イソップ童話「すっぱいぶどう」の「きつね」だった私は、いまここで頑張ってあがこうと思える。《三宅のはんなり京だより》
こんにちは。遠隔インターン生、という割に今は東京にいる、京都大学文学部三回生の三宅香帆です。京都のみなさん、洪水は大丈夫でしょうか。
前回の私の記事を発表する前、三浦さんと川代さんが、ものすごくハードルの高い「予告記事」を打って下さいました。
私はあの二つの記事を読んだ後、
こんな風に思ってもらえるなんて嬉しい、と素直に思った一方で、
どうしようもない「ふるえ」が、身体を襲いました。
そしてそこで、私はとある物語を思い出したのです。
今日はその話をしようと思います。
私も弟も妹もまだ小さかった頃、私の母は、いつも寝る前に絵本の読み聞かせをしてくれた。
ぐりとぐら、バムケロシリーズ、がらがらどん、おやゆび姫……ここで読んでもらった数々のお話は、たぶん私の脳の一番底の方に敷きつめられている。
そんな中、「イソップ童話集」を母が読み聞かせていたとき、
きょうだい3人揃って「これつまらーん!」と言いだしたことがあった。
キャラクターもストーリーもなんかたいくつや。これほんまにおもしろいん?それよりぐりとぐら読もー!と、私や弟はだだをこねた。妹に至っては寝ていたのではないかと思う。
しかし母は、「何言っとんの、ぐりとぐらよりも、イソップ童話の方がよっぽど今のあんたたちにぴったりな話が書かれてるよ」と言い放った。
そこで「えっじゃあかほにぴったりな話って何なんー?」と私が聞いたとき、
「そうねえ、かほちゃんにはこれかな」と言いながら読んでくれたのが、
『すっぱいぶどう』という物語だった。
「お腹を空かせたきつねが歩いていると、おいしそうなぶどうが枝から垂れていました。
きつねはどうにかしてぶどうを掴もうと、爪先立ちしたり、飛び跳ねてみたものの、どうしても掴むことができません。
しばらくして、じーっとぶどうを眺めていたきつねが言いました。
「ふん、あんなぶどうおいしくないや。まだ、すっぱくて、食べられやしない」
きつねはぶどうを睨みつけると、そのままどこかへ行ってしまいました。」
何だか善悪はっきりしない微妙な話が「ぴったりだ」と言われた私は、何となくいやーな気持ちになった。そして、
「えーなんでこの話がかほにぴったりなん?わたしこの話の何がわるいんかわからん!だれかに迷惑もかけてないし、きつねさん別にわるくなくない?」と言ってそっぽを向いた。
そのとき、母は、ため息をつきながら「ま、この話の意味がわかるようになったら、あんたも大人になれるよー」と言っていた。
――ごめんなさい、お母様。今ならこの話を読んでくださった意味がよーくわかります。
私は、その頃から今に至るまでずっと、どうしようもなく見栄っ張りで、プライドが高い人間なのだ。
私は昔から、「恥ずかしい想い」をするのが苦手だった。
何かに失敗して、誰かに「あいつ失敗してやんの」って思われるのがいやでいやでしょうがなかった。「かっこわるいな」って思われて、恥をかくのがいやだった。見栄を張ってプライドを保って、カッコ悪くない自分でいたかった。
だから私はいつも、できるだけ「失敗する」リスクの少ない選択をしてきた。
要するに、「負けない戦」をするようにしてきたのだ。
勝負するのは、勝算があると思う時だけ。負けそうな時は、戦わない。
「えーそんな戦いあるの?私知らないなぁ」ってぼんやりふんわりしてるフリをしていた。
だけど、私は知ってる。
心の中で、自分が誰より、意地汚くて、ずる賢くて、利己的な人間であることを。
受験勉強だって就活だって、本当の第一志望を言うことにずっとためらいがあった。言って失敗したらどうしよう。京大志望なんて言って、出版社志望なんて言って、失敗して「ほらやっぱり、分不相応なとこ受けるからだ」って言われるのがこわかった。そのくせその試験に通る方法について、誰にも言わずに必死で調べている自分がいた。
恋愛だってずっと、「自分からアプローチしたことない、告白されたことしかない」って言いたかった。例えそれが、見込みのない相手は諦めただけの話だったとしても、「モテる子」でいたかった。失恋したなんて、カッコ悪くて言いたくなかった。
