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書店人のエゴイズム《天狼院通信》

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村上春樹さん訳の『グレート・ギャツビー』を読んだのはいつのことだったろうか。

今日まで、内容は覚えていなかった。たしか、ギャッツビーというすごい男がいて、誰かが死んで、誰かが殺されたような、そんな内容だったはずだ程度にしか、記憶になかった。

ただ、読み終えたあとに、どうしようもないほどの、ある種の「衝動」が生じたことは覚えている。

たとえば、それは、理不尽な怒りにも似ていて、けれども決して怒りではなく、限りなく怒りに近い感動ととでも言えば、あるいは少しは近いかも知れない。

ともあれ、当時の僕は、小さな書店の店長をやっていて、その新書サイズの味気ない装丁の本をクレイジーなほどに売りまくったのだった。看板を作り、本を山盛りにして、その書店に一歩足を踏み入れたならば、その本を読んでいないことが恥ずかしくなるほどに、『グレート・ギャッツビー』を売ることに夢中になった。

 

その時、なぜそんな衝動を覚えたのか?

 

今の今まで完全に忘れさってしまっていたが、今さっき映画『華麗なるギャツビー』を観ることによって、たちどころにその衝動の記憶が蘇った。

それはもう色鮮やかに蘇った。

それはまるで、もう亡くなってしまったと思い込んでいた恋の衝動を、昔よく聞いていた曲が流れたときなどに蘇り、どうしようもなく立ち尽くすときの、あの感覚に似ていた。

ギャッツビーが初めてデイジーにキスをするときの、あの一瞬のためらいを、もしかして誰もが一度は感じたことがあるのではないだろうか。

それは実に、野性的な本能に直結していて、野心を達成するためには、恋は確実に邪魔になるとわかっているのに、どうしても抗うことができずに引きこまれてしまう。運命といってしまえば綺麗かもしれないが、それは真実、諦観なのだろうと思う。諦め、渦に飲み込まれて、「自分を支配」できなくなることを、どこかで楽しもうと思ってしまう。

あの一瞬で、宇宙を見たギャッツビーの直感は、あの瞬間に自らの未来を予言したのだろうと思う。

おそらく、結末は悲劇になるだろうと。

 

対岸から見る緑色の光を手に入れようと、ギャツビーは全てを捧げる。

本能に身を落としたことで「自分を支配」できなくなるという、自らの予言めいた直感を覆すために彼は生涯を捧げる。混沌とした時代の中の、混沌とした街の中で、彼だけは至極シンプルに自らの未来をその手につかもうとする。

語り手であり、書き手である彼が言うように、彼には「どんな状況からも希望を見出す」ことができる、誰にも真似のできない優れた能力があった。

それを、彼はただひとつのシンプルなことに捧げたのだ。

名声も、成功も、それによって築かれた富も、ただシンプルに自らの未来を掴むだけに捧げた。

まさに、「グレート」な生き方をジェイ・ギャッツビーはした。

 

こうして僕は、記憶を頼りに本の中身をやみくもに語り、また同時に映画の断片も語っているのだが、どれだけ言葉を費やしても、この小説の魅力も、映画の魅力も伝えきることはできないだろう。

なぜなら、この小説を読み、またこの映画を観ることによって生じる衝動は、言葉で語り尽くすにはあまりに莫大だからだ。

 

ギャッツビーがデイジーを自らの城のようなギャッツビー邸に招き、中二階から階下のベッドにいるデイジーに、綺麗に折りたたまれた世界中の生地を放おり投げるのを観るとき、

書き手の彼がタイプライターでその小説を書き上げて、一瞬考えた後に「ギャッツビー」のタイトルの上に、手で「グレート」という文字を書き加えるとき、

そして、緑色の光が消えて亡くなってしまおうとするときに、あなたは言葉では語り尽くせない衝動を胸に宿すはずだ。

おそらく、それはいくら論理的に泣いたところで、少しも鎮まることのない衝動だろうと思う。

 

たとえば、自分の店に来てもらったお客様に、その衝動を味わってもらいたいと思う。

なんとしても、その世界の素晴らしさを味わってもらおうと、クレイジーなまでに本を手にとってもらうための仕掛けをする。

 

そういったある種のエゴイズムを、僕は肯定しようと思うのだ。

それこそが、書店人の醍醐味だろうと思う。

 

お客様が欲しいものを先回りして差し出すのが本物の書店人なのかもしれない。

あるいは、押し付けがましいことをしないで、お客様が選ぶのを邪魔をしないのが、本物の書店人なのかもしれない。

 

けれども、そんなこと、知ったことはないのである。

 

少なくとも僕は、天狼院では、そういったエゴイズムをむき出しな側面を持ちあわせようと思う。

お客様はクレイジーと見紛うほどの、過剰な情熱によってその場所に引き寄せられるのではないだろうか。

過剰な情熱によってしか、他では味わえない体験を提供することはできないだろうと思う。

 

皆さんにもおそらく、それぞれの「緑色の光」があるだろう。

僕の場合、それは書店を作ることだ。

もう少しで、あと少しで「緑色の光」が手に入る。

それは、ギャツビーとは全く違って、実に「野心」に満ちたものであるけれども。

 

ただ、ギャツビーがあの刹那に感じた、一瞬のためらいを、僕もどこかで待ち望んでいるのやもしれない。「野心」をなげうってでも、落ちたいと思う何かを、人は無意識的に求めているのかも知れない。

 

小説『グレート・ギャツビー』には、小説であることの全てが込められている。

そして、映画『華麗なるギャツビー』は、その世界観を昇華しきってしまっている。

 

どちらも、体験しない理由が見当たらないのである。

 

ぜひ、小説を読み、そして映画を観ていただきたい。


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