【カッコ悪くなければ生きる意味なんてない】本を読んでこんなにも恐ろしい気持ちになったのは初めてだった。~本気の読書感想文:朝井リョウ「何者」《川代ノート》
※この記事は、朝井リョウ・著「何者」(新潮社)のネタバレを含みます。
最近ありがたくも、天狼院のホームページで記事を上げさせていただいて、自分のFacebookにもリンクを貼って多くの知り合いにも読んでいただいている。私は書くことが大好きなので、自分の文章をこんな風に公にして読んでもらって感想までいただけるのは本当に嬉しいし、今までにない喜びを感じている。今までこれといって熱中できるものが無かった私が、初めてと言ってもいいくらい、熱中できているのがこの「書く」という作業なのだ。人前でしゃべるのがあまり得意ではないので、その分文章には自分の思いを吐き出しやすいのかもしれない。
けれど正直に申し上げて、嬉しい一方、不安で仕方がないというのも本音である。
自分の文章を読まれるのは全裸を他人に見せているようなものだ、とどこかの作家さんもおっしゃっていたと思うが、まさにその通りで、自分が書いたもの=普段考えていること、を知られるというのはけっこう恥ずかしい。かなり恥ずかしいと言ってもいい。学生の頃に書いた文章を大人になってから読み返すと青臭くて恥ずかしくて死にたくなる、とはよく聞くが、実際に自分でも中学の頃の作文なんかを読み返すと、論理も根拠もしっちゃかめっちゃか、とりあえず綺麗な言葉を並べとけー、みたいな香りがプンプン漂ってくるし、高校生の頃に書いていた日記なんかを見返すと、村上春樹に影響されてその独特の文体とか比喩表現があちらこちらから見つかって、恥ずかしくてベッドに顔をうずめずにはいられないような内容だし、やはりきっと成長してから自分の文章を見直すと恥ずかしくてたまらないんだろうな、というのは予想が出来ている。
ぶっちゃけてしまえば、読んでいる方々から記事についてどう思われるか、ということはもちろん、それと同じくらい、「記事を書いている私」がどう思われているのかも、めちゃくちゃ気になるし、不安なのだ。
記事について「こういう考えは違うな」とか、「自分とは合わないな」とかいうご意見、ご感想ならまだへっちゃらである。もちろん「ああ、やっぱり自分の考えは甘かったかも?」とか「つじつま合ってないとこあるよな・・・」と反省することはあるものの、コメントをいただけるだけでもありがたいし、違う価値観を知れるのも面白い。
けれど、「記事を書いている私」に対するコメントをもらえることはほとんどないので、一層気になるのである。もちろん私自身への悪い意見だったらただの中傷か悪口になってしまうので、それを言われることはまずない。だからこそやっぱり気にしてしまう。
「記事なんか書いて、自分に酔っちゃってるよ」とか、「こんなことエラそうに語って、恥ずかしい奴だな」とか。いわゆる「痛いやつ」と思われていないかどうか。必死で自分すごいですアピールしている人に見えていないかどうか。
朝井リョウ「何者」。
そんな不安を抱えていた私にはあまりにも、恐ろしすぎる小説だった。嫌な自分をそっくりそのまま、本のかたちにして差し出されたみたいな気分だった。現実を突き付けられすぎて、読むのをやめたいのに、ページをめくる手がとまらない。これほど自分にとって恐ろしい小説を読んだのは初めてだった。
就活生の本音と建て前、SNS上にできあがる理想の自分。登場人物すべてが、まるで自分自身のことのように思える。キャラクターはそれぞれ、各々の傍から見た「痛さ」を持っているけれど、そのすべてに自分は当てはまる。どう考えても自分は「痛い」のだ。海外ボランティア、留学、TOEIC、毎日キャリアセンターに通っているとツイッター上でアピールする意識高い系女子。就職活動の仕組み自体を批判し、一人で生きていく道を模索していて、人脈を増やす自分に酔っているアーティスト系の男、自分のやりたい演劇をやると決めて、大学をやめて劇団を立ち上げ、夢をクサい言葉で発信する男。とにかく就活していた身からすると、「あるある~」ということばかりで、いるよね、こういう自己アピールする承認欲求強いやつ、と共感してしまうような大学生ばかり。
