メディアグランプリ

妻のお願い~彼と納豆と彼女~


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:大村沙織(ライティング・ゼミ超通信コース)
※これはフィクションです。
 
 
「お願いがあるの」
 
5月の連休が始まった日の朝、食事の最中に真剣な顔つきで佳香からそう言われたとき、正樹は悪い予感しか感じなかった。あまりに改まった雰囲気だったので、余命宣告でも受けるんじゃないかと錯覚さえ覚えた。正樹は覚悟を決めて、緑茶と共に唾を飲み込み、妻の言葉を待った。
「朝食を―連休明けから朝食をご飯からパンに変えたりしたら怒る?」
「……はい?」
拍子抜けするあまり、間抜けな声が出てしまう。思わず佳香にそれだけ? と確認するが、彼女はきょとんとした様子で頷いた。
 
正樹は今年に入ってからの自分の家庭での姿を思い起こしてみる。メーカーで装置開発の仕事をしている彼の日々は多忙だ。家を出るのは海外の取引先との時差に合わせて早朝、帰宅は終電ギリギリという生活。年度末を越えてやっと落ち着くかと思った矢先の連続出張。家を空ける機会が多く、家のことをする余裕もなかった。そんな状況だから、妻からどんな無理難題を言われてもなるべく応えようと、昨夜から決心をしていた。なにせこの4月から大学に通うために家を出た娘の文乃の見送りもできなかったのだ。文乃の引っ越しの準備や入学手続きだって、ノータッチに等しい。厄介事の1つや2つくらい頼まれても仕方がないと腹をくくってからの、先程の「お願い」である。
「本当に? 他には?」
「今のところ別にないけど……何? 何か欲しいものでもあるの?」
尋ねる佳香に怒りの感情は見られなかった。ただ家のことを任せきりにしてしまったことは事実だったので、正樹はその旨を素直に謝罪することにした。ひとしきり話を聞いた佳香はなぜかにやにやしている。
「何がそんなにおかしい?」
「実を言うとね、ちょっと怒ってたのよ? 文乃も『お父さんがいない』って文句言ってたし」
正樹には返す言葉がない。
「でもそれもさっきまでの話。ちょっと安心したの。ちゃんと家のことも見ててくれてたんだって。そしてそんなに申し訳ないと思ってるのなら、お願いも聞いてもらえるかなあと思って。で、どうなの? 大丈夫なの?」
「僕は構わないけど、何で急に……? あ、文乃が家を出たから?」
ひとまず難所は乗り切れそうだと安心すると共に、最初の「お願い」に意識を戻す。
 
文乃はパンが苦手だ。そのため食事、特に朝食は和食が定番となっている。焼き魚、甘くない卵焼き、具沢山のみそ汁、白米と納豆。旅館で出てくるようなスタンダードな和定食。毎日変わらないメニューだが、魚やみそ汁のバリエーションが豊富にあり、正樹も文乃も飽きずに食べていた。それを洋食にしたいというのは、文乃が家を出たことがきっかけなのだろうと思った。2人分しか用意しなくて良くなった今、準備も楽な方に切り替えたいというのが佳香の本音なのかもしれない。
「そんなところ。じゃあ連休明けからパンにするね。教室で磨いた腕前をやっと披露できるわ。―そうだ、心配なら文乃にも一言連絡入れておいたら? あの子も安心すると思うわ」
ほっとした様子で、佳香は自分の皿を重ねる。その様子を見ながら、正樹は佳香が数か月前から文乃の反対を押し切って、パン教室に通い始めたことを思い出していた。文乃からすると、自分の嫌いなものを作ろうとする母親の姿が不可解だったのだろう。正樹が少しだけ仕事から早く帰れた日に、二人が軽く言い争っていたのを覚えている。次の日には何事もなく過ごしていたようなので、どうにか和解したのだろうとは思っていたが。
「もう少しでこの食事も食べ納めか……って待てよ? どうして連休明けからなんだ?」
何とはなしに気づいた疑問を口にした途端、食器を片付けようとする佳香の体が固まった。何かまずいことを言ったのだろうか?
「2人前の準備が大変なら、明日からパンにした方が楽なんじゃないか?」
「……まだ材料が全部揃ってないの。それに文乃が連休中に帰って来るかもしれないでしょ? それまでは和食が良いのかなって」
明らかに動揺している。
「それに種生地を作る必要があるパンもあって、いろいろと準備がいるの。だから、ね?」
無意識なのか早口になっているところがますます怪しい。
「佳香」
改めて名前を呼ぶと、彼女は小動物のように身を縮こまらせる。
「僕はね、昨夜から今日は君の要望になるべく応えようと決めていた。君の『お願い』は分かったし、どうやら叶えることができそうだ。けれどそこに理由があるのであれば、それも知っておきたい」
 
佳香は下を向いてしばらく考え込んでいたようだが、観念したようだ。しかし続く彼女の言葉の意図が、正樹には理解できなかった。
「連休が明けないと、あなたが会社に行かないでしょ?」
頭に疑問符を浮かべている正樹の表情を見て、佳香が更に付け加える。
「もっと言うとね、あなたが会社に行く朝に、納豆を食べてほしくないの。だから連休明けからは洋食にしたいの」
ますます彼女が何を言いたいのか、分からなくなった。業を煮やしたらしい佳香が立ち上がって、つかつかと正樹の横に立った。耳元で声を潜め、囁いた後、すぐに自分の席に戻り、下を向く。その彼女の顔は真っ赤で、それにつられるように彼女の「お願い」の意味を理解した正樹の顔も朱に染まる。
 
「仕事前のいってらっしゃいのキスを、口が納豆臭い人にしたくなると思う?」
 
顔がにやけてしまうのを隠しつつ、正樹はそっと佳香の様子を盗み見た。彼女はまだ下を向いている。次いで自分の食卓にも目をやった。幸い納豆には手つかずのままだ。
「佳香」
名前を呼びながら立ち上がって、彼女に近づく。反応して顔を上げた額に、さりげなく口づけた。
「納豆は食べてないから安心して」
固まる佳香を残し、正樹は空いた皿をさっと片づけ、彼女の分もシンクに持って行く。小さく鼻歌を歌いながら、この後文乃に連絡しようと心に誓う。母親がパン教室に通う本当の理由を、彼女は知っているのだろうか? 最終的に許可したということは、もしかしたら知っているかもしれない。そのときは文乃に礼を言わねば。連休明けが早くも待ち遠しい正樹なのであった。
 
 
 
 
***
 
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2021-08-11 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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