夏の熱と影の向かう先
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:渡邊真由子(ライティング・ゼミ4月コース)
※この記事はフィクションです。
夏が来た。強烈な日差しと熱がわたしを包む。
今日もそう。退勤してビルを出た瞬間、わたしのからだのすべては熱に捕らえられる。腕に絡みつくような湿度。この季節に毎日、毎瞬のように感じるこの感覚は一瞬にして「あのとき」へわたしを連れて行く――
「もう無理。キミとは一緒にいられない」
職場の更衣室。何気なく見たスマホに届いたメッセージ。時が止まったような気がした。
何が起こったのか理解できなかったけれど、言葉の意味を理解し始めたわたしは激しい戸惑いと不安に襲われた。心臓の鼓動が早くなる。
年齢だけは十分オトナなのに、わたしはその言葉を受け入れることができなかった。
私服に着替えて外に出た。夕方だというのに日差しが眩しい。むせ返すような熱が地面から立ち上り、一瞬にしてわたしの全身にまとわりついた。息苦しさを覚えるのはこの熱のせいだろうか。否、きっと違う。
「どう返信すればいいの? これからどうすればいいの? どうしてこうなっちゃったの?」
自問しても答えが見つからない。
駅へと向かう道は何人ものひとが行き交う。汗か涙かわからない雫が地面に落ちた。
こんなときは誰もが無関心の都会に住んでいて良かったと思う。歩きスマホやおしゃべりに夢中なひとたちばかりで誰もわたしに関心などない。今や彼にとってのわたしもそう。通り過ぎてゆく景色のひとつに過ぎない。その事実にまた涙が込み上げる。
ドラマや小説だとこういう場合、誰かに相談したりツラい想いを打ち明けたりすることがある。でもわたしは妙な励ましや、妙なアドバイスなど聞きたくなかった。ただ自分の気持ちに蓋をせず、ただ流れるままに涙を流し、ただ自分のいまの気持ちを抱き締めたかった。
「寄りかかれるひとはもういない」
絶望にも似た感情がわたしを支配しようとする。生きている意味があるの? 消えてしまいたい、とさえ思う。
背後から聞こえて来る蝉の合唱。7日間しかないという彼らの命の限りの声がわたしの嗚咽を掻き消す。ときどき止んではまた始まるその音だけがわたしの心に響く。
大きな幸せが欲しかったわけじゃない。ただ彼と穏やかな時間を過ごしたかっただけ。いままでは喧嘩をしても仲直りできたのに今回だけは違う。何故こんなにもすれ違ってしまったのか。
思い返してみると自分の幼さに気がついた。彼は誰よりも優しかったけれど、完璧な人間ではない。当然わたしも。それに多分わたしは「こうであって欲しい」と思う彼の姿を勝手に彼に求めていた。それが負担だったのかもしれない。
ひとつひとつの出来事は小さくても、積もり積もったそれらは彼の心の堤防を決壊させるのに十分だったのだろう。
こうなったときの彼は何度連絡をしても繋がってはくれないのを知っている。
連絡したい衝動を抑えながら時間が過ぎるのを待つしかなかった。
理性では理解できる。だけど感情はそれを拒否する。止めたくても滲んでくる涙が憎い。
この現実を受け止めよう。そして忘れよう。
そう思えば思うほど何も手につかない日々が続いた。食事も喉を通らず、どこにいても勝手に涙が溢れてくる。まるで自分が自分ではなくなって夏の熱で霞んでゆくようだった。それくらい大切なひとだった。それなのに……。
「一旦すべてをリセットしよう。全部壊して再生すればいい。この熱い日差しがまだ続くうちに、明るいうちに、自分を立て直そう。」
そう思えるようになったのは何日も経ってからのことだ。
わたしは彼にまつわる想い出をすべて処分することにした。彼がくれた指輪。彼との写真。彼が好きだと言ってくれた下着や服。涙に暮れながら淡々とゴミ袋に詰めていく。
たいした量ではないだろうと高をくくっていたものの、終わってみればクローゼットのほとんどが空になった。何も残っていないガランとしたクローゼット。それは今のわたしそのものだった。
暫く立ち尽くしたわたしは、はたと気付く。
不思議なものだ。あれほど泣きながら処分を進めたというのに清々しさが心の中に広がっている。まるで雨上がりの青空のよう。そしてこんなことを思った。
もしかしたら、これまでのわたしは本来のわたしではなかったのかもしれない、と。彼の趣味に合わせ、彼のペースに合わせ、自分の主張をあまりしてこなかった。それが愛される秘訣だと信じて疑わなかった。そもそもソレが間違いだったのかもしれないのではないか。
わたしは途絶えさせていた彼とのメッセージ画面を開く。
「返信遅くなってごめんなさい。あなたの気持ちはわかりました。今まで本当にありがとう。どうか元気でね」
一瞬だけ送信する手が止まった。きっと返事はない。でも、これでいい。これでいいんだ。新しい自分のページをめくるためにきちんと終わらせるんだ。
女の記憶は上書き保存。
よく聞くそれは本当かもしれないと、ふと思った。そして上書きされて見えなくなった記憶はきっと、わたしという女の陰影として刻まれてゆくのだろう。もう自分を殺して生きることは二度としない。
目的もないまま思い切って外に出てみた。
夏の夕暮れ時。湿度は相変わらず高く「待ってました」とばかりにわたしを包みこむ。遠くから蝉の合唱が聞こえ、あたりには草の匂いが立ち込める。少しばかり影が長くなっている気がした。
「さあ、どこへ行こうかしら。どこへ行くのももう自由なのだから」
清々とした気分でそう呟いてみた。
熱を帯びた弱い風が吹き、肌に纏った甘く儚いジャスミンの香水がふわりと鼻先をかすめる。
その一瞬だけすべての熱を忘れるわたしがいた。
***
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