稲川淳二って季語だよね?
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記事:石川 高生(ライティング・ゼミ)
稲川淳二は、そろそろ季語になってもよいのではないか。毎年、この季節になると、同じセリフを言い、同じように笑い、同じように酒を飲んだ。
「毎年同じことを言っていて、よく飽きないな?」という僕の言葉に、微笑みながら悪態をついていた彼女は、もうここにはいない。
また夏が来た。僕は約束通り、普通に生きている。たぶん来年も、再来年も、何ごともなかったかのように普通に生きていく。
彼女はバブル期の終盤、まだ職場の花という職種が存在していた時代に仕事に就いた。もちろん公に職場の花などという働きかたがあったわけではない。それでも、その言葉を許容する空気が蔓延していたし、そんな馬鹿げた時代が早晩に終わるなどとは誰も考えていないかのような、うわついた時代だった。
その一方で、男女機会均等の推進が声高に叫ばれ、制度を作る企業が増えはじめた時期でもあった。女性総合職、女性の働きかたを変える。そんな掛け声は完全に空転し、誰の意識も変わらぬまま、働きにくい職場がどんどん増え続けていった。
当時、彼女の職場には、機会均等の意味をきちんと理解している人は少なかった。無意味でも毎日のように残業する。家族をより職場を優先し、飲み会を断らない。体力の続く限り働く。意味不明な解釈をし、理解したと勘違いしている上司が大手を振って歩いていた。彼女は、眉間の皺を化粧で隠しながら必死に耐えた。不満を飲み込み、激務をこなした。誰よりも働いた自負はある。いつか報われる時が来る。いつか尊敬できる人に出会える。そう思い続けてきた。もう一年がんばってみよう、もう一年、あと一年だけ。しかし、その願いは遠のくことになる。
定期異動によって、彼女は、まったく畑違いの職場へ異動することになった。これまで積み上げてきたスキルも人脈も完全にリセットされる。役職はあれども立場は見習いである。決して望んだ仕事をしてきたわけではない。それでも、長い間かけて習得してきたものがある。成果だってそんなに悪くないはずだ。
それなのに、という思いはあった。でも、働いていれば普通にあること。そう言い聞かせ、キャリアリセットを受け入れた。
大きな会社ほど男女を問わずキャリアリセットを前提とした異動がある。幅広い知識? 適材適所? 新しい可能性? かなり無理がある理由付けである。相当分厚いスキルを持っていない限りは、一歩進んで二歩下がるだけだ。
分かっていても、会社という生き物に軌道修正する能力はない。末端の痛みを感じる神経を持つには体が大き過ぎるし、いらない臓器が増え過ぎている。問題であることは分かっている。分かっているが解決には時間を要する。会社の衰退が先か、解決の方程式が解けるのが先か。前例に従い問題はいつまでも先送りされ続けていた。
「男なみに働く」という、意味不明な掛け声と誤った解釈のもとで数年間働き、彼女の心身は予想以上に痛んでいた。
異動の直後から、子宮筋腫、胃腸炎、食道炎と立て続けに体を壊し、思うように働けない日々が続いた。それでも何とか調子を取り戻し、さてこれから、そう思った矢先に、故郷に住む母親が倒れた。一命は取り止めたものの不安は募った。
積み上げてきた年月と、報われない思い。先行きへの不安に涙が止まらない夜もあった。うまく笑えない日が多くなった。それでも負けたくない。必死に食らいつこうともがき続けた。
「人間って、立ったまま眠れるんだね。マグロに親近感を覚えたよ」そう言って笑った顔には、疲労以外に何も見てとれなかった。
彼女は今日も疲れた体を吊革に預けながら、満員の地下鉄に揺られていた。うとうと居眠りをしていた時、不意の急ブレーキに足を取られた。
横に立つ男性を軽く押す形になり「すいません」と軽く頭を下げた。
彼女の声に振り向いた男性は「大丈夫ですか?」と言葉を返した。
『大丈夫です』なら分かる。『大丈夫ですか?』はこっちのセリフだ。言い間違えたのだろう。彼女はそう思った。
