分が通う女子大サークルと、色々な大学の女子学生がいる東京大学サークルの二つに所属していた。彼は東京大学の一歳年上の先輩で、年は上だが司法試験に挑戦する目的で留年したため、学年は同じだった。
付き合い始めてすぐ、
「二人のことはしばらくサークル内では秘密にしておこう」
そう言われた。カップルとして特別扱いされたくないし、今まで通り他の人たちとも仲良くしたい、そんな理由だった。そのときは、彼がそう言うならそれでいいと思ったが、半年後、二人の仲を秘密にしたかった本当の理由がわかった。
彼は、サークル内で他の女子二人とも、私の前に付き合っていたのだった。
そして、新しい恋は秘密にして、元カノたちとも「友情」を育んでいた。
そんなことは全く知らず、元カノに、彼のことを相談していた私は、まったくおめでたい。
クリスマスには私と会った後にちゃっかり元カノの家に行き、プレゼント交換もしていた。一体彼は、どういうつもりだったのか。
私を、下に見ていたことは間違いない。
法律好きで弁が立ったので、議論になると言いくるめられてまず勝てなかった。
私がなかなか納得しないと、
「お前にはまだわからないだろう。もう少し大人になったらわかるよ」
と、上から目線で切り捨てられた。
みじめな気持ちになるのが嫌で、まあいいかと思えることは全部譲った。そうして10のうち9まで譲ったところで、最後の一つ、どうしても譲れないことだけを必死で主張した。すると、
「お前は頑固だ。僕がいつも譲っている」
そう思われた。あっさり譲った9割は、私も同意見だと誤解された。
そんな男をどうして好きになってしまったのか。
今となっては若気の至りと言うしかない。恋人関係になるまでの期間、彼は相当優しく、未熟な私の恋心をあっという間に持っていってしまった。
当時の私は「初めての恋人と結婚して一生添い遂げる」という乙女チックな夢を抱いていた。
彼は「そんなこと考えているのか!」と驚きながらも、笑ってその夢を肯定してくれた。
嬉しかった。夢が目標になり、私の行動は彼の指示に従うことが多くなった。
それは、本当の私ではなく、彼の前だけに出現する仮面をかぶった私だった。
自分の意思で仮面をかぶったのだから文句は言えない。彼のいい奥さんになるという目標を立てたのは、他でもない自分だった。
恋愛は「貝合わせ」に似ている。
ぴったり合えば幸せだが、無理して合わせようとしたらひずみが出る。
どちらか一方が、相手の形に合わせようとして大きさや形をごまかそうとしたらどうなるか。例えば粘土をつけて一時的に形を整えても、すぐに欠けて補修を繰り返すことになるだろう。直しても直しても、またすぐどこかが欠けてしまう。
当時の私は、選んでしまった貝に自分を合わせることに必死な補修師だった。
足りないところを補い、出っ張りを削り、絵柄も合うように塗りなおした。
それは、仮面と仮装で装った別人を生きるのと同じだった。
当然、辛かったが、努力をすればするほど頑張った過去の自分が惜しくなり、
「こんな恋は二度とできない」「これほど誰かを愛せない」と思いつめた。
今なら、そんなのは初めて本格的に恋をしたときに多くの人が抱く、ありふれた感情だと知っている。それまでの人生で一度も放出されなかった恋愛特有の神経伝達物質が、恋人のことを考えるだけで脳内にぶわっと分泌されるのだ。麻薬のような快感と、それを失う不安が同時にやってくる。自分の変化に驚いて、こんな変化を自分にもたらした相手はこの世に一人しかいない「特別な存在」だと思い込む。本当は、次の恋もちゃんとできるし、もっと大きな幸福感を得ることだってできるのに、未来に保証はないから踏み出せない。自分には合わない相手でも、いないよりはましに思えてしまうのだ。
失ってゼロになるのが怖い。
ないよりはまし。
私が、まさにそれだった。
彼は、元カノ以外にも旅先で出会った女子大生に声をかけ、東京で会う約束を取りつけたりもしていた。そういった細かい出来事を逐一手帳に書いて、それを不用意に出しっ放しにするものだから筒抜けだった。問い詰めて手帳を隠されるより、彼の行動を知りたかったので黙っていた。彼は私が何も知らないと思ってよくウソをついた。そして、相変わらず上から目線だった。
「そんなんじゃダメだ。僕のお嫁さんになるならもっと〇〇しなきゃ」
叱られて行動を矯正されることも多く、自宅でよく泣いていた。
「あなたには合わないんじゃない?」
母親に心配されても、「大丈夫。結婚する」と意地になっていた。
両家へ挨拶に行き、大学を卒業するときには「婚約者です」と指導教官や友人に紹介した。
就職してしばらくたつと、ようやくこの貝合わせのひずみを、自分一人で補修し続けることが馬鹿馬鹿しくなってきた。
ひずみがあるなら、彼も補修に協力してくれれば、私の努力は軽くなる。
彼が私を大事に思ってくれるなら、一緒に考えてくれるだろう。
当時、就職して2年たったら私が仕事をやめて彼の勤務地へ行くというプランを立てていた。まず、そこから異議を唱えてみた。
「仕事、2年でやめたくない」
「仕事と家庭の両立ができるほど、器用じゃないだろう」
「1カ月くらいなら毎晩違うおかず出せるよ」
「いや、365日、毎日違う料理がいい。僕が行ってた家庭教師先の奥さんはそうしてたよ」
「そんなの無理。本当は、家事嫌いだもん」
ついに本音を言ったら、彼は心底驚いた表情を見せた。
「そんなこと言うな!」
今度は、こっちが驚いた。
私が仮面をはずすことをこの人は許さない。だとしたら、この人が見たいのは仮面で仮装した私だけ?
