メディアグランプリ

遠慮は社会の迷惑です


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記事:ありのり(ライティング・ゼミ平日コース)

「わたくしのようなものが、委員長なんて器ではないのですが……」
彼女の遠慮がちなその挨拶の言葉を聞いて、私ちょっとイラっとした。

そして、反射的に心の中でつぶやいた。
「つべこべ言わずに、ただやればいい」

つぶやいてから、我ながら少々おどろいた。「私、なにを怒っているんだろう」

それは、小学校のPTAにおける各委員長選出の場での出来事である。
毎年4月下旬、その年度の新しいPTAの郊外委員、広報委員、学年委員、成人委員、図書委員が集まり、体育館でそれぞれの委員ごとに輪になって座り、各委員長の選出が行われる。

委員長は、輪番制でもなく、押し付けでもなく、各家庭の事情も配慮したうえで、推薦投票で決まる。
PTA委員長を担うことはたいてい敬遠されており、選出会の日は、みな地味目の服装で参加して、なるべく自分を出さないようにしている。

しかし、その人がもつ人柄というのは隠せないのであろう。
選ばれた各委員長の顔ぶれを見ると、緊張したり困ったりしているような様子で新委員長席に腰かけてはいるものの、やはりどこかに落ち着きや頼もしさが漂う人が選ばれていた。

件の彼女も、控えめさを意識して挨拶をしてはいるが、彼女の周りに漂うおおらかで親しみやすそうな雰囲気は、ひとに安心感を与える。そのリーダー的な素養を皆が無意識に感じ、推薦するに至ったのだろう。

とはいえ、だれもやりたがらない委員長を任され、期待を背負うことや人前に出ることへの抵抗感、そして失敗しないようにやらなくては、という気負いは大いに理解できる。
果たして責任を果たせるだろうかという不安から、「わたくしのようなものが……」と、謙遜の言葉を発したくなったのも無理はない。

にもかかわらず、私の中に小さな怒りの感情が湧いた。
彼女に腹が立ったのでは決してない。彼女になにも罪はない。
しかし、私の何かの価値観が反発していたのだ。

別の日、仕事で日本トップクラスの大学の学生らと交流する機会を得た。ここでも、私は少々イラ立ち、軽くショックを受けることが起きた。
そして、帰り道に電車の中でこうつぶやいた。
「彼らがもっと傲慢だったよかったのに」

そう、彼らには、「有能な頭脳を持つ者の傲慢さ」を感じられなかった。
彼らはみな、良い子だった。スマートで、従順だった。
そして、あまりに謙虚だった。

その大学で行われたワークショップで、私は彼らと円陣を組んで対話会を行った。彼らは終始お行儀よく席につき、人の話を聴く態度も礼儀正しく、メモもよく取っている。

しかし、会における発言は一部の元気な学生に偏った。
きっと多くの気づきやアイデアが、その優秀な頭脳にあふれているであろうに、全く発言のない学生もいた。

ためしに発言を促すと、「いえいえ、わたしなんて」と遠慮する。もしくは、当たり障りのない発言をする。そのくせ、他の学生が率直な生の意見を述べたとき、「そうそう、自分もそう思っていた」という風に、おおきく頷いている。

「思うことがあったなら、あなたが言えばいいのに」
PTA委員長選出会で「つべこべ言わず、やればいいだけ」と思ったときと同じ感情につつまれた。

その対話会の中である学生が発言したこのセリフに、彼らの発言不足の一因を見た。
「入学して驚いたことは、あまりに優秀な友達が多いことです。自分なんか、下の下だと思いました」

優秀校に入学した学生が感じるよくある劣等感だ。
高いレベルの大学には、学力が高いだけではなく、数学オリンピックで賞を取っています、ピアノのCDを出しています、3か国語ペラペラです、などと才能もあふれている学生がごろごろいる。その上、イケメンで高校時代はサッカー部のキャプテンだったとくる。

そんな非の打ち所がない天才肌の学友らを目の当たりにし、頭をうしろから殴られるような衝撃を受けて「わたしなんか」と小さくなる。
圧倒的な相対の中でそのような想いをするのは、よくよく理解できる。

がしかし、彼らはまぎれもなく日本有数の頭脳を持っている。その大学に在籍していることがそれを証明している。
しかし、その事実を持ってもなお、自分の豊かさに意識の焦点をあてず、足りないものを凝視して萎縮している。

彼らの資質は、のびのびと場に提供されることがないまま対話会は進む。

率直な発言が遠慮される対話は、何も生まないものだ。
それは間違っていたり、独りよがりだったり、考え不足な発言でもよい。
場はゆらぐ。ゆらぎから気づきは起きる。
ゆらがぬ場は、なにも起きない。

自分より優れた人がいる。それがどうしたというのだ。優劣なんてどうでもいい。そこに資質はあるのに。
「ああ、もっと傲慢になって!」私は彼らに向かって叫びたかった。
いや、実際、たまりかねてこう伝えた。

「遠慮や謙遜って、結構迷惑なことなのよ」

ひとは、自分の短所を受容することを恐れる。
それと同じように、いや、もしかするとそれ以上に、自分の長所を受容することも実は恐れている。

知能、リーダーの資質、美しさ、影響力の大きさ、やさしさ、自信、楽天さ、華やかさ。
それらを受け入れると、同時に発生する責任や周りからの妬み、期待に応えられなかった時の恥への恐れも同時に引き受けなければならなくなるからだ。

よって、ひとは遠慮や謙遜をして、その持てるものを出し惜しみする。
周りは、社会は、そのひとの資質を享受できなくなる。

そういうことに、私はカチンとくるのだ。
そこに求められるものがあり、与えられる資質も持つ者がいて、本人に思いもあるのにそれが遠慮で差し出されない。そんな場を見て、私は人差し指をふりながらこう詰め寄る。

「遠慮は社会の迷惑なのよ。つべこべ言わず、やればいいだけ」

……そう、他人に向けた指先は、必ず自分に向かっている。
それは、私自身のことだ。
私はPTA委員長選出の場で、大学生との対話会で、彼女や彼らを通して自分自身を見ていたのだ。

近年、所属するあるコミュニティでとある役割を担おうか迷っている。
私の特技で対応できそうな課題がそのコミュニティにはあり、メンバーの顔ぶれを見る限り、私がやったほうがよさそうだ。
私自身も、そこに純粋な貢献欲求がある。
力になりたい。

しかし、それは少々華やかな役割であり、それを引き受けると妬みを買ったり「目立ちたがり屋」と思われたりするのが嫌だった。また、手を挙げておいて失敗するのも怖かった。
そんなことをつべこべと考えて「私なんかが」と躊躇していたのだ。

「ふふっ。なんだ、自分に怒っていたのか」
私は急に笑えてきた。

そして、決めた。

「わかったよ、腹をくくろう。遠慮は社会の迷惑だ。やっかみでも目立ちたがり屋でも恥でも引き受けてやろうじゃない」

決意したとたん、胸にさわやかな風が通った。

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2017-04-29 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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