捻った足首を気にしながら顔を上げた時、地下鉄の窓に酷い顔をした女が映っていた。生気のない瞳、目の下のクマ、寝癖が残る髪。男の言葉は間違いではなかった。おおよそ大丈夫ではない、どこから見ても可哀想な女がいた。限界かもしれないな。そう思うと涙が止まらなくなった。
「他人に幕を下ろされるくらいなら自分で降ろすよ」彼女は、320円の珈琲を飲みながら『辞表』と大きく封筒に書いた。
「これだけ手書きが廃れても、辞表だけは何で手書きなんだろ?」冗談を言う元気もないくせに彼女は気丈に振る舞っていた。
僕はその手元を見つめながら「もう一杯飲む?」と無関係な返しをすると、まったくこいつは、という顔でこちらを見ながら、封じ目に〆と書いて、封筒を鞄にしまった。
「故郷の母も心配だし、ここらが潮時だよ。潮目を読めなかった自分が悪いんだ。負けたわけじゃない。だから何も言わないで」
「仕事も見つけたし、結婚相手だってすぐ見つけちゃうよ。心配いらないから」
「あなたは、がんばり過ぎちゃダメだからね。普通でいるのが一番よ。約束ね」
そう言うと、冷めた珈琲を一気飲みし、すっと席を立った。
故郷に仕事のあてがないことも、介護が言葉以上に大変なことも知っている。だけど今は何も言わない。言ったところで、言うことを聞かないことは分かっている。ならば、何も言わずに送ろう。彼女は負けたわけではない。選択したのだ。僕は自分に、そう言い聞かせた。それでも悔しくて涙がこぼれた。彼女は、そんな僕に、ハンカチではなく、卓上にあった吸水性が悪そうな紙ナプキンを手渡した。してやったりの笑顔は、心なしかほっとしているようにも見えた。僕は笑い返そうとしたが、うまくいかなかった。僕は彼女に聞こえないように「がんばって」とつぶやいた。
最終出社日、彼女は笑顔で花束を受けとった。涙を見せないのは、彼女のプライドであり生き方だ。行き場をなくしていた戦いに幕を下ろす。働けば働くほど、きつく蓋をされる働き方をやめにする。長過ぎたかもしれない。戦い過ぎたかもしれない。それでも後悔は口にしたくない。
「短い間でしたがありがとうございました」
20年以上も働いた職場での最後の言葉には、心からの感謝と、心からの皮肉がこもっていた。
そう言い残し職場を去ってから3年後、彼女は、あっけなく逝ってしまった。
電話では1年はもつと言っていたのに、舌の根も乾かぬうちにいなくなるか。相変わらず仕事が早い。病院は暇だろうから、貸しの目録を枕元で読み上げてやろうと思っていたのに残念だ。奢るというからついていった高級焼肉。財布を忘れてきて、結局おごったのは僕だったね。初版のサイン本をブックオフで100円に換えた罪も重い。ポールマッカートニーのチケットを家に忘れて来たのも致命的だった。でも、まあ許そう。
厄払いだといって、人の財布から1万円を賽銭箱に投げ入れたことも、おかげさまで無事に厄を終えたから結果オーライとしよう。先に死んでしまったことも、死んでしまったものは仕方がない。許すも許さないもないだろう。テレビドラマじゃあるまいし、先に死ぬなんて許さないなんて口が裂けても言わない。自分が言われたら間違いなく困ると思うから。
でも、ひとつだけ頼みがある。夢枕には立たないで欲しい。足元に立つのも禁止する。迷わず成仏して下さい。僕はこれからも淡々と生きていかなくてはいけないんだ。もう一度言う。夢枕には立たないで欲しい。きっと怖いから。
生き急いだ分、これからはゆっくりするといい。キミのことも、キミの残したものも、何ひとつ背負うつもりはないけれど、何ひとつ忘れることもない。たぶんだけど。
たぶんでもバチはあたらないだろう。貸しはいっぱいある。おおめに見て欲しい。
だいいちキミとは、そこまで友達だったのかも分からないし、友達でいたかったのかも分からない。もう証明もできないし、しても仕方がない。過去にどんな関係であったとしても、これから先は別々の道を行くんだから。
僕はこれからも普通に生きていく。淡々と、何ごともなかったように生きるよ。約束する。
でも、年に一度だけ、キミを思い出しながら言うよ。
「稲川淳二って季語だよね?」
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