たとえば誰かに敵意を向けられても、いつも敵意に気づかないフリをしていた。または敵意をこわがるだけのフリをしていた。絶対にその敵意に対抗しようなんて思わなかった。その敵意に対抗して、実際負けたら、いやだから。「ほらやっぱり私のほうが上」って向こうに勝ち誇られたくなかったのだ。
なんて、なんてなんて傲慢で意地汚くて見えっ張りな自分。
だけど私は、ずっと、それが「見栄」であることすら、認めたくなかったのだと思う。
「見栄」のために、ほしいものをほしいとか、勝ちたいとこで勝ちたいとか、それを言えない自分なんて、いやだったから。
だから私は、手に入れられなかったものは
「だってあれはもともと欲しくなかったんやもん」って言ってしまうのだ。
そうすれば恥ずかしくないから。カッコ悪くないから。
そんな私は、他人の「期待」というものが、ずっと苦手だった。
期待されると、「やめてーーーハードル上げないでーーー!!!」と全力で思ってしまうのだ。
「これよかったよ」って褒められるのは嬉しいし、次も頑張ろう、って思える。
だけど、「期待してるよ」って言われると、嬉しいのと同時に、「どうしよう」って思うのだ。この期待に、応えられなかったらどうしよう。
だって自分の中だけだったら、ハードルが下げられるのだ。
予想を低く低く見積もっておけば、転んでも「まぁ予想してたし」ってあまり傷つかない。
手に入れられなくても、「まぁ最初からそんな手に入れたいと思ってなかったし」って自分を納得させられる。
予防線を張って、できるだけ自分が傷つかないように守ってあげられる。
でも、他人の期待は、自分以外の人が持つものだから、私が下げられるものではない。
せいぜい「や、わたし、そんなすごいとこ、狙ってないです~~……」ってマイペースぶることくらいしかできない。
もし失敗したら、その期待に応えられなかった、予想した姿になれなかった自分だけが残る。そしてそれは同時に相手にバレる。失敗した、恥ずかしい、カッコ悪いだけの私を、相手に見られる。
そんなの自意識過剰だ、他の人はあなたの失敗をそこまで見てないよ、と言われてしまえばそれまでの話なのだけど、
でも過剰であろうがなんであろうが、自意識がいい方向に向かってくれなければ、私は一生私の自意識に苦しんで終わってしまう。
だからずっと私は、他人の「期待」というものがずっと苦手だった。
志望校や第一志望の会社、片思いの相手を言って、「えーがんばってねー!かほちゃんなら絶対大丈夫だって!期待してるね!」と言ってもらうことさえ、苦手だった。
そんなの社交辞令だったとしても、他の人にとって私の結果は気にするようなものでなくても、
いいからハードル上げないでー!やめてー期待しないでー!!と思っている自分がいた。
でもそれは、
「このきつねさん悪くないもん」「だから私に必要な話って言ったって意味ないもん」「私にそんなイソップ童話でたしなめられなきゃいけないとこなんてないもん」って思ってた小さい頃の私と、
結局、何も、変わっていないのだ。
「自分は自分らしくマイペースにやろう」なんて楽な言葉で自分を甘やかして。
「自分は勝ち負けに参加してないだけなんだ」なんて思い込んで。
ぶどうをすっぱいと決めつけて、そんなぶどう欲しくないから、ってそっぽを向く「きつね」である私のままだ。
ほんとは心の奥底では悔しくてしょうがない気持ちでどろどろのくせに。
ほしくてほしくてしょうがなくて、何度も振り返ってぶどうを見てしまうくせに。
私ぜんぜん傷ついてないもん、って言い張る。
だけど。
それじゃ、ぶどうを味わうことは、一生ない。
意地汚くて、ずる賢くて、利己的な私は知ってる。
わたしには叶えたいことがあること。
わたしにはしたいことがあること。
カッコつけてばっかじゃ、いられないこと。
ほんとは、そのぶどうが、甘いことを、私は知ってる。
だったら。
だったら結局、頑張るしかないのだ。
見栄もプライドもちゃんと捨てて、
期待を超えていくしかないのだ。
ぶどうを必死に掴もうとするしかないのだ。
他人の期待があろうとなかろうと、私は私のぶどうを食べたいって頑張るしかないのだ。