それを認めることは辛く悲しかった。本当の自分は無視され愛されていないということだから。そうまでして結婚して、果たして幸せになれるのだろうか?
ゼロになるのが怖くても、手放さなければいけない恋がある。
ようやく覚悟が決まったのは、付き合い始めて3年が過ぎたその年の暮れだった。
思いつめた気持ちで、私は彼に聞いてみた。
「私のどこが好き?」
「素直なところだよ」
「それだけ?」
「素直で、僕のお嫁さんになろうと思って頑張っている姿が、いじらしくて可愛いと思えるんじゃないか」
「……」
「今のお前は、僕の婚約者失格だ」
その瞬間、心の糸がぷっつりと切れた。
婚約者失格?
ならば、どこまでいっても彼の合格基準には達しない。
いずれ「妻失格」「母親失格」とののしられることになるのだろう。
彼が恋した相手は、良き妻になろうと努力する仮面の女で、リアルな私ではなかったということだ。
ずっとウソの自分を見せてきたのは私の意思だった……。
それできっと、彼のウソも見て見ぬふりができたのだ。
この人と結婚すると勝手に決めて目標にした。彼の本質をよく見たのかと聞かれたら……自信がない。都合よく勝手に解釈していた気がする。だからちょっと突っ込んだ話をしただけで、お互いに驚いたのだ。その気がなければ相手の本質はわからない。そして、本質など知らなくたって恋はできる。よくわかった。
終わらせよう。
目標が結婚から、婚約解消に切り変わった。
東京で仕事を続けたいから地方へは行けない。
私はあなたの結婚相手にふさわしくない。
もう何を話しても無駄な気がして、理由はその二つだけで押し通した。
そして私は、次の恋へ……すぐにいければよかったのだが。
長いこと、心のもやもやが晴れなかった。
彼が本当に私のことを好きなら、5年くらいたって「やっぱりお前じゃなきゃダメだ」とか言いにきてくれるのではないか。などと、あり得ないほど乙女チックなことを心の奥で夢想した。
転機が訪れたのは、別れて2年後の秋だった。
「久しぶり、元気にしてた?」
突然、彼から電話がきた。
しばらく話してピンときた。
「もしかして、結婚するの?」
「じつは、そうなんだ」
「ふうん、どんなひと?」
「短大出の女の子で、友達の紹介で知り合った」
ずっと以前、母から言われた言葉を思い出した。
「あの人にはあなたみたいに仕事をしたい女性より、短大卒くらいで家庭に入る子がちょうどいいのよ」
何ということか。
私が片方だけになってしまった貝合わせの貝を握りしめ、どっちにも進めず呆然としていた間に、彼はさっさと自分にぴったり合う貝を見つけ出していた。
今さらどうでもいいと思いながらも辛かった。
別れを決めた自分もある意味仮面だったのだ。
そして今この瞬間も、
「バカヤロー、ふざけんじゃないよ! 家庭に入る女なら誰でもよかったのかい!」
そんな風に彼をののしる代わりに、私は静かに言っていた。
「おめでとう。お幸せに」
最後の最後まで仮面を取らなかったのは、なぜだろう。
女だけど、“男の美学”ってやつかな。
心の中で、持っていた貝を遠くへ放り投げた。
もう当分、恋はいいや。
そんな気分だった。
―ぐうたらな妻
そうなりたいと宣言した友人の花嫁姿は、とても凛々しく美しかった。
新郎は、落ち着いた大人の雰囲気の男性で優しそうだった。きっと、彼女の全てを受け入れてくれるのだろう。
結婚するなら、仮面はやめた方がいい。
お互いに、そのまま一緒にいられる相手がラクでいい。
「もう30歳すぎちゃいましたよ。そんな相手にこの先出会えますかねぇ」
婚約解消事件からずっと、私の黒歴史を平気で話せる異性がいた。ただの友人で、「この人とはあり得ない」と思っていたので恋愛対象にならず、全部ぶちまけて相談できる人だった。
―あ、この人だ。
ある日、突然気がついた。
ぐうたらな妻になり、ぐうたらな母になった。
今は私の知らないところで、夫が泣いていないことを祈るのみだ。
□ライターズプロフィール
岡 幸子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
物」の講師を担当。2019年12月、何気なく受けた天狼院ライティング・ゼミで、子育てや仕事で悩んできた経験を書く楽しさを知る。2020年6月から、天狼院書店ライターズ倶楽部所属。「コミュニケーションの瞬間を見逃すと、生涯後悔することになる」で天狼院メディアグランプリ週間1位獲得。
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