けれど本当に恐ろしいのは、そういう「意識高い系」のSNSで自分をアピールしたい人たちを分析している自分自身が、一番「何者」にもなれていないということだった。就活とはいわば自分が社会に認められるかどうかの一種のものさしである。そんななかで、何十社も面接を受けて落ちまくり、不安にならないわけがない。社会に必要とされていないと決めつけられたような気がするのだから、当然だ。誰だってどこかで「自分アピール」をしなければ、他人よりも自分が秀でていると思わなければ、精神を保っていられないのだ。みんな必死で「意識高い」ぶったり、「就活に参加しない変わってるオレ」を演出したくなったり、そんな「痛い」行動をとらずにはいられない。
けれどそういう輩を「こういう心理だな」とか「プライド高いな」とか「アピールしちゃって、痛いやつだ」とか、そういう風に分析してしまう人間が、一番不安で臆病で、認めてほしいと思っているのだ、誰よりも。高みから見下ろして、周囲の必死な人間を冷静に分析することでしか自分の優位性を確認できない。「プライドが高い自分」を認められない典型的なタイプだ。こういう人間になると、とにかく内心では人の批判ばかり、優越感に浸ることでなんとか精神を保つことが出来るが、実際には何も行動に起こさない、努力をしない、ただ観察しているだけ。「痛い」やつらを傍観して、自分は「痛く」ないと安心する。そうすることで自分は社会に必要な人間だと思いたい。ややこしくて、めんどくさくて、改善するのにものすごく時間がかかる。
私はまさにこのタイプだった。必死にアピールして就活をせっせと頑張る人たちを「ダサい」と内心貶したり、「自分はあんなふうにプライド高くない」と思い込もうとしたり。けれどそんなことに拘っていること自体が、他人を見下して精神を保とうとする証拠にほかならなかった。人を下げることで自分を上げる。自分が上に行きたいから、まわりが下がってくれることを願う。だから周りをバカにして、嘲って、自分はみんなとは違う、必ず私をきちんと正面から認めてくれるチャンスが来るはずだ、と信じたくて。
けれどそんな機会が訪れるはずはない。私が行動しなければ、私自身を上のステップへのぼらせてあげることなんて無理なのだ。記事を書くようになって、自分を晒しまくって、恥ずかしい思いをして、「ダサくて必死な自分」を認められるようになって、ようやく、私がまさに周囲を見下すだけの「観察者」であったことを実感した。
「何者」でもなく、ほかでもないたったひとりの「自分」になりたければ、恥ずかしい思いをするしかない。生きるとは恥ずかしいことなのだ、そもそも。他人から嗤われて、馬鹿にされて、見下されて当たり前のことなのだ。恥ずかしくてダサくてかっこ悪い自分を認められなければ、何かやりたいことを成し遂げたい理想の自分自身になることは出来ない。他人から「痛いやつ」と思われることを恐れていては、何を成し遂げることもできないのだ。
他人からどう見られるか、を気にしないのははっきりいって、私にとっては無理である。だって気にしちゃうもん。痛いって思われたくない。
でも私がそう思っているということは、たぶんみんなも思っていることなのだ。きっと誰だって社会から認められたいし、自分がうまくいっていないときに友達の成功を心から祝うことなんて出来ないだろう。痛いやつになりたくないのも同じだ。
でも「他人からの目」を気にしてしまうことすら「痛い」とすれば。みんな多かれ少なかれ痛い人間なのだ。たぶん一度も「こいつ痛いな」と思われたことのない人間なんていない。何か行動するときには、恥ずかしい思いをしなければいけないこともある。
こうやって書いていることももちろん必死で自分アピールをしている「痛い」「恥ずかしい」ことなのかもしれないけれど。でももうどうしようもない。どんなに見下されようと、自分に陶酔していると思われようと、こうして文章を書くことをやめてしまえば、私は「何者」にもなれない気がするのだ。
いちばん最後のシーンで。
「短所は、カッコ悪いところです」
「長所は、自分はカッコ悪いということを、認めることができたところです」
この言葉に、つきると思う。
カッコ悪くなければ、生きている意味なんてないのかもしれない。
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