私25年前は稲垣潤一コンサートツアースタッフでした
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「徳田さん、お電話ですよ」
「えっ? 私に、ですか?」
1991年5月21日。この日は上福岡にある装置メーカーを訪問し、導入を進めていた半導体評価装置の仕様打ち合わせをしていた。当時、横浜市港北区にあるイーストマン・コダック(ジャパン)研究開発センターで、私は写真のデジタル化に対応すべくLEDアレイの開発をしていた。
携帯電話の無い当時、出張届には「緊急連絡先」として、出張先の担当者氏名と電話番号を書くことになっていた。しかし、私の30年近い仕事人生において、携帯電話が普及し「緊急連絡先」を書かなくなるまで、後にも先にも、この日以外に「緊急事態」で出張先に電話がかかってきたことはなかった。
その「緊急連絡先」に電話がかかってくる、ということは「緊急事態」なのである。
この年、私は稲垣潤一さんのコンサートツアースタッフをしていた。
と言っても、会社で普通に働きながら、時間外や休日、たまに休みを取って出かける裏方のお手伝いである。
「徳田さん、今年、稲垣君のツアーでドラマーがアメリカ人の”D”なんだけど、奥さんが日本人のくせに、全然、日本語が話せないんだよね。だれか通訳してくれる人いなかな?」
はんなりした京都弁を話す谷口守さんに聞かれたのは1月頃だったと思う。谷口さんは、鷺沼にあるアスレチックジム「アスリエ」のテニスサークル仲間で、毎週ほとんどの土日午前中を一緒にテニスをして過ごしていた。
谷口さんはすらっとした長身であるが、いかにもアーティストという外見でもなく、堅実なプレースタイルから銀行員だと思っていた人もいる。が、前年は稲垣さんのツアーでコーラス&ギターを担当していたミュージシャンで、作曲家でもある。谷口さんのお願いなら断れない。
当時勤めていた会社が外資系だったので、英語が上手な秘書の方々にあたってみたが、みんな「音楽用語とかはわからないし……」と断られた。しかたがないので、結局、私が、スタジオリハーサルの初日だけ、会社を休んで世田谷の環状8号線近くにあるスタジオに出向くことにした。
稲垣さん自身もドラマーなので「こう演奏して欲しい」という微妙なニュアンスは、実際にやってみせることで問題なかった。通訳が本当に必要になったのは、明日の集合時間と場所や、どういう段取りで進める等々、ほとんど最後の少し時間だけで、リハーサルの数時間をほとんど見学できたのは、ミーハーの私にとって楽しかった。
その日から、会社の仕事を終えて世田谷のリハーサルスタジオに通う日々が続く。毎日、19時頃まで普通に仕事をした後、鷺沼インターから用賀インターまで東名高速を飛ばしてリハーサルスタジオに向かう。スタジオに行っても、ほとんどコントロールルームでマネージャーの横澤さんとリハーサルを見ているだけで、最後の業務連絡を少し通訳するだけであるが、終わるのは深夜で、東名高速を飛ばし鷺沼まで帰ってきて、翌日は普通に会社に出勤する。
事情をよく知る、隣の席の可愛い後輩は、
「徳田さん、遊びすぎで過労死しますよ~」
とか言っていたが、ゴールデンウィークの休みまで、本当にクタクタの毎日であったが、スタジオ通いは止めなかった。
リハーサル終盤、ステージでの動きが入る段階になると、芝浦の倉庫にある広いスタジオに移ったが、やはり芝浦まで通った。当時はレインボーブリッジも建設中で、ピンク色だった建物が、今では濃い青色に変わっているが、東京出張でモノレールにのるたび、その建物の存在を確認している。
5月10日、幕張市民会館で、コンサートツアーの初日が明けた。
結局、相模大野や八王子など、東京近郊で行われるコンサート会場には、仕事を終えてから出向いていた。ほとんど通訳の仕事は無いが、ステージ下手の袖から見るコンサートは、間近のバンドと盛り上がる客席が同時に見えて、お気に入りのポジションであった。
「緊急」で電話をかけてきたのは、稲垣さんのツアーでピアノ、キーボードを担当する塩入俊哉さんであった。このツアーでは塩入さんが”D”の担当として面倒を見ていたのである。塩入さんは、私の会社に電話をして「緊急連絡先」を聞き、出張先まで追いかけ電話をしてきた。
その電話は「”D”がフィリピンで飛行機に乗り遅れて、明日の神戸のコンサートに間に合わないかもしれない」という内容であった。
ただ事ではないことは確かであるが、事情がよく判らない。出張先での打ち合わせを終えて八王子の塩入さんの自宅に向かうことにした。出張に同行した同僚には「親戚が危篤で、対応を相談するので、八王子のおじさんの家に向かう」と言って別れた。
コンサートツアー中、遠出は禁物である。よりによって海外に行き、その上、飛行機に乗り遅れるとは言語道断。とは言え、明日の神戸国際会館のコンサートをなんとかしないといけない。
インターネットの無かった時代である。時刻表を調べるだけでも一苦労であるが、塩入さんと作戦会議を行い、ピンポイントではあるが可能性が見えた。
・フィリピンから到着する”D”を、別の友人が成田で出迎え、羽田まで連れてくる。
・私が扉に一番近い席をチェックインした上で待ちうけ、羽田から伊丹に向かう。
・伊丹でイベンターさんが待ち受け、車で神戸国際会館に向かう。
なんとか開演30分前には間に合いそうだ。
翌日、危篤だった親戚が亡くなったことにして、会社を休んだ。
計画どおり羽田に向かい、予定の飛行機にチェックインして”D”を待つ。成田から連れてきた友人から”D”を引き受け伊丹空港に向かう。伊丹空港ではイベンターさんがゲートで待ち受けており、神戸国際会館に滑り込む。国際会館に到着したときには、開場待ちのファンの列の横をタクシーで通り抜けていった。
万一の場合に備え、前年にドラムを担当した人を仙台から呼び寄せ、その年に追加した曲を、新幹線の車内で塩入さんが教える、というバックアップも取っていた。当日のリハーサルが行えなかったので、稲垣さんはバックアッププランを採用し、”D”は神戸のコンサートでドラムを叩くことなく終えた。
「温厚な徳田さんが、あんなに怒るところを見たことが無い」と後で言われたが、反省会で塩入さんが”D”に語る何倍ものことを説教していたに違いない。この日は「通訳」ではなかった。
「緊急事態」も含め、色々あった59本のコンサートツアーも、11月18日、19日、武道館のツアーファイナルコンサートで幕が下りた。
「徳田さんと、来年も一緒に仕事ができるといいね」
コンサートツアーの打ち上げで、稲垣さんが語ってくれた夢が実現しなかったのは、本当に残念でならない。私が翌年転職する会社が、稲垣さんのコンサートツアースポンサーになるかもしれない、という話をプロデューサの野口さんから聞いていた。
明石生まれ、大学・大学院の9年間は大阪と、根っからの関西人である私が東京近郊に住んだのは4年間だけであるが、最後の1991年は忘れ得ない年となった。
私が結婚式の二次会を東京で行った際、レコーディングと日程が重なっていた稲垣さんは、人数の少なくなった4次会に駆けつけてくれた。今でも、関西で稲垣さんのコンサートがあるときには家族で出かける。
そう言えば、このツアー以来25年、”D”には会ったことがない。調べてみると、東京のミュージックスクールでドラムを教えているようだ。
音楽に対してどんな心構えを説いているのか、一度”D”のレッスンを受けてみたいような気もする。
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