深夜残業とアウシュヴィッツ
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記事:三城 詩朗(ライティング・ゼミ平日コース)
とっくに忘れていたはずの記憶が、何かの拍子にふっと現れる経験をしたことはないだろうか。3年前の春、私はそんな経験をした。
その日の夜、私は一人で残業していた。もう4月だというのに寒い日で、最低気温は一桁台だった。午後10時にオフィスの暖房が止まった。私は、室内の温度が下がっていくのを肌で感じた。自分が温度計になったような気がした。
時刻は午前2時を回った。PCとにらめっこを続けていた私は、作った資料に間違いがあることに気付いた。今日の仕事はやり直しだ。
だめだ、もう頭が働かない。私は仕事を放り出して、始発電車の時間まで会議室で仮眠することにした。作業を間違えた自分、季節外れの寒さ、色々なものが腹立たしかった。ほとんどふて寝の心境だった。
ところが、会議室の床に寝転んだものの寒くて眠れない。とぼとぼとゴミ捨て場に歩いて行き、段ボールを拾ってきて床に敷いてみた。床からやってくる冷気は、段ボールをあっさり通り抜けて体に染み入ってくる。何が悲しくて、一人オフィスで段ボールの上で寝なくてはならないのだろう。
そのとき突然頭に浮かんできたのが、「アウシュヴィッツの囚人たちも寒かったんだろうなあ」という考えだった。
その日の約半年前、私は妻と一緒にアウシュヴィッツ収容所を訪れていた。第二次世界大戦中に、ナチスドイツによる大量虐殺の舞台になった場所だ。諸説あるが、収容所が稼働していた5年弱のうちに、100万人以上が殺されたと言われている。
学生時代から、私は「負の世界遺産」とも言われるアウシュヴィッツ収容所を見てみたかったが、その機会もなく30代になっていた。結婚して新婚旅行の予定を立てているときに、半分冗談で妻にアウシュヴィッツ行きを提案してみたところ、意外にも妻は賛成してくれた。結果、新婚旅行の途中にアウシュヴィッツ見学を組み込むことになったのだった。
アウシュヴィッツを見学してまず気付いたのは、お涙頂戴的に収容所の悲惨さを訴える展示がされていないことだった。当時の建物や物品がそのまま残されていて、事務的な解説文が張り付けられているだけだ。
囚人がかけていた眼鏡の山、囚人が履いていた靴の山、処刑に使われた毒ガスの空き缶の山……。いろんな山を見た。広大な敷地の中を、淡々とした事実の提示がただひたすらに続いていた。
立ち止まって祈っている人がいる。イスラエル国旗をマントのように羽織った集団が、円陣を組んで涙を流しながら歌を歌っている。日本で普通に暮らしていたのでは感じることのできない空気があちこちにあった。
囚人たちが暮らしていたのは、家畜を入れておくのもかわいそうなくらい粗末な小屋だった。こんなボロ小屋で、人間がヨーロッパの寒い冬を越せるわけがないと私は思った。
寝台は、木と石で作ったカプセルホテルのベッドのようだった。狭くて、まさにうなぎの寝床だ。床には、排泄物を流すための溝が掘ってある。囚人たちは、何を思いながらこの寝台で寒さに耐えていたのだろうか。
……そんなことを、段ボールの上で眠れずにいた私は突然思い出したのだった。私は、今の自分とアウシュヴィッツの囚人を比べてみた。建物はきれいなオフィスビルだし、ヒートテックの服を着ている。午前2時まで時間をかけた仕事はおじゃんになってしまったが、命まで取られるわけじゃない。どう考えても、アウシュヴィッツよりずっとましだった。
私は、今の状況を楽しみ始めている自分に気付いた。まるで雪山でキャンプでもしているような、不自由さを楽しむ気分になっていた。私はそのまま眠りに落ちた。
しばらくして、私はスマートフォンのアラームで目を覚ました。午前5時前だった。もうすぐ電車が動き出す。私はオフィスビルと直結している東京メトロの駅へ急いだ。改札を抜け、ホームに向かった。私はまたアウシュヴィッツのことを考えていた。
アウシュヴィッツでは、収容される際に全ての私物が没収された。
「荷物は出所する際に返却するので名前を書け」と看守に言われ、囚人たちは律義にトランクに名前を書いた。時が流れ、アウシュヴィッツを訪れた私は、部屋いっぱいに積み上げられた名前入りのトランクの山を前に言葉を失った。囚人たちは、トランクに名前を書きながら何を考えていたのか。そして、ガス室で何を思ったか。
無人のホームで始発電車を待ちながら、私は思った。午前2時まで仕事が終わらない、仮眠する部屋が寒い。一体、それが何だというのだろう。今の仕事は、自分がやりたくて選んだ仕事だ。仕事が終わらないのは自分が間違えたせいだ。部屋は寒いが眠れないほどではない。なにより、私は明日を自分で作ることができる。
アウシュヴィッツには、年をとって時間ができてから行けばいいと思っていた時期もあった。新婚旅行の途中で訪れるには重苦しい場所ではあったが、あのとき行っておいてよかったと思う。
帰国してしばらく経つと、旅行のことを思い出すことはなくなった。でも、その記憶は私の中にちゃんと残っていた。突然顔を出したアウシュヴィッツの記憶のおかげで、深夜残業したあの日、私は自分で自分の機嫌を取ることができた。
疎遠になっている友人と会う、気になっている映画を観る、なんだって構わない。気になっていること、やりたいことは、少しでも早くやっておいた方がいいと強く思う。
一見忘れてしまったようでも、その記憶は心の中にちゃんとストックされていて、何かの拍子にふっと出てきて助けてくれることがある。午前2時に、冷たい段ボールの上でふてくされていた私の心を軽くしてくれたアウシュヴィッツの記憶のように……。
うとうとしている間に、始発電車は自宅の最寄り駅に着いた。段ボールで寝た体はがちがちに固まっていて、あちこちが痛い。すぐに会社へとって返して仕事をやり直さなくてはいけない。でも、気持ちだけはやたらと前向きだった。
早く家に帰って、シャワーを浴びて着替えようと思った。私は早足で歩きだした。
***
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