「そのぶどうを掴む」という自分のブレないハードルがあったら、
きっと他人が自分に課すハードルの高さは関係なくなる。
誰が私に何を期待してようと、私は私のハードルを越していくだけだと思える。
そしてきっとそうやってハードルを越すことができてはじめて、
「ああ、意外とほかの人は私が失敗するかどうかを見張ってないな」と思えるのかもしれない。
「期待っていっても、そんなに気にするほどじゃなかったんやん、なーんだ」って笑えるのかもしれない。
でもほんとにそうかどうかは多分、ハードルの高さばかりを気にしているうちはわからないのだと思う。
私は、天狼院書店で、ちゃんとあがこうと思う。
川代さんや三浦さんの期待を超えられるかどうかは分からないけれど、
私はきっといつまでも自分の文章の下手さに、コンテンツの狭さに、PVの少なさに苦しむのだろう。
もうやだむりだ、川代ノートもほかのスタッフさんの文章も三浦さんの文章もあるんだから私は読者として見てればいいやん恥をさらす必要ないやん、って投げ出したくなるのかもしれない。
だけど、だけど私はやっぱり、誰かにこの文章を伝えたい。伝わってほしい。届け届け届け、と思って書いている。
あがいて伝わるなら、私はいくらでもあがこうと思う。
恥をさらすことで伝わるなら、私はいくらでも恥をさらそうと思う。
「私の言葉で誰かを励ましたい」という野心を、私は、「すっぱいぶどう」だと思いたくはないのだ。
そして、ちょっとだけ思う。
このイソップ童話には続きがあるんじゃないか、と。
今の私なら、続きをこう書く。
「お腹を空かせたきつねが歩いていると、おいしそうなぶどうが枝から垂れていました。
きつねはどうにかしてぶどうを掴もうと、爪先立ちしたり、飛び跳ねてみたものの、どうしても掴むことができません。
しばらくして、じーっとぶどうを眺めていたきつねが言いました。
「ふん、あんなぶどうおいしくないや。まだ、すっぱくて、食べられやしない」
きつねはぶどうを睨みつけると、そのままどこかへ行ってしまいました。
だけど振り返って、きつねはもう一回頑張って掴もうとしてみました。
なんどもなんども飛び跳ねた末に掴めたぶどうの一粒は、小さくても、これまでにない甘さでした。
よおし、今度はぜんぶ掴んでみせるぞ、そう思ってきつねは頑張ったのですが、なかなか掴めません。なんども飛び跳ねていると、きつねはとうとう、すてんと転んでしまいました
転んだきつねは、今まで気づかなかったいちご畑が向こうに広がっていることに気づきました。
そのいちご畑に歩いてゆくと、同じように、ぶどうを一粒だけ食べているたぬきと出会いました。
たぬきとは「頑張って掴んだちっさなぶどう、小さかったけど、すごくすごくおいしく感じたよね」という話でもりあがりました。
そしてきつねは、たぬきと大親友になり、おいしいいちごをお腹いっぱい食べることができました。」
きっと掴むために頑張ったのなら、そこに甘くないぶどうはない。
頑張ったけどぶどうを掴めなくてはじめて見えてくる世界があるかもしれない。
ぶどうを掴めなかったという「結果」だけで世の中は回っている訳じゃない、と私は思う。
だとすれば、私はちゃんと期待を背負って書こう、と思えるのだった。
期待を超えるように頑張ってあがこう、と。
そう思った時にやっと私は「期待してもらえるなんて、こんなにありがたいことはない」って思えた。私に期待してくれる人に、心の底から感謝できた。
私が川代さんや三浦さんの文章を読んだ時に経験した「ふるえ」は、
「期待に応えられなかったらどうしよう」っていうふるえでもあるけれど、
もしかしたら俗に言う「武者震い」でもあるのかもしれない。
「生きることとは、あがくことだ」――私の大好きな作家さんの言葉だ。
あがいて生きられるなんて、なんて幸せなんだろうかと、本当に思う。
あがける自分も、あがくのを許してくれる場所も、あがいて越していこうと思えるものがあることも、今の私は、嬉しくてしょうがないのだ。
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